あのバス停から

おおやぶ ゆき

第1話 金木犀の香りにつられて

 高校の正門を通ると、制服の衣替えをして少し暑そうにしている人と、半袖で少し肌寒そうにしている人で別れていた。

 秋は嫌いだ。

 まず、期間が短い。まだ夏の微香が残っているし、ようやく涼しくなったと思ったら、すぐに冬が強烈な北風とともに鼻を突っついてくる。

 食欲の秋、スポーツの秋、読書の秋、他にもたくさんの秋があるが、なんで四季にこだわっているのかと思う。

 そして、金木犀が秋にしか咲かない。あんなに素敵な香りを放っている植物が秋にしか咲かないなんてもったいない。

 長袖のカッターシャツを2回捲り、下駄箱で学校指定のスリッパに履き替える。2年1組の扉を開けて教室の中に入る。

 「栞おはよー!」

 花奈も私と同じように長袖のカッターシャツを2回捲っていた。

 校庭側の窓際の席に座り、窓を半分開ける。

 後ろの席に座っていた花奈が、机から身を乗り出して私の肩を叩く。

 「今日の学校帰りにスタバよって、新作の紫芋フラペチーノ飲みにいこ!」

 「私が芋嫌いなの知ってるでしょ。」

 「じゃあ栞はいつも通り抹茶で。」

 8時45分になり、先生が教室に入ってくる。

 先生が、今後の予定等を棒読みしながら話している。私はそれを聞き流しながら、最近夢中になっている韓国ドラマの続きを早く見たいと考えていた。

 すると半分空いた窓から、花粉の乗った風が吹いてきて、花奈が小さくくしゃみをした。

 「栞ごめん。窓閉めて。」

 小声で申し訳なさそうに懇願してくる花奈に、私も申し訳なさそうにしながら窓を閉める。

 その風には、学校に咲いていないはずの金木犀の香りがしていた。


 高校近くのバス停で、花奈と一緒に駅前に向かうバスを待っていた。

 「家反対なのに、よく紫芋のために行こうとするね。」

 「本当は明日提出の課題を栞に見せてもらうんだー。」

 「紫芋も本当のくせに。」

 バスが来たので、乗り込んで吊り革を握る。

 この時間帯の運転手は、あまり揺れないから安心できる。

 土曜日の昼間に花奈の家に行くためバスを利用した時は、優先席に座っているお婆さんの荷物が膝から落ちてくるくらいだった。

 「栞は毎日抹茶フラペチーノが飲めるからいいよね。」

 「毎日スタバ通ってたら、お母さんにお小遣い増やしてもらわないとやっていけないよ。」

 花奈が冗談を言うときは、四葉のクローバーを見つけた時のように明るい顔をするので分かりやすい。

 「ご乗車ありがとうございました。次は終点、荻窪駅前です。お忘れ物のないようにご注意ください。」

 バスを降りて、駅前のスターバックスに入ると結構並んでいた。

 「ソファー席一杯だね。」

 「しょうがないから一人用のカウンター席で隣に座ろっか。」

 花奈は紫芋フラペチーノを頼んで、私は抹茶フラペチーノを注文する。

 「紫芋美味しっ!!」

 席に座る前から飲み始めていた。

 カウンター席に座り、抹茶フラペチーノを飲む。 

 「抹茶美味しっ!!」

 「そんなこと良いから、早く課題見せてよ。」

 もう一口飲む。

 「やっぱ美味しっ!!」

 花奈がケラケラ笑ったら私の勝ちだ。

 「すいませんでした。とりあえず自分で頑張ります。」

 二人同時にバックから教科書を取り出して、課題を進める。

 窓際のカウンター席からは、帰路に着くサラリーマンや買い物帰りの主婦や講義終わりの大学生達に、「今日も一日お疲れ様です。」と労っているかのように、ビルの隙間から秋の夕焼けが覗いていた。


