さざなみ

令狐冲三

第1話

「いま、お幸せなんですって?」


 相変わらずの口調で問いかけられ、美奈子は曖昧に微笑んだ。


 困った時、答えに窮した時、彼女にはつい微笑してしまう癖がある。


「こないだ、須藤くんに上野で会った時に聞いたわ」


 それなら榊のことだろうと合点して、当たり障りのない答えでかわしておこうと決めた。


「へえ、須藤くんが上野にね。やっと芸術に目覚めたかしら」


「会ったのは美術館じゃないわ」


 沙希はにこりともせず言った。


 取りつく島もない。


 美奈子は仕方なくアイスコーヒーのストローをくわえ、相手が話すのを待った。


 何ともいまいましい気分だ。


 どうしてわたしは今、こんな馴染みもない小さな喫茶店で沙希と向かい合っているんだろう。どうして彼女と出会った時、軽い挨拶だけですませずに、お茶に誘ったりしたんだろう。


 美奈子は密かに溜息をついた。


 だって彼女は、確かにあの時何か言いたそうな眼でわたしを見たわ。そして、この子は絶対自分から他人を誘う人じゃないんだもの。


 コーヒーの苦味を舌で転がしグラスを置くと、沙希は頬杖をついて窓の外を眺めていた。


 考えごとをしているようにも、何も考えていないようにも見え、敢えて美奈子を無視しているようにもとれる。


 美大に在学中もよくこんなことがあった。


 美奈子に心を開かない沙希。


 沙希の傍らでぎこちなくなる美奈子。


 けれども、あの頃はいつもそばに誰かがいて、二人がまともに向き合うことはなかった。


「須藤くん元気だった?昔の仲間で一度集まりたいわね」


 そんな言葉が口を衝いた。


「そうね」


 美奈子が実感をこめなかったと同じぐらい無表情に、沙希は答えた。


 20分ほどで店を出た。


 去って行く沙希の背中をしばらく見送ってから、美奈子は逆方向へ歩き出した。


 もちろんわかっていた。


 大学時代にはいつも画材を抱えて並んで歩いていたあの7人が、揃って会うことなどもうないだろうということ。


 最初の何人かが意気投合して、教室やアトリエ、食堂、どこででもよく話すようになった。


 そこへ友達が一人、二人と加わり、時には抜けて行き、最後に定着したのがあの7人だった。


 みんながお喋りだった。


 芸術論、絵画論もどきから、教授の癖や単位の取り方、趣味や将来の夢、下宿のおかずのことまでも。


 7人のうち3人だった女性陣は、少数ということもあり自然と聞き役に回ることが多かった。


 といっても、性格は当然異なり、美奈子が相手の話に感心して肯きながら聞き入ってしまうのに対し、沙希はかなり辛辣な聞き手で、聞き終わると耳の痛い的確な批判を二言三言言った。


 もう一人の相羽菜穂子は、男ばかりだったそのグループへ真っ先に飛び込み、美奈子や沙希を引き込んだ張本人で、聞くだけ聞くと、自分も言うべきことをしっかり言った。


 おそらく、3人の中で最も協調性に富んでいたのが彼女だったろう。


 そのせいもあってか、菜穂子は卒業してすぐ7人のうちの一人である町田と結婚し、彼の田舎へ行ってしまった。


 男たちにとっては一大事で、中でも須藤は非常にショックを受けたようだ。


 何しろ、在学中はいつも菜穂子のそばで弁じたて、彼女と一番やり合っていたはずなのに、茫洋とした町田にまんまとさらわれてしまった。


 だからでもないだろうが、いまだにバイトを転々とし、フリーター暮らしから抜け出る気配もない。


 ステンドグラスを勉強しようとイタリアへ行ってしまった藤田。


 美奈子へはサン・ピエトロ聖堂の絵葉書を一度よこしたきりで、音沙汰もない。


 それから、高校の美術教師になった榊。


 榊と町田は今も時々連絡を取り合っていて、町田の田舎へ榊が二人の新婚生活を冷やかしに行ったこともあるという。


 須藤も時々美奈子のもとへ電話をよこした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る