葉那編⑪:霞

 放課後、葉那に呼び出された僕は約束の場所に向かっていた。待ち合わせ場所は校内ではなく、少し離れたところにある誰もいない小さな公園だった。背もたれのない木製ベンチに座ってぼんやりしていると、ほどなくして葉那が現れた。


「お待たせ、秋くん」

「うん」


 葉那は僕の隣のベンチに腰掛けると、前置きをせずいきなり話し始めた。


「昨日のことなの」

「うん」


 彼女が話したいことはなんとなく判っていた。葉那は前方の一点をじっと見つめたまま続ける。彼女が今求めているのは双方向の相談ではなく、一方通行の発散なのだなと思った。


「――わたし、偶然咲也先輩に会ったの。ほんとにたまたま。それで、わたしの用事に付き合ってくれるって言うから、話をしながら一緒に帰ることになったんだ」


 それが、昨日見たあの光景だったというわけだ。

 僕は、視線を動かさない葉那の横顔をじっと見つめた。それでも彼女が何を考えているのかはいまいち判らなかった。


「でもね……その後、ちょうどこの公園のあたりかな。なぜか先輩は怒り出したの。理由はよくわかんない。たぶん、本人にしか解らない些細なことがきっかけなんだと思う」


 葉那の前には細く長い影が伸びている。今年の梅雨は空梅雨もいいところで、今日も雨の気配はない。彼女の影はぴくりとも動かない。葉那本人もまた、座ったままほとんど動きを止めていた。


「それでね、自分でもびっくりしたんだけど……わたしは先輩に何か言い返したんだ」

「……ははっ」


 僕は思わず笑いをこぼしてしまった。葉那は朗らかで一見穏やかそうだが、こう見えて昔から口喧嘩に強かった。少なくとも、咲也が勝ってばかりではなかったように思う。葉那は僕のリアクションに反応することなく、それどころか真面目な顔を崩さないまま話の続きを急いだ。……少しだけ、寂しかった。


「でも変なの。わたし、自分が何を言い返したか覚えてない。それどころか先輩が何を言ったか覚えてない。どうして喧嘩をしたのか判らない……」


 僕は息を呑んだ。しかし葉那の横顔は相変わらず動かなかった。今の彼女は単に無表情というよりは、自分にとってどんな表情が適切か解っていない――そんな印象だった。


「今日のお昼もね、先輩の顔を見てから先輩だって認識するまで、ちょっとだけ間があったの。一瞬だけど、知らない人だって思って……それで……」


 葉那はついに困ったように笑うと、頭を横に振った。しかしすぐに元の無表情に戻って、また前方の一点を見つめるようになった。


「とっても、怖くなったんだ。どうして先輩のことだけ霞がかかったようにぼやけているんだろうって。もしかしたらほかの人のことも忘れるんじゃないかって。話したことを覚えていられないんじゃないかって。今日は秋くんが判るけど、明日には判らなくなるんじゃないかって……」

「葉那……」


 僕は彼女の名前を呼んだ。しかしそれ以上何も言ってあげることができなかった。


「それにね、まだあるの。すごく変なこと」

「……うん」


「咲也先輩と喧嘩したとき、わたし……わたしね、先輩のこと、お兄ちゃんって呼んだ……」

「…………うん」


 様々な感情が去来した、気がする。それらは瞬く間に混ざり合って透明になり、僕の胸を満たした。いっぱいになった僕は、彼女に向かって相づちを打つことしかできなかった。


「先輩はびっくりした顔をして、でも次の瞬間ふっとやさしく笑って……」


 咲也の顔が、この目で見たかのように頭に浮かぶ。


「わたしに、ありがとうって……言ったの……」


 そのときの彼は、きっと本当にやさしい顔をしていたのだろう。それこそがここ最近の彼が葉那に求めていたものだったのだから。


「どうしてかな? これじゃ本当に、先輩がわたしのお兄ちゃんみたいだよね……?」


 しかし、そうやって納得しているのは僕だけだ。事情の判らない葉那は少しずつ困惑の表情を浮かべ始めている。


「わたしのお兄ちゃんは遠くに住んでいて、今はメッセージでしかやり取りできなくて、それで、それで……」


 葉那は震える手でスマホに触れた。彼女の視線の先にはメッセージアプリ――『お兄ちゃん』とのトーク画面がまぶしく光っていた。


 実のところ、彼女が知りたいことを僕は全部知っていた。

 まず、葉那たちに関することはある部分を除いて本当のことだ。


 葉那は両親が離婚して花邑姓になって以来、ずっと彼女の兄とメッセージの交換をし続けていた。その相手はほかでもない咲也で、その頻度もそれなりに高かったと聞いている。葉那が咲也を兄だと認識できなくなってからも、彼女から『お兄ちゃん』宛てのメッセージは変わらず届き続けたのだという。


