2 いざない



「《おーおーきなノッポのさかさま樫》っ」

 ずどん!!

 ものすごい音がして、屋外実習場は唖然呆然驚愕の渦に飲み込まれた。

 期末試験のメインイベントは毎期恒例、自由課題の公開術式実践だ。そこでセツナが披露してみせたのは、間の抜けた共通語呪文からの超超高精密四層立体術式。術名そのまま、樫の木を逆さまにひっくり返したものを出現させる術だ。だが見ろよ、あの大きさを! 高さは5階建ての第1講堂を軽く超え、悠々と伸ばされた枝や根は実習場を埋めるほど。樹皮表面は本物の木と見分けがつかない精度で再現され、なにより、枝を地につけ根を天に広げているという非現実的な光景が圧倒的な現実感をもって具象化している。概念アイディアル構造体ストラクチャの強固さが教授陣をすら軽く凌駕しているのだ。はっきり言って学生レベルの作品ではない。目のある人なら誰でも呆気に取られて当然!

 ほら見ろ、そうそうたる試験官のお歴々れきれき雁首がんくびそろえて青ざめてるじゃないか。わはははは! 気持ちいいなあ。見学しに来て良かった。俺が教えたんだぜ、アレ。

 ところが。

「うーん……これは……どうでしょうね」

 試験官のひとりが、やけに難しい顔をして隣の教授に目を向ける。

「テオさんも思いました? 私もです」

「えーっ、いいんじゃないですか? 僕は好きですよ、型破りで」

「うん。術の精度と規模は学生離れしてますね、確かに」

共通語コモンで術式を記述してしまおうという発想も新しい」

「ただ……試験の趣旨には反するんだよなあ」

 なんだか雲行きが怪しくなってきやがった。俺はさりげなく審査員席に近寄り、彼らの議論に耳を澄ました。セツナは《さかさま樫》の幹のそばに緊張の面持ちで突っ立って、胸の前の杖を、両手ですがりつくように握りしめている。

「セツナくん」

「へぁい」

「期末試験はね、授業で習ったことをどれだけ身に着けているか、というチェックの場だから。

 神業でこそあるが……君のそれは完全な我流。大学で教わった理論じゃないだろう?」

 しまった!!

 俺は馬鹿だ。なんでこの反応を予測できなかったんだ。セツナの天才の美しさに酔いしれるあまり、試験で求められているもののことを忘れていた。とにかくまともな術を使えるようにしてやろう、とそれしか考えていなかったんだ。

 すまないセツナ、俺のミスだ。ああっ……ごめん、泣くな。もう垂れ目の目尻が涙で一杯で、今にもこぼれ落ちそうじゃないか。畜生。今すぐ駆け寄って慰めたいが、試験中に部外者が立ちいればそれだけで不合格にされかねない。

「っぐ……ちっ……がうもんっ……」

 セツナがしゃくり上げながら切れ切れの声で訴える。

「セツナ、習ったもんっ……」

「ほう? 誰に?」

 あっ、やめろ……

先生センスェ……」

 うるみきった瞳で俺を見る。

 その直後、教授陣の視線が一斉に俺を突き刺した。

 あっちゃあー……

「あれは誰です?」

「クライド君ですね。セントレア学生寮カレッジづきの」

「準教員か。ふうん」

 視線が痛い。

 『余計なことしやがって』『半素人の生兵法だな』爺様たちの目が、冷ややかにそう語っている。すぐに彼らがセツナの方へ向き直ったのをいいことに、俺はこぶしを握り固めた。畜生。馬鹿野郎。うるせえぞクソどもが。お前らは丸一年以上もかけてセツナにひとつも術式を作らせてやれなかったじゃないか。俺はやったぞ。1ヶ月半でものにしたんだ。文句を言われる筋合いはねえぞ。その後頭部にこのゲンコツを叩き込んでやろうか!?

