葉那編⑯:青が浜海水浴場

 僕たちは全員でバスに乗り込んだ。土曜日だというのにほかの乗客の姿はない。車内はやけにしんとしていて、どこか奇妙だとは思いつつも、僕たちは後部座席に固まって座ることにした。


 女子たちは一番後ろを陣取って、葉那を挟む形で並んで座っていた。たわいもない話を中心に、あれこれと話しているのが聞こえる。吉田さんと槇村さんは事態を察してくれているのか、葉那とは初対面のていで話してくれている。そのおかげか、葉那もどこか楽しそうな様子だった。ちなみに僕と咲也は彼女たちの一列前の座席を使っているが、特に話すわけでもなく、互いになんとなく黙ったままでいた。


「…………こっち見んな」


 いや、正しくは咲也にコミュニケーションを拒否されているのだが。

 彼は窓際に肘をついて遠くを見ていた。何を考えているのかは判らないが、きっとよくないことであるのはまつげの揺れからなんとなく伝わってくる気がした。


 こうなってしまうと、僕には後部座席の会話に聞き耳を立てるくらいしかすることがない。とはいってもがっつり聞き過ぎてしまうのもさすがにはばかられるし、どうしようかな。そんなことを思っているうちに、僕の意識はいつの間にか遠くなっていた。


 ――――……。


「ん……」


 次に気がついたのは、隣から何かがぶつかってきたときだった。見れば隣で腕を組んでいる咲也の肘が、僕の腕にがつんと当たっている。彼の大きな身体はずいぶんと斜めに傾いているようだ。


「……寝てんじゃん」


 僕もだけど。


 何かに引っ張られるようにふっと意識が遠のいた後、どうやら僕は眠ってしまっていたようだ。窓の外を見れば、いつの間にか目的地のすぐ手前、青い海が見える湾岸道路に差し掛かっている。相変わらずほかの乗客は乗ってきていないようだ。


 いつの間にか女子たちの声が聞こえなくなっていることに気づいて身体をひねる。やはりと言うべきか、彼女たちも全員眠りこけていた。全員をなんとか起こし終わるころ、車内には海水浴場のある青が浜への到着を告げるアナウンスが流れ始めた。


 バスを降り、全員で舗装されていない坂を下って海水浴場を目指す。


 青が浜への道には人っ子ひとりいなかった。海開きを迎えたこの時期、このあたりは大勢の人々で賑わっているのが常だ。それなのにここに来るまでのバスも、この砂利道も、どうしてか僕ら以外に誰の姿も見えない。ただ空に綿菓子にも似た入道雲が浮かび、そこに並ぶ太陽が僕らを見下ろしているだけだ。思い出の場所は、今までに見たことがないほど静まりかえっていた。


「パラソル、このへんでいいかー?」


 海水浴場になっている浜辺に出る。白っぽい砂がきらきらと輝いており、透明度の高い遠浅の海が僕らを出迎えてくれた。青が浜海水浴場は昔と変わらずきれいな場所だったが、やはりというべきか、今日に限っては無人だった。


 不思議に思いつつも、僕らは全員で持ってきたシートを敷き、パラソルを立てて海水浴の準備をする。海の家にはかろうじてスタッフの人がいたから、僕たちは無事にレンタル品や飲食物の調達をすることができた。あらかた準備が終わってから各々着替えに向かい、それぞれが用意した水着になって戻ってきた。ちなみに吉田さんはビキニでもスクール水着でもなく、ショートパンツとタンクトップがセットになった至極普通の水着だった。あの質問は何だったんだろう。


 僕は葉那のほうに目を向ける。彼女は青いワンピースタイプの水着を身につけ、少し恥ずかしそうに身をよじっていた。口数は普段よりずっと少ないが、葉那はまんざらでもなさそうだった。


「泳ぐぞ!」


 ビーチボールを手に持った咲也が言った。


「咲也、言ってることとやろうとしてることが合ってないよ」

「じゃあこれはおまえにやる。俺は泳ぐ。これで問題ないだろ」

「えぇ……めちゃくちゃだなあ。じゃあなんでボールを持ってたんだよ」


 苦笑しつつ、僕は彼からボールを受け取った。普段よりなんだか意地になっているというか、どこか態度がおかしいような気もしたが――原因については考えるまでもないだろう。


 記憶を失ってしまった葉那をちらりと見る。彼女はまるで初めてここに来たような顔をしながら、白い砂や海の青の美しさにすっかり夢中になっているようだった。彼女はとても楽しそうだが、僕の気分は対照的に黒く沈んでいくように思えた。そしてそれは、咲也もまた同じなのだろう。


 目の前の現実に飲み込まれそうになっていると、後ろから明るい声が届いた。見れば、唯一水着に着替えていない槇村さんがパラソルの下でひらひらと手を振っている。


「じゃ、そういうわけであたしはお留守番~。みんな休憩したくなったら戻ってきてね~」


 彼女は包帯が巻かれた腕で僕らを見送った。一緒に海に入れないことは残念だったが、いつもどおりの彼女がそこで笑っているだけで、僕はほんの少しだけ安心感を得られたような気がした。変わらないこと、普段と同じであること。彼女から、それらの大切さを教えてもらったようにさえ思えた。