 ただ、春先ごろから徐々に会話がかみ合わなくなってきたのだと、咲也は言っていた。


 まず彼女の中で『お兄ちゃん』は遠くに住んでいることになっており、そのていでトークが進むようになった。そして葉那が高校に入ってすぐ、あるやり取りに危機感を覚えた咲也が慌てて妹に会いに行くと、そこにいたのは彼のことを知らない、初対面の後輩としての葉那だった――それがあの桜の日、僕たちの間に起こったすべてだった。


「あれ、どうしてかな? わたし、わかんないよ……」


 名字が違うから、彼らが兄妹だと知っている人はとても少なかった。それにお互い高校生だから、咲也が校内で妹に構うことはめったになかった。それが幸いしたのか、葉那の異変に気づいた人は僕たち以外ほとんどいなかった。


 だから、端から見たら『たまたま意気投合した先輩後輩グループ』が校内に新しくできたように思えただろう。本当は変わってしまった葉那と、彼女を見守ることしかできなかった僕らがいただけだというのに。


「ねえ、わたしが何をしたっていうの……? 教えてよ、助けてよ、お兄ちゃん……」


 葉那はここにいない兄――咲也じゃないかもしれない誰かに向かってつぶやいた。彼女はがっくりとうつむいたまま、しばらく動かなかった。そして何分くらいだろうか、長いような短いような時間が過ぎたころ、葉那はぱっと顔を上げたのだ。


「……?」


 彼女はあたりをきょろきょろ見回すと、僕に視線を合わせてぱっと笑った。


「あれ? 秋くん……? 難しい顔して、どうしたの?」


 葉那はいつもどおりの後輩、花邑葉那に戻っていた。


「ねえ、記事のことどうしようね? 残念ながら何も見えなかったから、偽物だった~って書くしかないんだけど。それだけだとつまらないし、もう少し何か盛り込みたいなって思ってて……」


「え……?」


 彼女と話がかみ合わない。まるで、ここ数十分の会話がなかったことになってしまったかのようだった。僕の背中に冷たいものが流れる。夏の手前、外の世界はこんなに蒸し暑いのに、僕の内側だけはどこまでも冷えていく心地がした。


「まあいいや、がんばろうね!」


 葉那が。

 小野寺葉那だけではなく、花邑葉那までもが。

 その存在が、僕の目の前で急速に薄まっているように思えた――。


「あ、そろそろ帰らなきゃ! じゃあね秋くん、また明日――!」


 葉那は勢いよく立ち上がると、手をひらひらと振って駆け出してしまった。


 僕は葉那の背中が小さくなってからも動けず、ベンチで呆然とすることしかできないでいた。そしてとうとう彼女が完全に見えなくなったころ、あの晩と同じとめどない涙が僕の頬を濡らすようになっていた。


「……忘却の魔法。彼女はそれにかけられている」


 突然響いた知らない声が僕の意識を引き戻した。

 葉那が座っていたベンチを見ると、あの黒いセーラー服の女の子が長い三つ編みを揺らしながら腰掛けていた。彼女はどこか苦しそうな顔でうつむいたまま、抑揚の少ない声で話し始めた。


「魔法の作用には偏りがある。特定の事柄だけが忘れられていくことはよくあるの。彼女は彼女にとって大事な記憶ばかりを失っているんだと思う。自分のこと、それに……大切な誰かのこと。だから、苦しいんだと思うわ」


 彼女は膝の上でぎゅっと拳を握った。彼女はなぜか、知らないはずの葉那のためにとても悔しがっているように見えた。それに彼女は葉那の状態を知っている。しかも、おそらく誰よりも詳しく。


「きみが、魔女なのか……?」


 僕は彼女に尋ねていた。

 彼女は顔を上げ、はっとしたような表情で僕を見た。


「ごめんなさい……」


 黒いセーラー服の彼女は僕の問いに答えなかった。その代わり、何度も何度も僕に謝った。僕は苦しそうに声を絞り出す彼女を見つめながら、魔法という言葉の意味を考え続けていた。


 葉那は咲也のことをどんどん忘れていっている。

 彼に、きみは葉那に大事に思われているんだぞと伝えてやろうかな、なんて、そんな場違いでくだらない考えが頭に浮かんだ――。

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