 だが俺にはできない。そんなことしたら即クビだ。まだ飢え死にはしたくない。それに……俺がここで暴れたら、きっとセツナにも迷惑をかける。俺の中の“大人”が俺を無力化する。“大人”? それはカッコつけ過ぎか。ただの“打算”だよな……

 試験官たちは少しの間、ひそひそとささやきあっていたが、やがて互いにうなずき交わすと、セツナに向けてこう切り出した。

「話がまとまりました。セツナくん?」

「ぅ……」

「“優”をつけてはあげられないが、今回は、“可”ということで進級を認めましょう。君の努力に免じてね」

 うお!

 俺は目を見張った。まじかよ! 教授の後頭部を見る。セツナを見る。セツナも俺を見ていた。目を丸々と見開いて、興奮に頬を上気させ、濡れた目でじっと俺を見つめていた。

「だがセツナくん、覚えておきなさい。

 大学はおとぎ話の“魔法使い”を育てる場ではない。

 魔術を学問として極め、発展させていく学究の場です。

 あらゆる知識や技術は、理論化され、書物に記され、後世に受け継がれてはじめて価値を持つ。

 君ひとりにしか実現できない、他人に説明することもできない、そんな神業は……ここでは全くの無価値、なのですよ」



   *



 悪かった。

 俺が浅はかだった。

 試験が終わり、セツナは逃げるように退出し、俺は見学者出入り口から実習場を出てセツナのもとへ走った。だが俺が中央ゲートに駆けつけたときにはセツナの姿はもうそこにはなく、そこらの通行人に尋ねてみてもそんな学生は見てないという。

 どこ行ったんだ、セツナ。

 謝らなきゃ。俺のせいで傷つけてしまった。あんな酷いことを言われて、セツナはきっと泣いてる。すまないセツナ。あいつの涙を止めてやらなきゃ……

 寮の部屋にもいない。教室にも。食堂にも。本講堂の方になんか寄り付くはずもないだろうが、念のため確認してみて、やっぱりいない。大学中を駆けずり回り、どこにもセツナの姿を見いだせず、途方に暮れた俺の足は、自然といつもの“隙間”に向いた。疲れと失意が俺を一番安心できる場所へ導いたんだ。

 いや、俺は全くバカだ。なんで真っ先に思いつかなかったんだろう。

 セツナは“隙間”で、壁にお尻をつけて待っていた。

先生センスェ!」

 泣いてる? かと思ったら、むしろセツナは満面の笑みで、だらしなく目尻を垂らして俺の顔を見上げている。“隙間”に身体をねじ込んだ俺に、足をもじもじすり合わせながら、半歩身を寄せてくる。

「セツナ……」

「見てた?」

「試験? 見てたよ」

「どう?」

 そう聞かれたら、答えはひとつに決まってる。

「すごかった。あんな術式見たことねえ」

「えらい?」

「ああ。えらい」

「うひ」

「よく頑張ったな、セツナ」

「うっ、うひひひひひひ!! きゃーあー!!」

 奇声を発して俺に抱きつくセツナ。アゴと首をぴたりと俺の腹につけ、顔を見上げてニヘラと笑う。

「でっけえなあ」

「なにが?」

「背! 先生センスェ、でっけえなあ」

「こういうのを独活ウド大木たいぼくって言うんだ」

「ウドォ?」

 セツナの唇が笑い声の振動で俺の腹をくすぐる。

「かーわいいっ!」



   *



 その夜から、セツナは変わった。

 何が変わったのか、正直俺にもよく分からない。ただ、言葉ではとても言い表せない何かが、セツナの中で確かに切り替わった、そんな気がする。夜の個人授業も相変わらず続けている。どうにか進級できたとはいえ、半年後にはまた期末試験が待っているのだ。時間を無駄にする余裕はない。以前よりセツナのやる気も上がっている気がする。何よりも、俺の話を聞くときの真剣味が違う。一言一句逃さすものか、という気迫がビリビリと肌に伝わってくる。