 6時30分にBTSのstay goldが鳴って目が覚めた。個人的にこの曲はうるさくなくて、なおかつ目覚めやすい曲なのでアラームに丁度良い。

 リビングに出るとお母さんが先に朝食を済ませて、仕事に行く準備をしていた。今日はいつもより早い出勤なのだろうか。

 「おはよ。今日早いね。」

 「うん。大事な打ち合わせがあってその事前準備。」

 「そっか。行ってらっしゃい。」

 「ありがとね。多分夜も遅くなるから自分で何か作って食べて。」

 「はーい。」

 「じゃ、行ってきます。」

 2LDKの賃貸住宅だと、駆け足気味に出ていく音がしっかり聞こえる。

 食パンをトースターで3分焼き、蜂蜜を塗る。野菜ジュースをコップに注いで食物繊維をとる。

 学校に行く準備を済ませて、長袖のカッターシャツに着替える。スカートのフォック部分を1回折り曲げて膝丈を調整する。

 心の中で行ってきますと言い、玄関を出て鍵を閉める。

 栞は、丸の内線で荻窪駅まで向かい、荻窪駅北口のバス停で高校に着く通学経路をとる。自転車だと少し遠いので、大学入学と同時にバイトを始めてお母さんに毎月5000円払う約束でこの通勤経路にしてもらった。

 本当はもっと近くの高校で良かったのだが、中学時代の先生とお母さんにダメ元でもう少し偏差値高い高校受けてみたらと言われ受験したら受かってしまった。

 荻窪駅に着いて、北口のバス停に並ぶと、かすかに金木犀の香りがした。

 周りを見渡してみると、同じクラスの香織君がいた。ふと目が合ってしまい、軽く会釈をする。

 おかしい。今までこのバス停に香織君はいなかったはず。

 ただ同じクラスと言うだけで、そんなに親しい関係ではないので少し気まずくしながらバスに乗って、吊り革に捕まっていると金木犀の香りが強くなった。

 「稲垣さんこのバス使ってるんだね。」

 「そうだよ。」

 「俺もこれからこのバス使うからよろしく。」

 「そうなんだ。これからって今までは?」

 「実は自転車盗まれちゃってさ。歩きだと流石に遠いから。」

 「大変だね。」

 「・・・。」

 会話に困る。

 よそよそしくしながら斜め上を見たら、香織君が吊り革を握っていなかった。

 「香織君吊り革いらないの?」

 「地味な体幹トレーニングだよ。両足の指先でグッと耐えてる。それにバスって意外と揺れないんだね。」

 「そんなことないよ。通学の時間帯の運転手さんが上手なんだと思う。」

 「そうなんだ。さすが稲垣さん。」

 何がさすがなのだろうか。皮肉か、本当の褒め言葉かも分からない。

 花奈だったら汚い言葉を浴びせても良いので、「うるさいカスが。」と言えるのに。

 「次は、高校前。高校前。」

 降車ボタンを押して、少し運転が荒くなっても良いから早くしてくれと願う。

 「そっか。バスは降りる時にこれ押さないといけなかったね。前はいつ乗ったかも覚えてないから忘れてた。ありがとう。」

 「どうも。次から気をつけて。」

 高校前のバス停に到着し扉が開く。嫌な予感はしていたが、やはり教室まで一緒にいかないといけないのか。

 「じゃ。また教室で!」

 そう言って、香織君が足早に去っていった。ほっと安心しながら、シャツの袖を2回まくる。

 金木犀の香りと夏の微香がまだ残っていて、いつもより暑い気がした。


 2年生に進学したあたりから、両親の関係性は良くなかった。本当はもっと前らだったのかもしれないが、俺が気づいたのは春の花粉がピークを迎えている時期だった。

 別居するという事実を伝えられたのは、スギ花粉が飛び始める少し前だった。

 「父さんはこのマンションに残るけど、お母さんはちょっと離れたアパート借りるから。香織はどうする?」

 高校2年生に対して、究極の選択を迫ってくる両親だったが、別居する理由やこの先どうするのかと言った質問返しをすることができず、ただただ沈黙した。

 正確には沈黙したかった。小学生が先生に怒られた時に使う無言の抵抗のように、沈黙の時間を増やしたら、別居するという事実が無くなるのではないかという浅はかな考えだった。

 「香織はお母さんに着いていきな。」

 お父さんが、ゆったりとした低い声で沈黙の時間をそっと開けた。

 「分かった。ただ、いつか理由は話して。」

 未熟者なりのささやかな抵抗のつもりで伝えたら、両親は口元を動かさずに目尻だけ少し下げて笑った。

 「高校から少し遠くなっちゃうけどごめんね。あと、お母さんがこれからは自転車が必要になってくるから、香織が高校で使ってる自転車貸してあげて。駅前にバス停があるから当分はそこから通ってくれ。」

