黄泉がえり陽炎姫は最恐魔王に溺愛される

彪雅にこ

第1話 至宝は陽炎となる

──ああ、私、とうとう死んでしまうのね…。

 目の前で翻った漆黒のマントに視界を覆われながら、フェリシアは意識を手放した。



 ”陽炎かげろう姫”──それが、フェリシア・ド・デュプラの二つ名である。

 フェリシアは、ルベライト王国の侯爵家であるデュプラ家の長女として生まれた。

 透けるように白い肌に、細くしなやかな体躯。長い睫毛に縁取られた大きな紫色の瞳は深い煌めきを湛え、まるで紫水晶アメシストのよう。すっと通った鼻筋に、赤く色づく小さな口元。腰まで伸びた滑らかなプラチナブロンドは、月の光を閉じ込めたように眩しく輝いている。

 総じて儚げな印象ながら、佇まいは晶瑩玲瓏。神々しいほどの美しさだ。


 病気がちで外出が難しい母のためにと用意された膨大な数の本に囲まれて育ち、母が起き上がれぬ日は3歳年上の兄ベルナールとともに、母の横で様々な本を読んで聞いてもらっては、その喜ぶ顔を見るのが楽しみだった。

 病に伏せる母に聞かせたい、楽しんで欲しいという願いから、ピアノやバイオリンなどの楽器にも親しんだ。

そうしているうちに、自然と勉学に勤しむようになり、楽器を奏でる腕も一流へと成長していった。


 8歳で王国の第一王子アレクシスの婚約者に内定してからは、厳しい妃教育にも不満を漏らすことなく、教養と品位に益々の磨きをかけた。その頃には母も黄泉へと渡ってしまい、父は職務で多忙を極めていた。父に代わりやしきを取り仕切ろうと奮闘する兄にも、心配はかけたくない。

 自分のせいで大切な人たちの手を煩わせないためには、自分に向けられた期待に応えなければ、その一心で、目の前のことに真摯に取り組んだ。


 そうするうちに、フェリシアは人並みならぬ知性と品格を身につけていった。その美しさと聡明さを讃え、”ルベライトの至宝”と呼称を付けられるほどに。


 お茶会や夜会では、フェリシアの周りにいつも人が集まる。

 アレクシスの婚約者という立場がなくても、洗練された品の良い着こなしや装飾品のセンスは一際目を惹く。本人の性格は控えめで自分が表立つことを望んでいなくとも、令嬢たちからの羨望と憧れの的は、いつもフェリシアだった。

「フェリシア様、そのドレスはどちらで?」

「素敵な髪留めですね」

「今度私にも、アクセサリーを選ぶコツをご教授いただけませんか?」

 次々と寄せられる声に、ひとつひとつ誠実に答えていく。そういう真面目さもフェリシアの好ましさだ。そうしているうちに、待ちかねたアレクシスや王妃が声をかけてフェリシアを連れて行くのが常だった。

 妬み嫉みが渦巻く社交界においても、圧倒的に優れている存在を前にすれば、何か嫌がらせをしようという気も起こらないのかもしれない。


 それほどまでに称賛され、尊敬され、アレクシスの妃となる日を切望されていたフェリシアが、”陽炎姫”などと呼ばれるようになったのには理由があった。



 フェリシアが16歳を迎えたその日、王城では王太子となったアレクシスとフェリシアの婚約披露式が行われていた。

 輝く蒼玉サファイアの瞳に華のある端正な顔立ち、艶めくブロンドの髪のアレクシスは、フェリシアの5歳上の21歳。その立場ゆえ、幼い頃から第一王子として、さらには王太子として厳しい教育を受けてきたアレクシスも、聡明で慈愛に溢れていると名高い存在だった。国民からも絶大な人気を誇り、当然貴族の令嬢たちにとっても憧れの存在だ。


