第3話 陽炎姫は魔王に出会う
頬にそっと触れるひんやりとした感覚――。
フェリシアは目を覚ました。
ゆっくりと目を開けると、傍らにはフェリシアを覗き込む鮮紅の双眼。月明かりに照らされ、輝きを放っている。
『やっぱり、綺麗…』
意識を失う前に目にした妖しくも美しい瞳。
ただし、その瞳が覗くのは、不気味な山羊の頭蓋骨の眼窩だった。
『黄泉の国…?』
ここは、人ならざる者が住まう場所なのだろうか。それならば、母や兄にも会えるだろうか。
『お母様、お兄様…。会いたい…』
涙が滲み、視界がぼやける。ゆらゆらと赤い瞳が涙の波間を漂う。
しかし、徐々に覚醒し始めたフェリシアは、頬に触れるひんやりしたものが、その瞳の持ち主の手だと気づいた。山羊の頭蓋骨は、そうした面をつけているだけのようだ。死神や悪魔などではない、優しい、人の手の感覚。
その手がそっとフェリシアの目尻の涙を拭ってくれた。
ゆっくりと辺りを見回す。まるでフェリシアの視線に合わせるようにぽう、ぽう、と燭台に火が灯っていく。室内には山羊の頭蓋骨の面の人物意外に人影は見当たらないが、何故火が灯っていくのだろうか。
『まるで…見えない誰かがそこにいるみたい…』
フェリシアはゆらゆらと揺れる蠟燭の炎を見つめて、ぼんやりと考えていた。
幻想的に照らし出されたその場所は、どこかの
あまり物は置かれていないが、設えられた調度品は落ち着いていて重厚感があり、質も良さそうだ。フェリシアが横たわっているのは、天蓋の付いた大きなベッドだった。
『私、生きてる…』
生を実感すると同時に、襲い来る暴漢たちの姿が脳裏によぎり、嫌な汗が噴き出す。
自身に向けられた恐ろしい殺意を思い出すと身震いがした。蘇る恐怖に、呼吸は浅くなり、心臓が早鐘を打ち始める。
あの時助けが入らなければ、命はなかっただろう。生きる希望も、生きる意味も見失いかけていたというのに、実際に命の危機に瀕すれば、恐怖を覚える。これが生き物の本能なのだろうか。
再び恐怖に支配されそうになったフェリシアの心を引き戻すように、ぎゅっと手が握られる。
「ゆっくり、呼吸をするんだ。もう大丈夫だから」
すべてを包み込むように優しく響く、どこか懐かしさを感じさせる低く澄んだ声。
フェリシアは握られた手を、知らず知らずのうちに強く握り返していた。
「大丈夫だ。さあ、ゆっくり息を吐いて。ゆっくり吸って」
声に従い、目を閉じてゆっくりと呼吸を繰り返す。
いつの間にか、兄がしてくれていたように優しく頭も撫でられていた。握られた手が、頭を撫でる手が、大丈夫だと言い聞かせてくれているような感覚。じんわりと安心感が広がっていく。
だんだんと呼吸が整ってくると、動悸も次第に収まってきた。
しばらくして落ち着きを取り戻したフェリシアは、深く息をついて目を開けた。心配気にフェリシアを覗き込んでいた紅い瞳を見つめ、口を開く。
「助けてくださり、ありがとうございます。私はデュプラ侯爵家長女、フェリシア・ド・デュプラと申します」
悪魔のような山羊の頭蓋骨の面をつけた人物は、一瞬躊躇いを見せたように目を閉じて黙った。それからゆっくりと目を開けて、小さな声で答える。
「──ヨアン。ヨアン・ド・ラ・ドゥメルクだ」
「ヨアン様…」
どこかで耳にした名のように思えたが、思い出そうとすると、頭が鈍く傷んだ。
痛みに顔を歪めたフェリシアを見て赤い瞳が心配そうに揺らぎ、手に力が籠る。
「痛むか?頭を動かさない方がいい」
『私、あの時頭を打って…』
まだ少し、記憶が混濁していた。ズキズキと痛む頭を巡らす。
鮮紅の瞳、山羊の頭蓋骨の面。馬車が襲われた場所は確か、隣国とルベライト王国を隔てる森──。
「”魔王”様…?」
ヨアン・ド・ラ・ドゥメルク公爵。
それは、隣国カルセドニー帝国とルベライト王国を分かつ境界の森の奥にある古城に住む、最恐と畏怖される”魔王”の名だ。
その人物に記憶が繋がったフェリシアは、もう一度面から覗く瞳に視線を合わせた。
闇に吸い込まれそうな黒衣に身を包んだ魔王が、フェリシアの手を握っていた。