先生センスェ? お願い、聞いてぇ?」

「いいよ。なんだ?」

「あんねえ。呪文、いっぱい翻訳してほしいなあ」

共通語コモンにか? でも次はたぶん認めてもらえないぜ」

「んでもー。とりあえず、セツナ、いっぱい魔法、つかいたいにゃあ」

 そうか。それも確かにひとつの手かもしれない。試験では評価されなくても、とりあえず術式を組めるようになりさえすれば、実験の補助や理論の確認なんかには充分役立つ。少し寄り道になるが無駄ではあるまい。

 そういうわけで、俺はその日から、知る限りのあらゆる術式の共通語コモン訳に取り組んだ。大変な仕事だった。何しろ前代未聞の試みだから、前例も無ければ辞書もない。単語ひとつひとつの定訳すら確立されていない。一晩かけてやっと術を2つか3つ。原文と訳文を走り書きしたものを翌朝渡してやると、セツナはいつも小躍りして部屋に持ち込んでいく。まるでお気に入りのおもちゃを渡された犬みたいだ。その後ろ姿とお礼の「ありがとー! ちゅ!」なんて投げキスが嬉しくて、俺はすっかり寝不足だ。

 そんな暮らしが1ヶ月続いたある晩のこと。連日の無理がたたって酷い睡魔に襲われ、呪文の翻訳の途中で居眠りし始めた俺を、ノックの音が叩き起こした。

 寮づき講師として寮の一室をてがわれてもう10年になるが、俺の部屋を客が訪れたのはこれが初めてだ。それもこんな深夜に。一体誰だ? とドアを薄く開けてみれば、部屋の中の頼りない《発光》に照らさられて、セツナの不安顔がぼんやりと浮かび上がってくる。

「お……どうした、こんな夜中に」

「入っていい?」

「え、まあ、いいけど」

 半端に開けたドアの隙間から滑り込むように入ってきたセツナは、初めて見る寝間着ねまき姿だった。寝間着ねまきといっても薄い綿めんの肌着一枚。まっすぐに垂れた柔らかな布の内側に、肩や腰の丸い膨らみがさりげなく浮き出ていて、俺はつい、どぎまぎしてしまう。

「えっと、それで、何か……」

「分かんないとこあってェ……教えて?」

「なんだ質問かあ。いいよ、熱心だな」

 セツナが俺のベットに腰掛ける。俺を見上げて、自分の隣をぽんぽん叩いて俺を誘う。少しためらいながら俺が座ると、セツナは「ぷひゅ!」と吹き出しながら、俺から逃げるようにベッドへ倒れ込む。なんなんだ一体。

「おい。質問があるんじゃねえのか」

「あるお。あんねぇ? ここんとこなんだけど……『見よ、万象は認知のもとで存在し』ってとこぉ、敬意度logeAT^(kn+sinωt)ってなるはずなのにい、どう計算してもsinが2以上になっちゃうんすけど……」

「ああ。それは二重延展効果つってな。まずコボルの限界の……」

 って、

「ちょっと待て。お前、その敬意度計算どうやった?」

「それはあ、前後の文字定数から特性方程式組んでえ、漸化式にしてえ、不等式にしてえ、はさみうちでえ……」

「テンジーの呪文子論じゃねえか!! そんな高度なことまだ教えてねえぞ、なんで知ってる!?」

「そりわ、えと……読んだ」

「何を?」

「図書館で……本」

「論文の写本か」

「そう」

 絶句。

 絶句だ。言葉が出ない。

 テンジーの呪文子論というのは、今からほんの20年ほど前にセレン魔法学園のK・J・ジブリールという大天才が完成させたばかりの最先端理論だ。大学でも卒業間際の時期に、それもせいぜい概要を学ぶのみ。それほど難解なやつで、正直俺さえ全貌は理解しきれてない。

 そんな高度な理論だから、当然、共通語コモンはおろか魔導帝国語にすら翻訳されていない。うちの大書庫にある文献も、法語ルーンで直接記述された論文の写本だけなのだ。それを読んだ? そして理解して、自発的に実践し始めた? ってことは、

「お前法語ルーンが読めるのか?」

「んー。先生センスェの、翻訳してくれたの見てたら、なんとなく……」

 冗談だろ。

 無茶苦茶だ。

 これは……これはとんでもないことに……なってきたんじゃないのか?



