第19話「『悪魔』の【誘惑】」





 侯爵令嬢ユールヒェン・タベルナリウスは、自身の中に入り込んできた異物と必死に闘っていた。


 そして私は、そんな彼女が必死で抵抗するさまを哀れに思っていた。


(……無駄だというのに、健気なこと。いえ、無駄とまでは言い切れないかしら。実際、何度かチャンスを不意にされているし)


 ユールヒェンの頑張りによって不意にされたチャンスというのは、インテリオラ王国の第一王子、マルグリット・インテリオラの誘拐または殺害についてである。

 王城内ということで油断をしているのか、王子にアプローチをするチャンスは何度かあった。

 しかしこれまでその全ては、このユールヒェンという弱いながらも健気な少女の意思によって阻まれてきた。


 通常であればこれはあり得ないことだ。

 この私にその精神をかどわかされた者は、何びとたりとも逆らうことは出来ない。それこそが『悪魔』の持つ第一の権能、【誘惑セデュース】の力である。


 ユールヒェンの精神を揺さぶり、心の隙間に入り込む手順に間違いはなかったはずだ。

 実際にやるのは初めてだが、先代の『悪魔』に教わった通りにきちんと行なった。

 対象が燻ぶらせている歪んだ欲望に火をくべ、燃え上がらせ、冷静な判断力を失わせて、その欲望を足掛かりに精神を乗っ取る。

 実際にはスキル【誘惑】が自動でやってくれるため、本当に重要なのは最初の「対象の欲望の見極め」だけだが、人間の持つ欲望なんて物欲性欲だと相場が決まっている。侯爵令嬢として生まれたユールヒェンが金に目の色を変えるとは思えないし、昔から王子にモーションをかけていたという情報はすでに得ている。となれば、そこに突然現れた美しい田舎娘はさぞかし憎いことだろう。

 その感情を増幅させ、田舎娘に対する憎悪と嫉妬を王子の方にも向けてやるよう操作してやれば、ユールヒェンを操り王子を害することなど造作もない。


 そのはずだったのだが、たったそれだけのことにこれほど時間がかかってしまった。


(……バックアップのために街でスタンバイしてる『教皇』は苛ついてるでしょうね。あのガキが苛つこうがどうでもいいけど、それをそのまま上に報告されると面倒だわ)


 私は薔薇の庭園を抜け出したユールヒェンの身体を操り、王子を誘拐するべく彼の寝室へと忍び寄っていった。


(さて……。ここが王子の寝室か。さすがに、侯爵令嬢の細腕じゃあ少年とはいえ男一人を担いで城から脱出するのは骨が折れるけど……。ま、その後このユールヒェンがどうなろうが知ったことじゃないし、ちょちょいと脳のリミッターを外してやれば……)


 人間というものはとても愚かで、本来持っている自分自身の力にさえ気がついていない。人間には普段発揮している力の実に数倍のポテンシャルが秘められていることが結社の人体実験によって明らかになっている。ただし、その全ての力を発揮してしまうと、脆い人間の身体は容易に崩壊してしまうらしいが。

 愚かなりにこれまで繁栄してきた人間の無意識の知恵とでも言おうか、通常はその力の使用にはリミッターとでも言うべきある種の制限がかけられている。

 しかしそれも『悪魔』の【誘惑】によって操った状態ならば、無視して無理矢理全力を出させることも可能だ。

 私はやったことがないので知らないが、それを使えばおそらく令嬢の腕でも人間一人を抱えて運ぶくらい訳はないだろう。


 辺りを見回し、寝室付近に誰もいないことを確認すると、私はユールヒェンを扉のそばまで近づけた。

 王城内とはいえ、仮にも王子の寝室周辺に誰もいないというのはいかにも不自然に思える。

 しかし、これは当然のことだ。

 何故なら、この日のために少しずつ王城内に『悪魔』謹製の薬を仕込み、ここには誰も近づかないよう薄い【誘惑】で思考誘導をしていたからだ。

 人一人の精神を完全に乗っ取るほどの【誘惑】は、さすがに同時に複数の対象にはかけられない。だが、ほんの少しだけ認知を歪ませる程度の弱いもので、しかも薬の助けも使ってであれば、ユールヒェンの精神を掌握したままでも十分に可能だ。

 むしろ、もともと私はそういう広く浅い手管の方が得意なのである。

 だからユールヒェンの操作にはまだいまいち慣れないが、周辺の護衛の騎士や侍女たちに対する思考誘導には自信があった。

 一応念のため確認はしているものの、城の者たちが「今王子の寝室付近には自分以外の誰かが詰めているはず。だから近付く必要はない」という思い込みに踊らされているだろうことは疑っていない。