 聖堂で婚約の儀式を終えたアレクシスとフェリシアが披露式会場の広間に入ると、歓声が二人を包み込む。

「アレクシス王太子殿下、フェリシア様、ご婚約おめでとうございます!」

「なんて美しいお二人なのかしら!天界から舞い降りたようだわ」

「ああ、とうとうアレクシス王太子殿下が…。でもフェリシア様なら、とってもお似合いだわ」

「フェリシア様、女神のようだ…」


 光を放つような美しさの二人が寄り添う姿に、祝福と羨望の声が溢れる中、アレクシスは愛おしそうに隣に立つフェリシアを見つめ、腕を腰に回して自分の方に引き寄せた。

「フェリシア、皆が祝福してくれているよ」

「きゃあ、素敵ー!」

 一際歓声が高まる。

「アレク様…」

 フェリシアは優しい婚約者を見つめ返し微笑んだ。

『アレク様をお支えして、国のために尽くさなければ。皆様の期待を裏切らないように』

 多くの祝福を受け、フェリシアは今一度静かに決意を固めた。


「アレクシス王太子殿下とフェリシア様に幸あれ!」

 会場中から祝いの言葉を手向けられながら、祝杯のシャンパンに口をつける。


──次の瞬間、フェリシアは崩れ落ちるように床に倒れ込んだ。


 顔面は蒼白になり、息も絶え絶えの様子のフェリシアを見て、アレクシスはすぐに事態の深刻さに気づく。

「フェリシア!フェリシア!!──誰かすぐに医師を呼べ!!」

 アレクシスが叫ぶ声を遠くに聞きながら、フェリシアは深い闇へと落ちていった。



 シャンパンには即効性の猛毒が入れられており、フェリシアは文字通り生死の境を彷徨った。

 ルベライト王国で飲酒が許可されているのは18歳から。まだ16歳のフェリシアには、ノンアルコールのシャンパンが特別に用意されていた。そのシャンパンへの毒の混入――つまり、明らかにフェリシアを狙っての犯行だった。


 一時は心臓も呼吸も止まり、誰もがその死を覚悟したフェリシアだったが、奇跡的に蘇生を果たす。

 しかし、脈と呼吸が戻ってからも危機的状況にあったのは変わらなかった。混入されたのがルベライト王国では今まで使われたことのない毒物だったことで、治療は困難を極めた。

 懸命な治療の末、ようやくフェリシアが意識を取り戻したのは、婚約披露式からおよそ一月後のことだった。


 苦しんでいた間のことは、何も覚えていない。ただ、黄泉へと向かっていたフェリシアの手を、誰かが強く引いて明るい方へと導いてくれたような気がしていた。

「絶対に、死なせはしない」

 頭の中にずっと、響いていた声。目を覚ましたフェリシアは、ぼんやりとその手の感触を思い出していた。



 毒物との壮絶な戦いの末、黄泉から生還したフェリシアに叩きつけられたのは、さらに残酷な現実だった。

「残念ながら、フェリシア様が今後お子を成すことは難しいでしょう」

 フェリシアは毒の後遺症で、子を成すことはできない体になったと診断を受けたのだ。


 フェリシアの診断結果は、王城に大きな衝撃を与えた。王太子であるアレクシスの婚約者が子を成せない、などという状況は許されるはずもない。

 盛大に祝われた婚約は破棄され、新たに婚約者に選ばれたのは、驚くことにフェリシアの1歳年下の義妹、セリーヌだった。セリーヌが前々からアレクシスに思いを寄せていたため、その母イヴェットが熱心に力のある大臣たちに根回しをしたらしかった。


