Dreaming Fruits
山切はと
プロローグ~魔女とゲームと学園と~
イリス・ロッソと夢の魔法
イリス・ロッソは薬剤師である。
彼女は日本のある街、ある薬局で働いている。家族は健在で、日々を楽しく暮らしている。好きな食べ物はアジの開きで、苦手な食べ物はトマトだ。
イリス・ロッソは魔女である。
イリスがまだ赤ん坊のころ、彼女の一族を含むいくつかの魔法家系が、遠く離れた欧州から日本に移ってきたという出来事があった。彼らの故郷の魔法的エネルギーが枯渇したため、豊かな新天地を求めたのがその理由だった。
そうしてやってきた現代の魔法使いや魔女たちがその後日本の地に定着し、豊かな魔法エネルギーを背景に活動を続けていることを知っている人は多くない。そしてイリスの家族もまた魔法使いや魔女であり、今でもひそかにその顔を持ち続けている。
たとえば定年を迎えた彼女の父は、魔力を込めたお守りを開運グッズとしてネットショップで売っている。また長年パートタイマーをしていた彼女の母は、最近になってよく当たる探し物占い(という建前の透視魔法)の仕事を始めた。どちらも評判は上々だそうだ。
ちなみにイリス自身はというと、休日を使って熱心に魔法の研究にいそしんでいる。古い伝統魔術をじっくり勉強したり、それを応用して新しい魔術式を作り出そうとしたり。薬局の仕事は多少忙しいものの、彼女の毎日はとても充実していた。
学生時代は少しやんちゃをしていたイリスであったが、今では立派な魔女に成長したのだ。昔の彼女を知っている友人たちからは驚かれたり、なぜか納得されたり。いずれにせよ、彼女は今の生活に満足していた。
あるとき、そんなイリスのもとにいとこのエミリアがやってきた。
彼女はイリスより一回りほど歳下の高校生で、日本で生まれた若い魔女だ。エミリアの母親は魔女ではない普通の日本人で、そのために彼女はどこか東洋的な雰囲気を宿していた。もっとも彼女のクラスメイトからすれば、外国の血を引く彼女は西洋的な雰囲気の女の子に見えるのだろうが。
その日のエミリアは、イリスの顔を見るなり深々と頭を下げた。長く伸ばした暗い色の髪はさらりと下を向き、さながら夜に見る深い川のようだった。
突然のことに戸惑うイリスに、エミリアは言う。
「お姉ちゃん、私に魔法を教えてください」
「え? 別にいいけど、急にどうしたの?」
エミリアは顔を上げると、まっすぐにイリスの目を見て言った。
「友達を助けたいの」
彼女の目には、光とも炎とも取れる色が宿っていた。その色の強さに、イリスはこの申し出を断る選択肢が存在しないことを悟るのだった。
かくして見習い魔女エミリアは、魔女イリスの押しかけ弟子となった。ただしエミリアは、魔法を学ぶにあたって詳しい事情を一切話そうとしなかった。そしてイリスはエミリアが語らないならそれでもいいと思っていた。
魔法を学びたい理由など、元来あってもなくてもよいのだ。まして、本人が口にしたがらないことを他人が無理に暴き立てるものでもない。たとえこの押しかけ弟子が、その胸の内にどんな動機を秘めているのだとしても。
*
それからエミリアは、師のもとで熱心に魔法を学んだ。イリスもまた、可能な限り彼女の熱意に応えた。
もとから魔法の家の子としてそれなりの基礎知識を持ち合わせていたエミリアは、伝統魔術よりもイリスの持つ新しい魔術式について知りたがっていた。なるほど、自分のところに来た目的はこれだったかと、イリスはわずかに口角を上げた。
イリスの新しい魔法は、まだ魔法使いの誰にも詳しく語られたことがない。
それは彼女の家族と近しい親族だけが『イリスがそういうものを作ろうとしている』という程度に認識しているものにすぎなかった。