   *



 翌日からセツナの授業方針を完全に切り替えた。

 必要なのは、まず本だ。大書庫に駆け込み、厳選に厳選を重ねて世界最高の良書を3冊借り出す。それをセツナの目の前にドンと積んで、

「全部読め! 面白いから!」

「はーい!!」

 セツナは右手をぴんと上げて元気な返答。素直でよろしい。

 そこからの俺の興奮が分かるか? セツナは俺が選んだ魔術学の基礎にして真髄を語る書物群をむさぼるように読み始めた。すさまじい集中力。声をかけても聞こえちゃいない。食い意地のはったあのセツナが、昼飯と晩飯の時間すら忘れて読みふける。俺は食堂から彼女のぶんの食事を運んだ。空腹でぱくぱくしている口に食べ物を差し込むと、無意識に噛んで飲み下す。なんか小動物に餌付けしてるみたいだが、それでもセツナは俺の存在に気づいてないんだ。

 たった1日で3冊全て読み終えた。その夜の個人授業が始まるなり、黒板に術式を書き記しながら俺はこう問いかける。

「呪文と魔法陣がこのように不整合である。このときの作用関数を求めてみろ」

 セツナは即座に立ち上がり、俺から白墨チョークを受け取って、迷いなく数式を書き下す。

 正解!!

 やった! やったぞ!! ちゃんと本の内容を理解してる。それどころか読んだことをすぐさま実践できるほどに把握している。彼女は本当に法語ルーンを習得したんだ。信じられない! あらゆる学生が10年がかりで取り組み、それでも完全にはマスターしきれない神の言語を、たったの1ヶ月余りで! すごすぎる。ここまでくればもうなんの心配もない。俺の仕事はたったふたつ、大書庫の莫大な蔵書の中から真に読むべき本を選んで彼女の前に積み上げること。そして独力では理解しきれなかった点を解説してやること。1年半の遅れなんかあっという間に取り返せる。大学の授業にも余裕でついていけるようになる!

 かくして俺とセツナは、ふたり一緒に学の広野を疾走し始めた。俺が選び、セツナが読む。夜には寮の教室で、時には俺の個室の中で、時を忘れて意見を戦わせる。セツナは乾いた砂のように知識を吸収し、すさまじい勢いで成長し始めた。

 正直に言おう。俺は彼女に魅了されていた。目もくらまんばかりの天賦てんぷの才。俺の発する一言一言を一度で記憶し理解する真摯しんしな耳。舌ったらずな猫なで声で、信じられないくらいに鋭い問いを放つ唇。俺は自分の知る限りをセツナに教えた。セツナは学んでも学んでもさらにその先をねだった。貪欲どんよくに、まるで俺という知識の塊を喰い尽くそうとするかのように。

 ああ。いいさ。喰ってくれ。お前になら、いくらでも俺を喰わせてやる。



   *



 1ヶ月が過ぎ、2ヶ月が過ぎ、セツナの表情はは目に見えて明るくなってきた。朝、意気揚々と寮を出る彼女に、かつてのような憂鬱と怠惰の色はもはやない。夕暮れ時にはいつもセツナが聞かせてくれた。今日学んだこと。覚えた魔法。読んだ本。初々しい知への欲求が、俺にはたまらなく好もしかった。

 あの子は大学でどんなふうに授業を受けているのだろうか? 一度この目で診たくなった俺は、ちょっと大学に顔を出してみた。といっても正教員資格のない俺には正式な見学も認められない。で、廊下からドアの隙間越しに、そっと講堂の中をのぞいてみる。

 教壇には痩せた老講師が枯れ木のように立っていた。満座の学生をぐるりと睨み、鋭く問を投げかける。

「敬意度計算の際、丁寧助動詞の活用による変数が常温常圧条件においては極めて小と見積もられるにも関わらず、通常その項を無視しない。これはなぜか?」

 うえ!?