「私がアレクシス様の婚約者になれるなんて、夢のようだわ」

「セリーヌはずっとアレクシス殿下をお慕いしていたのですもの、当然よ」

 セリーヌとイヴェットが婚約者内定の知らせに歓喜するなか、デュプラ家を訪れたアレクシスは、セリーヌには目もくれず、フェリシアの元に向かった。


「フェリシア、君を守れなくて…すまない…」

 まだ臥せったままのフェリシアの手を握り、そう告げたアレクシスの顔は、悔しそうに歪んでいた。

「だがフェリシア、僕は君のことが…」

「アレクシス王太子殿下」

 アレクシスの手にもう一方の手を添えて、そっと彼の方へ押し返しながら、フェリシアはその言葉を遮った。

「私にはもう、王太子妃となってお役目を果たすことができません。これまで本当に良くしてくださったにも関わらず、ご期待を裏切るかたちになってしまったこと、お詫びのしようもございません。――アレクシス王太子殿下とセリーヌの幸せを、心よりお祈り申し上げております」

 消え入るように儚く微笑むフェリシアを見つめ、アレクシスは唇を嚙みしめた。


 それ以降、王家主催のお茶会や夜会をはじめ、貴族が催す集まりにフェリシアが姿を現すことはなくなった。

 フェリシアは邸からほとんど出ることなく、できる限り、新たに王太子の婚約者となったセリーヌの邪魔にならないようにして過ごしていた。

 子を成せないならば、良縁も絶望的だ。父は国王より国の外交を任されているため仕事柄留守が多く、義母はセリーヌにかかりきり。フェリシアにできることは、幼い異母弟マクシムに本を読み聞かせたり、バイオリンを教えたりすることくらいだった。それでも、自分にできることをと、フェリシアはマクシムに愛情を注いだ。


 表舞台から姿を消したフェリシアを、いつしか人々は”陽炎姫”と呼ぶようになった。

 いつの間にか、陽炎のように儚く消えてしまった美しい姫──。



 婚約破棄から2年が経ち、増員された専属教師たちによる連日の妃教育で、義妹セリーヌが王太子の婚約者としてなんとか様になってきた頃、アレクシスとセリーヌの婚約披露式が三月後に行われることが決定した。

 そして、その決定が知らされた直後、フェリシアは突然、隣国へと嫁がされることになったのである。義母イヴェットから、職務により外国にいる父が決めた縁談だと聞かされた。

「これはあなたのお父様が、あなたのためにと強く希望されてまとまった縁談ですのよ。相手の方は大層なお金持ちよ。良かったわね」

 そう伝えるイヴェットは上機嫌だった。


 相手は60歳を過ぎた伯爵で、すでに跡取りもいるため子を成せなくても問題はないという。フェリシアが生まれる前からデュプラ家に仕える家令から「お相手の方ははかなりの好色家だという噂を耳にします」と、とても心配されたが、自身に負い目のあるフェリシアが相手を選べるはずもなかった。それに、父の決定というのならば従う他ない。


 アレクシスとの婚約が破棄になって以降、フェリシアは邸にいても所在のない思いをずっと抱えていた。

 背負っていたとてつもなく大きな役割が突然なくなったのだ。子も成せず、通常の婚姻など望めるはずもない自分。何のために、どうして生きているのかもわからなくなってきていた。そんな自分に新たな役割ができるのであれば、婚姻の相手がどんな人物だろうと尽くさなければならない。縁談が来ただけで幸運なことなのだ。フェリシアはそう自分に言い聞かせた。


