葉那編⑰:因果の海

 その後も僕たちは海に潜ってみたり、砂浜で城を作ってみたり、焼きそばを買って食べたり、水から出てのんびりおしゃべりしたりと、思いつく限りのありとあらゆる遊びを試した。ほかに誰もいない奇妙な海水浴だったけど、そんなことが気にならないくらいに動きまくった。葉那はずっと笑っていて、僕らもずっと笑っていて、朝の暗い気持ちが嘘のようにさえ思える時間を過ごした。


 僕は笑っている彼女を眺めるばかりで、話しかけることができなかった。

 咲也や女の子たちが葉那と楽しげな会話をしているのを、ただ見ていることしかできなかった。そして少し離れて見ていたせいか、みんなが少なからず無理をしているのが痛いくらいによく判ってしまった。


 青い海のきらめきを受けて葉那は笑っていた。僕も笑っていた。でも、心の底の僕は笑っていなかった。おそらくみんなも同じようなものだと思う。みんな無理をして、葉那に楽しい時間を過ごしてもらいたくて、少しでも何かを思い出してほしくて――僕たちはみんな、彼女に内心を悟られないように、ずっと楽しい顔をし続けていた。


 みんな笑っているのに泣いている。一番笑っていてほしい彼女がどう感じているのか、何を思っているのか判らない。こんな時間は、もう二度とごめんだ。僕はそう思わずにいられなかった。


「じゃあみんな、そろそろ行こ」


 青が浜での時間は砂のように流れ落ちていく。気づけば周囲はすっかり夕方になっていた。僕たちは吉田さんの号令のもと手分けして後片付けを済ませ、各々の荷物を持ってバス停を目指すことにした。ただその前に、僕らはなんとなく波打ち際まで歩いて行き、日が沈んでいく海をぼんやりと眺めていた。誰かがそうしようと言い出したわけではない。ただ、その先頭を行ったのは葉那だった。


「――……」


 葉那は長い髪を耳にかけて目を閉じていた。彼女はさざ波の音を聞いているようだった。波打ち際にはやや強い風が吹きつけ、乾き始めた彼女の髪とワンピースを揺らしている。僕は相変わらず何も言えなかったが、かろうじて彼女の隣に立つことだけはできた。みんな――特に咲也は僕と葉那から一歩二歩引いたところに立っていて、遠巻きに僕らを見ているようだった。これではさっきと逆の構図だなと、僕はなんだかおかしくなった。


「――秋くん」


 葉那は僕の名前を呼んだ。それはいつもどおりの、昔からの、耳慣れた呼び方だった。


 もしや、と思った。もしや葉那が自分を取り戻したのではないのかと。

 ――でも。


「今日はありがとうございました。ほかのみんなも……」


 でも、そうではないのだということはすぐに判った。葉那は今朝僕が名乗った名前を呼んでいるに過ぎないのだ。


 彼女は遠くを見たまま曖昧に笑っていた。その姿は、未だに自分の置かれた状況に戸惑っている少女のものに思えた。彼女がまだ彼女に戻っていないことを確かめたせいだろうか、僕は自然と目の前の女の子に声をかけることができた。


「……楽しかった?」

「はい、とっても。わたし――今日ここに来て良かったなと思います」


 葉那はようやく僕のほうを見て、にこりと笑った。笑い方はいつもの葉那そのもので、なんだかくすぐったいような痛いような不思議な心地がした。


 それから僕たちはぽつぽつと話をし始めた。話といっても、大半などうでもいい雑談のような、あってもなくても構わないようなつまらない話題だった。別に面白いわけではない。それどころか今の葉那と話を続けるのは苦しくてたまらない。それでも僕は、一向にこの会話を切り上げる気にはなれなかった。


「あなたとこんなに話すのは、初めてですね。もっとお話しておけばよかったなあ……」

「……うん、そうかもね」


 葉那も、どこか面白くなさそうな顔をしていた。話の最中、なぜか彼女は居心地の悪そうな顔をし続けていた。それでも葉那は一向に僕から離れていかなかった。彼女にとっては初対面の相手である僕に、あるいは親しくもないのに無条件に仲良くしてくれるみんなに、ただ遠慮しているだけなのかもしれないけど。


 ――そろそろバス停に向かったほうがいいのではないか。

 僕はふと我に返って、背後にいるみんなの方を振り向いた。。


「……あれ?」


 僕は自分の目を疑った。

 なぜなら、そこにはいなかったからだ。


 一緒に海を眺めていたはずの友達どころか海の家も、そこにいた人たちも、バス停につながるはずの道さえも、何もかもがなくなってしまっていた。世界はどこまでも海と砂浜になっていて、果てのない空間にふたりだけが取り残されてしまったようだった。


 僕は自分の見た光景が信じられず、混乱したまま隣にいる葉那に声をかけようとした。しかし彼女は周囲の異変にまるで気づいていない様子で、ただもの悲しげに顔をゆがめながら口を開いた。


「あのね秋くん。わたし、ゆうべ夢を見た気がするんです」


 葉那はもう笑っていなかった。僕は海以外がなくなってしまった世界のことが気になりつつも、先ほどまでの笑顔がすっかり抜け落ちた彼女から目が離せなかった。


「それは小さいころの夢です。わたしはふたりの男の子と遊んでいて、片方はわたしのお兄ちゃん。もうひとりはお友達。顔は見えなかったけど、ふたりとも笑っていました。顔は見えなかったけど――」


