第9話 十月九日は塾の日

 全国学習塾協会が一九八八(昭和六三)年に制定。

 「じゅ(一〇)く(九)」の語呂合せ。



「尊(たける)が町内にある個人経営の塾に行きたいって言い出したんだけど、どうする?」


 遅くに帰宅して、一人だけの夕飯を食べていると、妻が向かいの席に座り相談してきた。


「おお、良いじゃないか。行かせてあげよう」


 俺は食べてる手を止めてそう答えた。


「でもレベルは低いみたいなのよ」

「自分が行きたいって意思を尊重しようって話だったんだから良いじゃないか」

「そうよね……分かった。許可して手続するわ」


 俺は何事にも自分がやる気にならないと身に付かないという信念を持っている。だから尊が生まれる時に、妻と自主性を尊重した育て方をしようと話し合っていた。尊が五年生になった現在までその方針で育てている。だから今回の判断は方針通りなのだが、俺にはそれとは別に、塾に行かせたい理由があった。



 俺が今の尊と同じ小学校五年生の時のこと。全然勉強しない俺を心配して、親が無理やり塾に通わせようとした。俺は抵抗したが、お小遣いを盾に取られては従うしかなかった。

 入った塾は個人経営のアットホームな雰囲気で、自分で言うのもなんだがやる気のない俺が通っても成績が上がるとは思えなかった。実際毎回仕方なく行ってはいたが、時間潰ししているだけだった。

 そんな俺の塾生活が劇的に変わる事件があった。ある女の子が入塾してきたのだ。

 彼女の名は高坂(こうさか)。他の生徒とは明らかに違う上品な雰囲気と、人形のように現実離れした容姿を持つ女の子だった。

 塾の行き帰りも運転手付きの車で送迎。いつも制服で通っていたが、近所の公立校ではなく私学校のようだった。

 有ろうことか、俺はその高坂に恋をしてしまった。当時の俺は身の程をわきまえられるような大人ではなかったのだ。

 嫌々通っていた塾が楽しくなったのは良いが、高坂と話すチャンスはなかなか訪れない。


 そんなある日。塾が終わって外に出ると、道路わきで高坂が立っていた。いつもなら塾が終わる時間には迎えの車が待っていて、すぐに帰って行くのに。

 俺はチャンスと思って高坂に近付いた。


「どうしたの? 車が来てないの?」


 俺が声を掛けると高坂は振り返り、少し驚いた顔をする。


「あ、あの……」

「あっ、俺、同じ塾の吉田」

「ごめん……塾で友達が出来ないから、名前が覚えられなくて……」

「いや全然、まだ入ったばかりだから仕方ないよ。今日はお迎えの車は来ていないの?」

「うん、遅れるからここで待ってろって」


 これはチャンスだ。少し話す時間があるかも。


「あっ、それなら少し話をして良いかな?」

「ありがとう。一人で待っているのが心細かったの」


 勇気を出して良かった。やっと高坂と話が出来る。

 高坂は某有名私学大学の付属小学校に通っていて、この塾は庶民的な小学生との交流も必要だと親から勧められて入ったらしい。でも人見知りする高坂は自分から話すことも出来ずに孤立してしまった。だから俺が声を掛けたのは本当に嬉しかったようだ。


 その日を境に、俺と高坂は塾で話をするようになった。授業中でも目が合うと微笑んでくれる。それが可愛くて、俺はますます高坂が好きになっていった。もっと親しくなりたかったが、まだ子供で行動力もなく、塾以外で会うことは出来ない。俺は携帯を持っておらず、連絡すら取れなかった。

 唯一高坂と会える塾は俺の一番の楽しみとなった。だが、その楽しみも長くは続かなかった。六年生になると高坂は親の指示で塾を辞めてしまったのだ。


「同じ中学に入学したら、また会えるよね?」


 最後に会った時に高坂が言った言葉だ。


「うん、俺も絶対に合格して入学するよ」


 安心して笑う高坂は可愛かった。俺はその顔を見て死ぬ気で頑張ろうと誓った。

 それから俺の猛勉強が始まる。だが、一年では合格まで届かず、俺は公立の中学に入学した。

 それでも俺は諦めなかった。必死で勉強して付属高校の合格を目指したのだ。三年後なんとか合格したが、併願で受験した公立高校も合格してしまう。親に金銭的なことで泣き付かれ、結局公立高校に進学することになった。だがそこでも大学受験を目指して猛勉強を続けた。大学なら奨学金を借りてでも高坂と同じ学校に行くつもりだったのだ。

 俺は高校三年間を勉強に捧げ、受験を迎えた。結果、高坂の大学を無事合格。だが同時に国立大学まで合格してしまった。

 当時、俺は俺の意思で国立大学に進んだ。そこで今の妻と出会い、卒業後二年で結婚、今に至る。



 高坂が塾を辞めて以来、彼女とは会っていない。だが俺の胸の中にはあの頃の高坂が居る。妻に話してはいないが、今でも俺は何かで挫折しそうな時は高坂を思い浮かべ、彼女に恥ずかしくないように頑張っているのだ。

 今の高坂に会いたい気持ちは無い。俺は妻や子供を愛している。自分を犠牲にしてでも守りたいと思っている。高坂は俺にとって象徴なのだ。彼女に出会えて本当に良かったと思っている。俺が頑張って今の暮らしを手に入れられたのは、胸の中にある高坂のお陰だから。

 俺は密かに、尊にもそんな出会いが有るように願っている。それがこれから通う塾であれば最高だ。

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