 輿入れの日はあっという間に決まり、嫁入り支度も何もないまま、フェリシアは送り出されることになった。必要なものも、侍女すらすべて相手方で用意するというのだ。


 父の帰国もないまま迎えた出発の日。

 家令がそれでもせめて、とフェリシアに忠実な従者三人を、迎えに来た馬車につけてくれた。家令は従者を五人はつけさせて欲しいとイヴェットに頼んでくれたようだが、

「国境まで行けば、従者もあちらの者が用意されているとうかがっているわ。ルベライト国内では、そんなに人数は必要ないでしょう」

 そう一喝され、何とか許されたのは三人だけだったそうだ。

「お義姉様、あちらでお幸せにね」

 セリーヌが心底嬉しそうににっこりと微笑んで、祝いの言葉を述べる。

 アレクシスの目の届かない所へフェリシアを遠ざけたい、セリーヌの思惑が透けて見えた。



 隣国へと嫁ぐ馬車の中、フェリシアは窓の外を眺めていた。

 夕刻、空の色は夜へと移ろい始めている。


 ルベライト王国は、一方を海に臨み、もう一方は隣国カルセドニー帝国に面している。

 海を擁するルベライト王国には、交易の拠点となる港がある。交易品や海産物に富み、財政も潤っているため、それを手中にしたい隣国カルセドニー帝国による侵略の危機に何度も晒されてきた。

 カルセドニー帝国は過去に何度もルベライト王国への侵略を目論み戦を起こし、その度にルベライトがそれを阻んできた歴史がある。


 現在は両国間の国交もあるが、好戦的な隣国がいつまた侵略を企てるか油断はできない。故に、隣国との国境には魔力によって結界が張られ、常に守りが固められており、カルセドニー帝国からの入国には、国境での審査を通過する必要があった。

 フェリシアも隣国へ嫁げば、ルベライト王国への里帰りすらそう簡単には許されないだろう。情勢によっては、もう二度とこの地に帰ることができないかもしれない。最後になるかもしれないというのに、父の顔を見られなかったことが心残りだった。


 国を守る結界は、ルベライトの王族のみが持つ魔力によって張り固められている。遙か昔、創世の世にこの地を治める神より力を賜り、それを受け継いできた王族以外に魔力を持つものは皆無といっていい。国民は自分たちの国を守る力を持つ王族を敬い、崇めていた。


 フェリシアの母は王族から降嫁した人物だったため、フェリシアもその血を受け継いでおり、僅かながら魔力を持っている。

 患部に手を当てて、傷や病を癒やす魔力。強い力ではないため、一度で劇的に症状が改善することはないが、根気強く癒し続けることで相手を回復させることができた。

──しかしそれは、救いたかった最愛の人たちには届かなかったが。


『旦那様になる方はご高齢だそうだし、この力が少しは役に立つと良いのだけど。そうすれば、私が嫁ぐ意味もあるのかもしれない』

 フェリシアが自身の手に視線を落とした瞬間、馬車が大きく揺れた。


 ルベライト王国と隣国を隔てる深い森、魔王が住むと恐れられている森に馬車は差し掛かっていた。隣国への正規の街道からは外れるが、この道の方が近道だとして、迎えに来た御者が出発前に説明していた。


 馬車の外で、従者たちが何かを叫んでいる。荒々しい足音。悲鳴とともに何かが倒れる音。

 フェリシアが身を硬くしていると、勢いよく馬車の扉が開け放たれた。

「フェリシア様、お逃げください!」

 従者の一人がフェリシアを助け出す。

 馬車は、襲われていた。


 顔を黒い布で覆った集団が次々と従者たちに襲いかかる。そして、その刃はフェリシアにも向けられた。

 いや、むしろ、最初からフェリシアを狙っていたかのように、フェリシアの姿を確認した暴漢たちが一斉に襲い来る。

 フェリシアを庇った従者が切りつけられ、フェリシアの上に覆いかぶさるように倒れ込んだ。

 フェリシアも倒れ、地面に強く頭を打ちつける。


 朦朧とする意識の中、疾風が頬を掠めた。

 目の前に躍り出た黒い影が、襲い来る暴漢たちを一瞬で薙ぎ払う。

 影は振り返ると、フェリシアをふわっと抱き上げた。


『まるで紅玉ルビーのよう…。綺麗』

 ぎらりと紅く、妖しく光る瞳。


『遂に、黄泉の国からの迎えが来たのだわ。ああ、私、とうとう死んでしまうのね…』

 漆黒のマントに守られながら、フェリシアは鈍痛と眩暈に抗えず目を閉じる。

 フェリシアを抱きかかえたその人物は、気を失ったフェリシアを大切そうに抱きしめた。

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