 部屋に戻っても、どこか落ち着かなかった。

 いろんな感情が臭いとなり、混ざり合わさって嫌な刺激が鼻を伝ってくる。それが、目頭の奥をじんわりと熱くさせてくる。

 お父さんが高校入学祝いで買ってくれたソニーのワイヤレスヘッドフォンを付けて、Coldplayのプレイリストを流す。

 部屋着にしている白色の半袖Tシャツを着た状態で靴底の擦り切れたコンバースのスニーカーを履き、21時の住宅街に繰り出すと、全身に少し冷たい風が吹いて、目頭の奥を冷ました。

 とりあえず軽く散歩していると、同じ階に住んでいる男性とすれ違った。スーツを着ているので仕事帰りだろうか。

 「お!香織君だよね?こんばんは。これからどっか行くの?」

 「まぁ、軽い散歩です。」

 「そっか!秋は良いよね。涼しいし。じゃあね。」

 名前知ってるのか。

 俺の両親が別居するということも知っているのだろうか。

 ふと、俺の席の2席左後ろにいる稲垣さんが、クラスメイトと話していた言葉を思い出した。

 「栞って花粉症じゃないのに秋嫌いだよね。」

 「うん。嫌いだよ。」

 俺も、秋が嫌い。

 もうすぐ迎えるスギ花粉のピークも、数分前の出来事を迎えた時期であることも、泣かせてくれなかったこの風も。

 

 お母さんがスーパーのパートに出勤するために俺よりも先に家を出ていて、まだ段ボールが2つ積まれた部屋から、学校に向かうのは億劫だった。

 唯一ありがたいと思えることは、外に出るまでは鼻が詰まっていないことくらいだろうか。

 お母さんが最近使い始めた、金木犀の匂いがする柔軟剤で洗濯された長袖のカッターシャツを着てバス停に向かう。

 バス停までは歩いて5分程だった。丁度のタイミングでバスが到着して列に並んでいると少し前に稲垣さんがいた。

 稲垣さんが後ろを振り返って俺と目が合った。稲垣さんもこのバス停を利用していたんだ。

 5分歩いたからか、初めての通学方法だからなのか、どこか浮き足立つ感情を抑えて、バスに乗り込む。

 両足の指先に力を込めて立つ。

 「地味な体幹トレーニングだよ。」

 高校前のバス停に着くまで、あっという間だった。たくさん嘘を着いてしまって気が重い。

 これ以上一緒にいるとさすがに変だと思われそうなので、特に理由もなく稲垣さんに別れを告げて正門を通る。

 半袖を着てこればよかったと後悔しながら。

 教室に入ってから思い出した。今日提出の課題のことをすっかり忘れていた。

 荷造りとかで疲れていたし、しょうがないと気持ちを切り替えてリュックから教材を取り出す。少しでも課題を進めよう。

 筆箱からシャープペンシルを取り出そうとしたら、ついさっき別れを告げた稲垣さんが教室に入ってきた。

 目が合って、再び軽く会釈をする。

 「もしかして課題やってないの?」

 「うん。完全に忘れてた。今からやって少しでも進めるよ。」

 ただただ恥ずかしい。もう嘘はつけないし、滑稽にしてもらおう。

 「香織君がよければ、私の課題見る?」

 予想外の一言だった。

 「本当に!?めっちゃ助かる!ありがとう!今度なんか、、そうだ!駅前のスタバで抹茶フラペチーノ奢らせて!」

 「分かった。」

 栞は、バックから課題を取り出して香織に渡した。

 席につこうとしたら、花奈がニヤニヤした表情で栞の顔を覗いてきた。

 「栞おはよー。」

 ドクダミのような、独特な匂いを連想させる顔だ。

 挨拶を返さず、顔を逸らして窓を全開にする。

 「私には課題見せてくれなかったのになー。」

 後ろの席から小声で囁いてくる。

 「同じバスに乗ったからです。」

 自分で言っておいて、弱い抵抗だと反省する。

 金木犀の香りがする、かおる君。

 やっぱり秋は嫌いだ。まだ夏の微香が残っているし、経験したことのないような感情を生み出す、この秋が。

 栞の後ろと、2つ右前の席から小さなくしゃみの音が聞こえてきた。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



 


 

 

 

 



 

 



 



 


 

 

 


 

 



 


 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

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