 怪我で泳げない槇村さんに荷物番を任せて、僕らは海に入った。

 僕と葉那、そして吉田さんは浅いところでビーチボールを投げ合ったり、借りてきたゴムボートに乗ったり、思い思いに水遊びを楽しんだ。ちなみに咲也は遠泳の誘いを全員に断られ、渋い顔をしながらひとりで泳いでいた。変な意地を張らなければよかったのに。


 僕は遊んでいる間も、しばしば葉那の様子を覗っていた。彼女がどんな反応をするのか、記憶に何か変化があるのか、気になって気になって常に溺れてしまいそうだった。青い水着の女の子はずっと楽しそうに笑っていた。海水をかぶって乱れてしまった髪でさえも、きらきらと光って美しく見えた。でもそれは、葉那ではなかった。あくまで彼女は、葉那と同じ姿をした初対面の女の子に過ぎなかったのだ。


「おー、おかえり渡瀬」


 休憩するとふたりに告げて、僕は海から上がった。レジャーシートに戻ると、パーカーを脱いでTシャツ姿になった槇村さんが座っていた。彼女はみんなが遊んでいる様子をぼんやり眺めながら、腕の包帯をゆっくりとさすっている。


「……痛む?」

「いんや。ただ、あたしも泳ぎたかったなーと思ってね」

「はは、そしたら咲也もひとりで遠泳なんかせずに済んでたかもね」


 僕たちは顔を見合わせて笑い合った。お互い心から笑えていたかは、判らない。


「お兄ちゃん、荒れてんねえ。まあ仕方ないけどさあ」

「うん……」


 僕は槇村さんの隣に腰を下ろした。自分の荷物からペットボトルを取り出すと、勢いよくキャップをひねった。少しだけ喉が渇いている気がする。海遊びで疲労もあるのだろうか、僕は自分の口がずいぶんなめらかになっていることに気がつけなかった。


「実を言うと、少しだけしんどくなっちゃったんだ。一緒に遊んでいるあの子が誰なのか……僕も判らなくなった」


 あっと気がついたときには、すっかり余計なことを言ってしまった後だった。こうなるとごまかしても無駄だ。僕は腹を括って、槇村さんに胸の内を聞いてもらうことにした。転校生とはいえ今や友達になっている彼女になら聞かせてもいいかなという気持ちも、少なからずあったのだ。


「あの子は葉那だよ。でも僕の知ってる葉那じゃないんだ。自分のことまで忘れてしまった彼女は――本当に葉那なのかな?」


 あれは記憶を失っただけの葉那だ。彼女が葉那ではなくなったわけではない。そんなことくらいは理解しているつもりだった。


 だから僕は、残酷なことを言っているのかもしれない。あの子が自分の望む葉那ではないことに腹を立てて暴れているだけなのかもしれない。今日彼女をここに連れてきたのも、記憶を取り戻して昔の彼女に戻ってほしいという自分の願望を押しつけているだけなのかもしれない。勝手に期待して、そして勝手に失望して、自分がおそろしく身勝手なことをしているだけにも思えた。


「……ごめん」


 僕は彼女の顔を見ずに謝っていた。あふれ続ける自分の心に蓋をしたくなったのだ。


「……あたしさあ」


 身体が少し冷えてきた。

 海のほうでは、いつの間にか泳ぎから戻ってきていた咲也が、僕に代わって葉那たちとビーチボールで遊んでいた。


「なんか変わってるなと思ってたんだよね。あんたたち三人のこと」


 ごまかすようにペットボトルのお茶を飲んでいると、槇村さんは言った。


「ただの友達同士っていうのも違うし、でもどっちかと付き合ってるとかじゃなさそうだし。だから、和穏の言ったことで納得した……気がする」


 彼女はふっと力を抜いて笑う。最初の冷たい印象が嘘のような柔和な笑顔だ。


「それにあれだよね。最初から花邑って名字なら、葉那なんて名前つけないよね」

「……まあ、そうかもね」


 僕は彼女の話を黙って聞いていた。今は自分がどんな気持ちでいるのかもよく見えない。


 彼女はふう、と息をつくと、声を低くして言った。まるで誰にも聞かせたくないような、そんな声色だった。


「あんたたちはさ。みんなが知らない間もずっと戦ってたんだね。あの子に宿ったに、なんとか立ち向かおうとしていたんだよね」

「……うん」


 そう言ってもらえたのは、初めてだった。

 そのせいだろうか。冷えていた僕の身体の奥から、何か温かいものが湧き上がってきた。


「あんた、泣いてんの?」


 それは涙の筋となって僕の両目からあふれた。さすがに恥ずかしくなって、僕は手持ちのタオルを頭から被って顔を伏せた。


「……あいつほどじゃ、ない」

「…………」


 海のほうから、咲也が何か大声を出しているのが聞こえる。それはいつもよりずっと大げさで、どこか無理をしてはしゃいでいるように思えた。槇村さんは僕と葉那たちとを交互に見遣ると、初めて聞くようなやさしい声で僕に言った。


「ん。そうだね。本当にそうだと思うよ――」

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