魔法使いの家系に連なる者が新しい魔法を作ろうとすることは珍しくないし、その取り組みは彼らの間でおおむね肯定的に扱われる。ゆえにイリスは、エミリアがそれについて知っていることを不思議に思わなかった。むしろ若い見習い魔女が新しいものに興味を持つのは自然なことだと、テーブルを挟んで正面に座る弟子の視線を微笑ましく受け止めていた。
「エミリア。あたしの持っている魔術式、実際にはどんなものか知ってる?」
ある午後のこと、イリスは半ば意地悪のつもりで弟子に問いかけた。
「…………」
カーテンがそよそよと揺れる中、エミリアは押し黙ったまま、固い表情でイリスを見つめている。
彼女が質問に答えられないのは当然だ。イリスは『開発途中の魔法』の詳細を、誰にも話したことがないのだから。
もっと言えば、実はその魔法がとっくの昔に完成していることさえも、彼女は誰にも明かしたことがなかった。この新しい魔法はイリスにとって宝に等しいものであり、美しい箱の中で大事に大事に保管しているとっておきなのだ。
いまこうして話している最中でさえイリスは弟子にこの魔法を教えるかどうか迷い、心を揺らしていた。しかし一方で、その迷いの半分が恐怖――この魔法が弟子を失望させることを恐れる気持ちでできていることも事実だった。
なぜならこの魔法は――。
「えっと」
エミリアはテーブルの上の湯呑みに視線を落とし、やがて遠慮がちに口を開いた。答えられるはずのない質問に、この賢い弟子がどんな回答をしてくれるのか――イリスはそれを楽しみにしていた。
だから。
「……夢の魔法」
だからその答えを聞いた彼女は、驚愕した。
なぜならこの『夢の魔法』は、家族の誰も知るはずのないイリスと友達だけの美しい宝物は、決して箱の外に出ているはずのないものなのだから。
「え……?」
――エミリアに知られているはずがないのに。
魔女イリスは大いに困惑し、自分の湯呑みを倒しかけた。普段の飄々とした表情は見る影もなく、わずかにこぼしてしまった熱い緑茶に指を痛めながら、彼女はただエミリアの伏せられた視線の行き先を探すことしかできなかった。
イリスの慌てる様子を察したのか、エミリアは意を決したかのように勢いよく顔を上げた。頬は上気し、瞳は潤み、あらゆる感情がこぼれんばかりに湧き出している。そんな彼女は今にも決壊し、泣きだしてしまいそうだった。
エミリアは震える声を絞り出すようにして言葉を続ける。
「魔女イリスの、夢の魔法。お姉ちゃんの魔術式には私に必要な力が宿っている。だから私、エミリアは、お姉ちゃんに教えを請いに来たの。友達を助けるために――自分の欲のために私は魔法を学ぶの。それとも、これ以上の理由が必要?」
イリスは弟子から放たれる熱にやや視線を逸らしながら首を振った。
「……必要ないよ。十分だ、エミリア」
イリスはまだ熱い緑茶を喉に流し込み、長い息を吐いた。
「必要なものを持つ人にそれを求めることは、魔女として――いや、人間としてとても合理的だと思う。だからあたしはそれを否定できないし、君が夢の魔法を求めることを咎められない。たとえどんな手段でそれを知ったとしても、ね」
エミリアはびくりと肩を震わせる。それでも、彼女の瞳に宿る熱は決して冷めることがなかった。
イリスは弟子の様子に満足げに微笑むと、再び緑茶を口に含んだ。
「君は貪欲で素晴らしい学び手だよ。でもねエミリア、ひとつだけお願いがある」
エミリアはイリスの言葉に少しだけ頬をこわばらせたが、まっすぐに彼女を見たまま視線で話の続きを促した。
ふたりは頷きあう。
そしてごく慎重に、薄い果実にナイフを入れるように、イリスは沈黙を破った。
「君が助けてあげたいお友達のこと、お姉ちゃんにもっと詳しく聞かせてほしいんだ」
そのとき、やけどをした魔女の指が、わずかに痛んだ。
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