「そうだ。どうやら俺はそう呼ばれているらしい」
悪魔のような面の下の表情は窺い知れないが、その手は優しく、フェリシアを慈しんでいるように感じる。
『ここは、魔王様…ドゥメルク公爵閣下のお城なのだわ』
面の奥の鮮紅の瞳が、フェリシアの真っ直ぐな視線を受けて揺らいだ。
”魔王”と呼ばれるこの人物は、国王の年の離れた異母弟である。魔力を持つ王族の中でも、生まれつきずば抜けて魔力が強い。血のように紅い瞳と強すぎる魔力から、まるで悪魔のようだと恐れられ、いつしか”魔王”と呼ばれるようになった。
魔物が住まう深い森に建つ古城に引き籠り、人を寄せつけない。気に入らない人物は、魔力をもって葬る。森の奥からは時折地獄の底から絞り出されるような恐ろしい唸り声が聞こえるため、人々は恐怖でほとんど森には立ち入らない──。
それが、王妃教育を受けた際にフェリシアが得た、”魔王”に対する知識だった。
”魔王”ヨアンは、王太子アレクシスとたった2歳しか違わないが、アレクシスの叔父にあたる人物。しかし、これまでフェリシアと森に籠るヨアンが顔を合わせることは一度もなかった。アレクシスの口からも、ヨアンの話を聞いたことはない。恐ろしい噂ばかりが耳に入っていたが、目の前にいるこの人物からは、不気味な面はどうあれ、そのような恐ろしい気配は感じられなかった。
「俺が怖いか?だが、俺はフェリシアの敵ではない。フェリシアに危害を加えることは絶対にないと誓う。この城には結界が張ってある。ここは安全だ。何も心配せず、今はゆっくり体を休めろ」
おどろおどろしい山羊の頭蓋骨の面にそぐわない、穏やかで心に染み入る声音。やはりどこかでこの声を聞いたことがあるような気がする。ヨアンに会ったことなどないというのに、何故だろうか。
「怖くなど…ございません。閣下は私たちを救ってくださったのですから」
ふと、フェリシアは自分が暴漢に襲われた瞬間、自分を守ろうとしてくれた従者たちのことを思い出す。
「私を守ってくださっていた方々は…?」
「傷を負っているが、皆無事だ。馬車は馬が暴走したようで、行方知れずになってしまったが」
ほっと安堵のため息がこぼれる。馬車も逃げたのなら、御者もきっと無事だろう。
「よかった。皆さん、ご無事だったのですね」
「傷の手当てをして休ませている。傷が深い者もいたから、朝まで城で休ませる。夜が明けたら森の外まで送り届けよう」
『やっぱり、怖い人なんかじゃない』
最初から感じていた、”魔王”のイメージとは異なる人物像に、フェリシアは確信を持った。
噂通りに魔力を振りかざす恐ろしい人物ならば、フェリシアたちを助けたり、ましてや手当をしたりはしないだろう。
「ありがとうございます」
心の底からの感謝の気持ちと共に、フェリシアは微笑んだ。
細く開かれた窓からさあっと風が流れ込み、蝋燭の炎を揺らす。どこかで狼の遠吠えが聞こえたような気がした。
何かに耳を傾けていたような様子だったヨアンがフェリシアに優しく言った。
「フェリシアたちを追ってくる者はもういないようだ。まあ、追ってきたとしてもこの城には目くらましもかけてあるから近づくことはおろか、辿り着くことすらできない。だから、安心して休め」
その気遣うように柔らかく響く声に、何とも言えない安心感を覚えると同時に、再び瞼が重くなってくる。
『この方なら、ここなら、大丈夫…』
「眠れ。お前は俺が守る。大丈夫だ」
ヨアンがまたそっと頭を撫でる。
『この方の手は、どうしてこんなに、気持ちが安らぐのかしら…』
ゆっくりと頭を撫でられ、安堵が広がり瞼の重みに耐えられなくなる。
フェリシアの耳に、ヨアンの声がそっと響いた。
「フェリシア、これからはずっと俺がそばにいる。必ずお前を守る」
『どうして?閣下はなぜ、そんなに私に優しくしてくださるの…?私は、ここにいていいの…?』
その疑問を口にすることはできないまま、フェリシアは再び眠りに落ちていった。
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