葉那編⑭:めざめのあさ

 夢を見ていた。小さいわたしはふたりの男の子と遊んでいた。


 片方はわたしのお兄ちゃん。見覚えはないけど、夢の中のわたしはそう呼んでいた。もうひとりは、お友達。もう少しで顔が見えそうだったけど、太陽がまぶしくて――。


「……?」


 その日、わたしはやわらかいベッドの上で目を覚ました。朝だ。よく晴れていて気持ちいい。


 この部屋はどこかで見た、ような気がする。それに確実に知っている匂い。しばらく周囲を見回して、お鼻を動かして、ようやくここが自分の部屋であることを思いだした。とりあえず、起き上がってみようと思う。


 わたしは洗面所に向かった。洗ってさっぱりした顔面をタオルで拭っていると、ふと同じように顔にタオルを当てている女の子と目が合った。彼女はまっすぐな髪を胸のあたりまで伸ばしていて、どちらかというとアウトドアやスポーツが似合いそうな印象の人だった。決して色白ではないけど肌つやがよくて健康的で、何より濡れたように光る黒い瞳が特徴的だった。


 今の彼女は少しだけ眠そう。まだ朝早いから仕方がないと思う。そこまで考えたころ、わたしはふと気がついた。そう、鏡の中の彼女――この女の子は、鏡に写ったわたし自身だった。自分のことを忘れるなんて、いくら寝起きだからってどうかしている。


 洗面所で用を済ませたわたしは、とりあえず自分の部屋に戻ることにした。そういえば今日は何曜日だっただろう? 何か、用事があったりしなかったかな? そわそわしながらスマホを確かめると、今は土曜日の七時前。すがすがしい休日の朝だった。このまま部屋でのんびり過ごそうかなと思ったそのとき、壁掛けのカレンダーに書かれた書き込みがわたしの目に入った。


『九時 駐車場集合 海!!』


 わたしは、カレンダーにペンで書き込むタイプだったらしい。大きめの文字でどどん、と記入がされていた。とりあえず、今日は外出の予定があるらしい。誰と? 何人くらいで? よくわからないけど、わたしはクローゼットを開けて洋服を選ぶことにした。


 しばらく迷った結果、わたしはどうにかこうにか白い麻の半袖ワンピースを選び出した。スカートの丈は膝の少し下くらいで、ウエストの部分はリボンで絞れるようになっている。着てみると非常にしっくり来るし、自然と顔がほころんだ。どうやらわたしのお気に入りの一着だったらしい。


 服が決まったら、次は髪の毛だ。わたしはふたたび洗面所に向かった。


 そういえばここは単身者向けのアパートのようだ。どうやらわたしは独り暮らしをしているらしい。鏡で見る限り、まだ未成年のようなのに。何か理由があった気がするけど、なんだったかなあ。


 鏡の前に立って、髪の毛をあれこれといじってみる。

 三つ編み、ふたつ結び、ほかにもいろいろ。試してみたけどいまいちしっくりこなかった。こうなると残りはポニーテールくらいかな? そう思って髪の毛を持ち上げようとしたけど、直前になってやめた。特に理由はなかったけど、なんとなく、今のわたしがそれをやってはいけない気がした。


 こうなると、髪の毛を下ろしたまま行くしかないか。邪魔になったら括ればいいや。


 わたしは髪をブラシで念入りにとかして整えて、よしとした。ベッドの脇に置いてあったバッグの中に水着を含めた必要なものが入っているのを見つけたし、朝食は外で調達すればいい。そうなると、あとは出発するだけだ。


 ところが、ここでわたしは重大なことに気づいてしまった。集合場所になっている駐車場の場所が判らないのだ。したがって、ここからどれくらいの時間がかかるのかも判らない。困ったなあ。とはいえ約束を破るわけにもいかないから、とりあえず外に出ることにした。まだ八時前だし、今から出ればどうにでもなるだろう。それに、外に出たら思い出すこともあるかもしれない。


 わたしは戸締まりを確認し、荷物を持って家を出た。アパートの敷地から道路に踏み出したところで、目の前に若くてきれいな女の人が現れた。彼女はどことなく白い顔でわたしのことをじっと見ており、明らかに不審だった。しかし、わたしは不思議と彼女のことを怖いとは思わなかった。


「……あの、何か?」


 だからわたしは、ごく自然に女の人に声をかけていた。

 彼女は驚いたように目を見開くと、困ったように顔を伏せた。なんだか顔色が悪いようだ。彼女は胸に手を当てて深呼吸をすると、意を決したように話し始めた。


「あなたは、海へ行くのでしょう?」


 わたしはうなずいた。彼女はわたしの何かを知っているらしい。


「これから集合場所に行くのよね? 場所は判るかしら?」

「……判りません。駐車場って、どこの駐車場なんでしょうか」


 彼女は小さな声で、そう、と言った。そして肩から掛けている小さなバッグから小さなノートとボールペンを取り出した。ありがたいことに、どうやら場所を教えてくれるらしい。しかしわたしは見知らぬ彼女がそこまでしてくれることにむしろ戸惑いを覚えた。そもそも、この人は誰なんだろう?


「あの、あなたは……?」

「私は……」


 わたしの質問に、彼女は少し迷うようにしながら答えた。


「私は、エミリア。エミリア――ロッソという者よ」


 エミリア――外国の人、だろうか。暗い色の長髪をしたエミリアさんは、いわゆる外国人らしい容姿ではない。でも、言われてみれば少し日本人離れした顔立ちをしているようにも思える。もしかしたら、半分か四分の一か、外国の血が入った人なのかもしれない。


 そうこうしているうちに、エミリアさんはさらさらとペンを動かして簡単な地図を描き上げていた。彼女はためらう様子を見せずにそのページを切り取って、わたしに差し出した。


「九時に、ここへ行って。あなたと同じ場所に行く人たちがいるわ。彼らはきっとあなたを受け入れる。あとはきっと――楽しいことが待っているから、ね」


 そう言うエミリアさんの瞳が、午前中の太陽を受けてきらりと光った。そこには、わたしのことを気遣うような純粋な光が宿っていた。


「……わかりました。ありがとう、エミリアさん」


 彼女が何者かは判らないけど、きっと本当のことを言っているのだろう。わたしがノートの切れ端を受け取ると、彼女はほっとした様子でにこりと笑った。とても穏やかな笑顔で、わたしはそれを好ましいと思った。


 わたしはエミリアさんに見送られ、集合場所に向かって歩き出した。彼女いわく、今からならゆっくり朝食を食べてからでも間に合うという。それならコンビニにでも寄っていこう。スマホでコンビニの場所を調べて、なるべく集合場所に近いお店に向かうことにした。


「いってらっしゃい――葉那ちゃん」


 ふと、エミリアさんが何かを言った気がして、わたしは慌てて振り向いた。しかし彼女の姿はもうどこにもなかった。

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