葉那編⑬:遠く、思い出の海へ
僕が魔女と謎の声に出くわしてから校外学習までの毎日は、まさしく矢のような早さで過ぎ去っていった。いや、正確にはこの時期のことをきちんと思い出せないだけのような気がする。
まず、僕たちは葉那とほとんど話すことができなかった。
彼女は学校を休みがちになり、仮に登校していても放課後の部活動時間まで残っていることはなかった。体調が思わしくないのか、昼休みもひとりで静かに過ごしたいと言われてしまい、僕たちは彼女をそっとしておくしかなかった。
妹を心配した咲也は、葉那が胡桃原に通うためにひとりで住んでいるアパートを何度か訪ねたようだったが、彼女はインターホン越しに困ったような声を聞かせるだけだったと悲しそうに言っていた。
次に、会長さんの体調もなかなか回復しなかった。
会長さんの不調により、魔女研の活動もいまいち盛り上がらないまま、各チームの記事の状況確認だけして解散するという状態が続いていた。会長さんは最低限の確認だけを済ませると、青い顔をしてそそくさと部室を去っていった。それにつられてほかのメンバーも帰宅を急ぐようになった。
ちなみに、葉那と僕の記事はほとんど進んでいなかった。主力の葉那が不在である以上、作文が得意でも何でもない僕ひとりの力でできることは非常に限られていたのだ。ある意味仕方のないこととはいえ、力のない自分がひどく情けなかった。また、鏡が本物であったことについても報告できずにいた。葉那が鏡を見てひどく動揺したこと、そこからの一連の出来事を、僕自身も記憶の底に封じ込めてしまいたかったのかもしれない。
そんな状況ではあったが、会長さんは校外活動の前日、つらそうな表情を隠しきれないまま僕に笑いかけた。
「ねえ、私、きっと行くからね。今夜たくさん寝れば、きっと良くなるんだからね」
そして彼女は言うのだ。心からの笑顔を浮かべて、本当に楽しそうに。
「渡瀬くん、海、本当に楽しみね――」
見ていられなかった。今夜いくら睡眠を取ったところで、彼女が明日の朝に集合場所まで来られないことは明白だった。確かに初めこそ淡々としていた彼女が、日が近づくにつれて外出を楽しみにする発言を増やしていたのは事実だ。しかし僕にはどうしても、会長さんが、田中美蘭という人が海に行くことに強くこだわるか理由が理解できなかった。
魔女研が発足して初の校外活動ではしゃいでいる?
それとも、単なるイベント好き?
それとも――。
僕が会長さんの心中を測れないでいると、彼女は笑顔をふっと消して、誰に向けるでもなくつぶやいた。
「だって、私は負けないんだから……」
「会長さん……?」
彼女はそのままカバンを抱えて立ち去ってしまった。その顔は、不調と強い決意の色で染まっていたように見えた。
魔女研メンバーたち、すなわち吉田さんと槇村さんと僕は、会長さんがいなくなったのを見ると無言で帰り支度を始めた。そして槇村さんはどこか面倒そうに部室を出て行き、吉田さんと僕が取り残されてふたりきりになった。なぜか、誰もいない世界に僕たちだけがおいていかれた気分になる。自分でも何を言っているのだろうと思った。
「……帰ろう、渡瀬。戸締まりするよ」
僕たちは窓の戸締まりを一緒に確認し、エアコンと照明を消して部室を出た。僕は自分よりずいぶん小さな吉田さんが、銀色の鍵で部室を施錠するのを斜め後ろから見守った。彼女が部室を閉める様子は、まるで魔女研という宝石を鍵のかかった箱に閉じ込めるようだと思った。やっぱり自分でも何を言っているのだろうと思った。
「私は職員室に寄る。渡瀬はここまででいい。お疲れさま」
「はい、明日もよろしくお願いします」
そう言って立ち去ろうとすると、吉田さんにリュックの紐を軽く掴まれた。吉田さんは驚いて振り返った僕の目をじっと覗き込むと、今日いちばん真面目な顔で尋ねてきた。
「ねえ渡瀬、ビキニとスクール水着、どっちが好き?」
……この人もこの人で、何を言っているのだろうと思った。
「どっちでもいいです。強いて言うなら公序良俗に反しない感じでお願いします」
「わかった」
吉田さんはぐっと親指を立てて口角を上げた。しかし残念なことに、普段から表情に乏しい彼女はまったくと言っていいほど笑えていなかった。見事に一ミリも、だ。吉田さんは真顔でこういう変なことを言うので、慣れないうちはずいぶんと戸惑ったものだ。しかし最近ではこれが彼女なりのじゃれ合いであることが判るようになった気がする。
僕は今度こそ吉田さんに別れを告げて階段を降りた。向かう先は下駄箱――ではなく、旧体育館だった。明日葉那に会う前に、もう一度あの鏡を見ておきたいと思ったからだ。まあ、その葉那が来てくれるかどうか、残念ながらだいぶ怪しい感じになってしまったのだが……
しかし後ろ向きに考えても仕方がない。僕は彼女が集合場所に現れることを信じるしかなかった。それは祈りにも近い感情だったが、今の僕はそれ以外にすがるものを持っていなかった。そもそも明日の行事は葉那の記憶を刺激するためのものだ、彼女がいなければ、残念ながらただの楽しい海水浴になってしまう――。
僕は男子バレー部でにぎわう旧体育館に足を踏み入れた。彼らの邪魔にならないよう、そっと舞台袖を目指した。向こうも向こうでこっちを気にしていないらしく、僕がこの場所にいることを特に咎められることはなかった。
舞台袖では、男子たちの声やボールが跳ねる音といった喧噪が少しだけ遠く聞こえる。まるで水の中にでも潜っているようだと思った。そんな埃っぽい水中を泳いでいくと、目当てのものは以前と変わらずそこにあった。
――魔女の遺産、大切な思い出を写す『思い出鏡』。いまや僕たちの因縁の相手となってしまったそれは、舞台袖に差す西日に照らされてきらきらと輝いていた。
この鏡を葉那と一緒に覗いてから、実のところ二週間も経っていない。にもかかわらず、あの日のことは僕の中で忘れてしまいたい過去になりつつあった。しかし本当に過去にしてしまっては、葉那の変容と向き合えずにいた咲也をとやかく言うことなんてできないことくらい、僕は理解していた。少なくとも自分ではそのつもりだった。
「だから僕は、もう一度……」
どうせなら一緒に傷つこうと思った。咲也と、あるいは魔女研のみんなと一緒に。明日、葉那がどんな姿で現れたとしても、僕は彼女と一日を過ごしたい。僕たちの古い思い出が残る海で、新しい思い出を作りたい。だから――。
「もう一度、きみに会うんだ」
僕は鏡の前に立った。
きらきら輝く思い出鏡の中には、幼いころの葉那が僕と並ぶように映っていた。
そして僕らのほかにもうひとり、高校生になった今の葉那が、僕に向かってやわらかく微笑んでいた。
彼女の姿を見るだけで立ち向かう勇気がわいてくる。明日一日をがんばろうと思うことができる。ただ、この笑顔が僕の心にこびりついた願望であることだけが残念でならなかった。
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