 葉那は淡々と話す。遠く海の向こうを見つめたまま、ひどくつまらなそうに話す。先ほどまでの明るさはどこにもない。楽しそうでもない。それなのに僕は、彼女のその顔にひどく安心していた。無理に笑っていたのは僕らだけではなくて、少なからず彼女もそうだったのだと教えられたからだ。僕らは彼女を楽しませようとして、むしろ彼女に気を遣わせていたのかもしれない。


 主役に無理な笑顔を作らせた時点で、葉那と一緒に新しくて楽しい思い出を作るという試みは失敗したような気がする。しかし不思議とそれでよかったような気がしていた。このつまらない横顔の中にこそ、記憶を失っても変わらない葉那そのものが存在しているように思えたからだ。


「あの、笑わないでくださいね」


 葉那はようやく僕のほうに顔を向けた。彼女の頬は、少しだけ恥ずかしそうに染まっていた。


「わたし、秋くんを見たときに思ったんです。夢の中の男の子だ、やっと会えたんだ……って。だから、本当はもっと早く話したかったんです。今日一日、ずっと……」


「……葉那」


 胸の深いところが刺すように痛んだ。うれしいのか悲しいのか、自分のことなのにまるで区別がつかなかった。ただ僕の心が大きく揺さぶられたことだけは確かだった。もしかしたら喜びと悲しみは本来近しいもので、そのときの心の色によって僕たちが呼び分けているだけなのかもしれない――そんなわけはないのだけど、今はそう思いたい気分だった。


 葉那は顔からふっと力を抜いた。こわばっていた表情が柔らかくなった。少しして、僕はそれが微笑みであることに気がついた。ああ、さっきよりずっといい笑顔だなあ――彼女の表情の変化に、僕はそんなことを思った。


「今日は楽しかった。それは本当のことなんです。みんなとてもやさしかったし、古くからのお友達がたくさんできた気分でした。でもわたしが会いたかったのは、きっと秋くんひとりだけだったんです。夢の中のわたし、どこか遠くに行ってしまったわたしと、あなたを通して会える気がしたから」


「…………それは」


 葉那は僕から顔を逸らした。それどころか背中を向けて表情を隠してしまった。

 僕は彼女のことがますます判らなくなった。だから知りたいと思う。伝えたいと思う。僕の心を伝えることで彼女がどんな反応をするのか見てみたい。喜んでくれるのか、悲しませてしまうのか、どうしても確かめたい。


「本当に変なことを言ってごめんなさい。でも、どうしても伝えたかったんです。ごめんなさい……」

「謝らないでよ。こっちを向いて、葉那」

「でも、なんだか恥ずかしくなってきちゃって……わたし、本当に何してるんだろう……」


 僕は彼女の背中に一歩近づいた。

 伝えたいと思った。


 彼女が夢に見たという男の子のこと。それがきっと僕であるということを。

 小さい頃、僕と咲也と葉那はいつも一緒に遊んでいた。だからきっと、それは僕なのだ。彼女が最後の最後まで手放さなかった記憶の中にいたのは、あのころの僕たちなのだ。そのことが僕の胸をふたたび揺さぶり――。


「でも、できればわたしの言ったことは」


 葉那の細い肩に触れようとしたそのとき、彼女は突然身を翻した。その愛らしい顔にはありのままの、しかしこの日で一番の笑顔が浮かんでいた。


 ――そのとき僕は、夕陽に照らされた葉那の足元に影がないことに気がついてしまった。何かとても良くない予感がして、僕は浮いたままの手を葉那に伸ばした。


「――どうか、忘れないで……」


 そして。

 ひときわ強く吹きつけた風にかき消されるようにして――目の前にいた葉那が、消えた。


「え……?」


 僕の手が彼女に届くことは、なかった。


「彼女は、自分が存在するために必要な因果を忘れてしまったの」


 何が起こったのか解らず立ち尽くす僕に、女の人が話しかけてきた。そこにいたのは泣きそうな顔をした黒いセーラー服の魔女だった。魔女は震える声で言う。すでに顔は伏せられてしまったが、彼女の表情は見なくても判った。


「ごめんなさい。間に合わなかった……この世界で彼女を救うことが、できなかった」


 魔女の足元には小さな雫が絶えず滴り落ちていた。どうしてこの人が泣くのか、僕には理解できない。彼女に言いたいことは山ほどあったが、そのどれもがまとまらずに消えていく。僕はただ、魔女がさめざめと泣いているのを眺めていた。すごく悲しくて嫌な気分だった。


「あなたはもうすぐ『次』に行くでしょう。そこであなたがどのくらい私のことを覚えていられるか判らない。でも、どうかこれだけは胸の奥に留めておいてほしい」


 魔女は言う。それどころか僕に何かを託そうとする。僕が何も言えないのをいいことに、何かを押しつけようとしている。勝手だ。すごく勝手だ。そう文句を絞りだそうとしたとき、彼女はようやく顔を上げた。


「どうか、どうか――魔女のことは、信用しないで――」


 彼女がそう告げた瞬間、目の前が徐々に白くなって、音もぼやけるように遠くなって。ようやく覗えるはずだった魔女の表情もかすんでしまって――そのうち僕には、何ひとつ判らなくなってしまった。


 ただひとつはっきりしていたのは、僕と葉那との旅の終わり。それがこの海で、唐突に訪れたことだけだった。

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