 ユールヒェンに扉を開けさせ、部屋の中に侵入する。

 想像通り、王子は天蓋付きのベッドで横になっていた。

 天蓋やカーテンなどは白いレース系で統一されており、王子というよりまるで王女の寝所だが、まあそういう趣味なのだろう。たしかに王子はどこかなよなよしているというか、どちらかと言えば剣よりも花の方が似合いそうな雰囲気を持っていた。


(ま、何でもいいわ。さあて、それじゃ、王子様を攫ってとっとと──)


 そう考えながらベッドに近付いた私の操るユールヒェンの足元を、何か柔らかいものが触れた。

 というか、柔らかいものを蹴った感触がした。


「え?」


 幸い、蹴った何かが柔らかかったおかげで音を立てるようなことにはならなかった。

 ぽーんと飛んだその何かはどうやら毛玉であったらしく、ベッドの天蓋から垂れているレースのカーテンにぽふっとぶつかりコロコロと床に転がった。


「な、何で王子の寝室に毛玉が……?」


 ホコリ、にしては大きすぎる。

 いや、それにしてはよく飛んだものだ。普通に歩いていただけなので、物を蹴ってもあそこまで景気よく飛んだりはしないだろう。見た目に反して異常に軽いか、あるいは毛玉が自ら飛んだか──


「あおん!」


 床に転がった毛玉から足が生えたかと思うと、その毛玉が甲高い咆哮を上げた。咆哮と言うには少々力弱いというか、可愛らしいものだったが、いずれにせよ毛玉が獣であったのは間違いない。


「へっへっへっへっへ!」


 毛玉けだま改めけもの──略してケダモノ──は、慌ただしく息をつきながら転がるように床を走り、私の操るユールヒェンの足元にまとわりついてきた。


「ひゃんひゃん! へっへっへ!」


 未だ慣れない他人の身体、そして高めのヒールと、足首まで沈みこんでしまうのではというくらいに毛足の長い絨毯。

 そんなところでケダモノにまとわりつかれては、満足に歩くのも難しい。


「ちっ! 鬱陶しいわ……よっ!」


 足を振り、ケダモノを再び蹴り飛ばした。

 するとケダモノは先ほど同様毛玉のようにぽーんと飛んでいき、ベッドのレースにふわりとぶつかり床に転がった。この様子からするに、やはり先ほどもわざと飛んでいたらしい。


「へっへっへっへっへ!」


 そしてまた足元に寄ってきてまとわりつくケダモノ。

 その様子からは私の邪魔をしようというより、なんというか、楽しくて仕方がないといった気持ちが滲み出ているように見える。他者の心を誘導する技術に長けた私にかかれば、相手がケダモノだろうと何を考えているのか察することなど訳はない。


 つまりこのケダモノは今の蹴りを遊びだと認識しており、私にもっと遊んでほしいと考えているということだ。


「馬鹿にして……!」


 蹴って効かないのなら踏み潰してやろうか。

 そう考え足を振り上げる。ドレス姿でそうするのはかなりはしたないが、どうせ自分の身体ではないし関係ない。


 と、その時だった。

 天井から何かがぼとりと落ちてきて、ユールヒェンの顔にへばりついた。


「わぶっ!」


 顔中を覆う毛の感触と体温から、落ちてきたのは毛のある動物であろうことはわかる。

 しかし視界を全て塞がれているため、それが何なのかはわからない。


「……うなーご!」


 あ、猫だこれ。


「ちょっ、はな、離れなさい! ああっ! 足元をうろつくな!」


 片足を上げた状態で頭部にいきなり重りが増えたせいで、慣れない身体は制御不能になってしまう。

 しかも、とっさに床に下ろそうとした足は例のケダモノによって遮られ、絨毯よりもふわふわした何かを踏んでずるりと滑る。

 元々踏みつけるのが目的であったとはいえ、予期せぬ状況とタイミングでそんなことになれば、体勢を崩してしまうのは当然だった。

 何とか転ぶのは免れたものの、体勢を立て直すためにふらふらと千鳥足で方向も歩数もわからないまま歩く。依然として視界は猫に塞がれたままだし、足元のケダモノのせいで歩いた方向も制限されている気がする。


 すると、カタン、と音がして、背中が何かに触れた感触がした。

 頬の、猫に塞がれていない部分に、少しひんやりとした空気が触れる。

 もしや、今ぶつかったのは窓だったのだろうか。

 そして、窓に背中が当たり、それが開いたということは。


「──あっ」






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