I Hate Rain

肆伍六 漆八

私は雨が嫌いだ

 私は、雨が嫌いだ。


 雨の日なんて、朝電車は止まるわ、髪は乾かないわ、洗濯の予定も狂うわ、靴下まで濡れて、傘という荷物も増えて、良いことなんて一つもない。


 休日だってそう。せっかくの休みでも、外出する気が失せてしまう。水族館とか、図書館とか、行きたい場所は沢山あるのに、結局“家からすぐの喫茶店”で、ずっと変わらない景色を見て、ため息をつくことになるのだ。


 土曜日。よりによって今日も雨。いつもの時間、いつも通りお風呂に入る。誰に見せるでもない髪を整えて、誰に見せるでもない顔に化粧をする。手間で手間でしようがない。いつもと同じ鞄に、いつもと同じ小説を入れる。


 傘をさす。雨を受け止める音は嫌いではない。どこか落ち着くような、そうでもないような。

 そうやって、わざわざ屋根から水が滴る真下を、傘をさして歩くのだ。


 歩くうちに、いつもの喫茶店に着く。下町情緒あふれるというか、なんというか。

 テレビで紹介というよりは、雑誌に小さく取り扱われるような、小洒落たお店。


 この店との出会いはそう、天気予報が外れた日。

 友達と出かける予定が流れて“じゃあ”と“近所を出歩いて”出会った。マスターもウェイターさんも愛想がよくて、人も多すぎず過ごしやすい。

 雨音にコーヒーの香りをブレンドして、お気に入りの小説をたしなむ、というルーチンが出来上がったのだ。


 私の行動範囲を狭めた要因はそれだけに飽き足らず、軽食もこだわりの一品ばかり。

 と考えつつも、結局いつも通りモーニングトーストとコーヒーを注文する。

 いつものウェイターさんに、いつも通りの注文をする。でもそこで気安くパーソナルスペースに入り込まずに「かしこまりました」と会釈をして、上品な振舞で奥へと消えていく。いつ見てもしっかりしていて、気分がいい。


 食事が運ばれ、コーヒーの香りと、相変わらず素晴らしい焼き加減のパンから上る香ばしさが、奏でられる雨音に彩を加えてくれる。

 そして私は、一枚また一枚と、小説のページをめくりながら、文字を目で追っていくのだ。

 この小説は、この喫茶店で読むと決めている。


 ウェイターの靴音、時折風が運ぶブレンドコーヒーの香りが、休日の私の気分を静かに高めてくれる。雨音、食器が立てる音、ウェイターさんの声や靴音の中に、ページをめくる音が混ざり、時折“自分は煩くないだろうか”と心配になりつつも、このオケに加わることを嬉しく思う。


 そしていつもの時間、お会計を済ませ、いつも通り帰路につく。


「げ」


 わかりやすい声が出た。私の傘が無い。この店に通う紳士方はある意味顔見知りと言っても過言ではないだろう。そんな彼らが“ちょっと借りるね!”なんて軽快に持って行くことは考えにくい。駅も近いので、どこかの誰かがこの傘たちの中で最も当り障りのない、私のビニール傘に目を付けたのだろう。


「どうされました?」


「え?」


 私に声をかけたのは、私服に着替え青年へと戻ったウェイターだった。どうやら今日は早上がりらしい。


「えっと……その……」

「あ、傘! ……ですよね? いつもビニ傘ですから、誰かに持って行かれちゃったんですかね」

「……そうみたいです……ははは」

「折り畳みとか、持ってないですか?」

「はい……」

「どうです? よかったら都合がいいところまでお送りしますよ?」


 そう言って彼は、大きめの傘をさしてくれた。


「いえいえ! いいんですそんな! す、すぐそこなので! 本当にっ!」

「すぐそこなら、なおさら遠慮なさらずに」


 彼の微笑みは、まるで天使のようだった。

 あぁ、素っ頓狂な声も聞かれてしまうし、傘は持って行かれるし、緊張で胸が痛くて、呼吸も乱れそう……。


「お待たせしました。どちらまで?」

「えぇと……」


 歩き出してすぐに雨脚が強まって、遠慮も強がりもかえって逆効果なような気がして、私は赤面しながら声を絞り出した。


「すいません……実は、十五分くらい歩きます……〇〇駅の、近くまで」

「そうなんですね! 僕もそっち方面なので、ちょうどいいですね」


 そう笑ってくれた彼の、左肩が濡れていた。


 それから私と彼は、十五分程歩きながら、色々と話をした。

 嘘だ。私が喋りっぱなしで、彼は静かに聞いてくれていた。

 家につく頃には緊張もほぐれていて、手を振って、お礼を言ってお別れをした。


 全く、今度何か、お礼を持って行かないと。また休日が潰れてしまう。


 そしてまた、何度目かの雨の日が来た。いつもの鞄、いつもの小説を持って出かける。


「いつもその本、読んでますね」

「え?」

「同じ本、何度も読む派ですか? 僕も映画は同じの繰り返し見ちゃう派で、気持ちわかるなぁ」


 彼の笑顔が眩しい。

 あれから少しだけ、距離が縮まった気がする。

 そして結局、彼と話す度に、小説の内容は頭からどこかへ行ってしまう。


 そうして内容が思い出せず、結局最初から読む羽目になる。

 あぁ、本には悪いことをしたなぁと、つくづく思う。


 だから私は、雨が嫌いなのだ。

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I Hate Rain 肆伍六 漆八 @shi_go_roku

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