 そりゃキツいだろ……。2年生に出すような問題じゃない。講師は修辞学部のラハトイエ爺様か……俺が学生の頃からいる名物講師だが、厳しすぎて学生人気ないんだよなあ。

 ラハトイエ爺が端の席の生徒を指し、立たせた。案の定答えられない。爺様は座ることを許可せず次の子を立たせる。次。次。そのまた次。満ち潮が浜を飲み込むように片っ端から立たされていく学生諸君。なかなかつらい状況だ。このまま全員立たされることになるのか? と思ったところで、セツナに順番が回ってきた。

 シワだらけの細長い指で指されて、半泣きで立ち上がるセツナ。おそる、おそる、震える声で、

「あのォ……そりわぁ……ダマン係数が、反比例ハンピレー的に増加すりから……」

 お!?

 浮き足立つ俺。目を細める爺。

 老講師ラハトイエは教本にそっと手を置き、セツナの頭脳へ探りを入れるように問を重ねる。

「その根拠は?」

「えっとぉ……呪文子の数があ……あ、うそ、うそです、面積密度。おっきくなるだからァ、そのぶん、そ、そ、そ……」

 いいぞセツナ! そこまでは合ってる! 頑張れ! 負けるな! もう一言! 手に汗握る俺が喉元まで出しかかってたアドバイスを、かわりに老講師がぼそりと囁く。

「相互作用」

「そう! ごさよう! の、分子の項がでっかくなるです」

 よしッ!!

「なるほど。

 だが、常温常圧という条件を忘れていないか?」

「うに?」

「熱放射によってエネルギーの一部が失われ、ダマン係数は理想値より低目になるのでは?」

「うにふに……」

 オイこらクソジジイ!! ふざけんな!! それはダマン・プラスタ問題じゃねえか! 幾多の天才たちを悩ませてきた200年来の未解決問題を、右も左も分からん学生に問うか普通!?

 しかしこの難問に、セツナはむしろ興味津々。首を傾げてアゴに指あて、

「そっかあ。ホントだ」

「ヒントをあげよう。もし仮に、エギロカーン現象がコボルの限界以下でも起きるとしたら?」

「あは! そんならイケるゥ! エントロピーの逆進がするからあ、放射した熱が戻ってくるじゃい!! そうなん?」

「さあ?」

「うに?」

「いま君がなした説明はヴェリエ仮説という、目下研究中の有力な説の一つだ。それが正しいかどうか確かめるのは、君たち世代の仕事だよ。

 君の名前は?」

「……せちゅな」

 俺は息を飲んだ。笑ってる。老講師ラハトイエが微笑んでいる。あの爺様を見知ってから10年以上にもなるが、笑顔を見るのは初めてだ。

「セチュナくん。お見事マーヴェラス



   *



 大学の隙間で縮こまってたあの子はもういない。いつもおどおどと周囲の顔色を窺っていたセツナが、今や驚くほど積極的に自分の考えを述べられるようになっていた。まるで別人……いや、逆かもな。今の姿こそがセツナの本性だったんだ。よく話し、よく笑い、そしてなにより、よく学ぶ。快活で愛おしい、若き天才。

 俺は教えた。セツナの無邪気な、だがカミソリのように鋭い質問に答えることが、俺の生きがいになった。後期の期末試験にもセツナは危なげなく合格し、まだ得意不得意のバラツキが激しいにせよ成績表に“優”が並ぶようにもなり、押しも押されぬ優等生として掲示板に名が貼り出されるまでになった。俺は得意だったよ。セツナは俺の生徒だ。俺がこの子を育てたんだぜ!

 だが、セツナと出会って丸一年が過ぎた頃。俺はまたしても自分の考えの甘さを思い知らされることになった。

 セツナの質問に……答えられなくなり始めたんだ。

 セツナの進歩はあまりにも速すぎた。俺の選んだ本ばかりではない、最近はとにかく読むのが楽しいらしく、暇さえあれば大書庫に通って、目についた論文や古書を片っ端から読んでいる。

 おわかりだろうか。

 そうさ。セツナは早くも

 俺の知らないこと、知ってはいるが完全には理解しきれなかったことを、セツナは自力で次々に学んでいく。乾いた砂どころじゃない、彼女は水のない大洋なんだ。からからに干からびてひび割れていた海底に、今、怒涛の勢いで莫大な知識の水が流れ込み始めた。もうこの流れは止まらない。本物の天才が、自分の天分を知ってしまった。俺のような凡人には、到底とうていついて行けるものじゃない。

 それに気づいたとき、俺の背筋を冷たいものが駆け抜けた。

 俺は、もう、

 そんなのは嫌だ! 俺は焦り始めた。俺が導き、セツナがついてくる、それだけが俺とセツナの接点だった。なのに教師としてすら役に立てなくなったなら俺は本当に無価値になってしまう。

 俺は書庫に通うようになった。セツナに隠れて、こそこそと。いけすかない教授たちに頭を下げ、腰を低くして頼み込み、本来なら準教員がアクセスできない閉架書庫の閲覧を許してもらった。

 そして学んだ。学生時代に投げ出してしまった高度な理論、わけのわからない計算、恐ろしく難解な神代の古文書。俺の手に余る無数の書物を必死になって読み漁った。「十を読んでようやく一を知る」、それしかできないなら百の書を読むしかない。千の書にあたるしかない。

 そうして昼間学んだことを、夜になれば、したり顔でセツナに教える。そうとは知らないセツナは、好奇心に目を輝かせて俺の講義を聞いてくれる。そして俺が一週間かけてやっとたどり着いた結論を、たったの数時間でものにしてしまう!

 畜生。負けるか! 俺はずっとお前に教えたいんだ!!

 もう寝不足どころじゃない。ほとんど寝る暇もなくなった。俺は日に日に憔悴しょうすいしていく。セツナの知識はとっくに教員たちの水準を大きく超えたところにまで達している。苦しい。泣きたい。どれだけ勉強しても追いつかない。格が違いすぎる。とても無理だ。

 俺にはもう、何も教えることが残ってない……



   *



 そんなある日のことだった。

 セツナが寮の部屋に来て、

先生センスェ! 本読みに行こ?」

 と誘うので、俺たちは連れ立って書庫にでかけた。並んで歩いていると、セツナは俺の腕にまとわりつき、手のあちこちを突きまわしながら、

「うひ! 指に毛が生えてるぅ!」

「なんだよ。男なんだから珍しくもないだろ」

「男なんだあ? いっひひひ!」

 何が嬉しいんだか、ずっとニヤニヤしっぱなしだ。

 一方の俺は、セツナの奇行にいちいち反応する気力もない。目には色濃くくまが浮き出て、歩く足すらおぼつかない。気を抜くと立ったまま眠ってしまいそう。それでも読まなきゃ。今夜セツナに教えるネタが、もう完全に尽きているんだから……

 朦朧もうろうとしていた俺は、大書庫の玄関前に人が立っていることにも気づかなかった。危うく衝突しかけ、向こうから注意されてようやく我に返る。反射的に頭を下げて非礼をび、顔を上げたところで俺は硬直した。

 相手はまだ若い、二十歳はたちそこそこの魔術士だった。落ち着いた物腰と温和そうな目つきの奥に、研ぎ澄まされた知性の光が爛々らんらんと輝いている。見たことのない男だ。うちの大学の教員ではない。それが証拠に、首からげられたペンダントに、どこかで見たような紋章エンブレムが刻まれている。

「あなたは」

 目を見張る俺の袖を、つい、とセツナが引っ張った。

「誰ェ?」

「魔法学園の方ですね?」

「魔法学園教師、ニキ・ヴィッシュトンと申します。そういう貴方はクライド先生……そしてその子がセツナさん」

 は?

 この男、なぜ俺たちの名前を知っている? 無意識に身構えた俺に、魔法学園からの客は苦笑した。

「あなたを誘いに来たんです。

 セツナさん……世界最高の環境で、最先端の魔術を学んでみたいとは思いませんか?」



(つづく)

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