第10話

 綾部あやべしんは顔面蒼白で、何かに怯えるように目を泳がせていた。短い髪を無造作に逆立てた高校生くらいの少年だ。


「少しは落ち着いたかね?」


 桶狭間おけはざま警部に声をかけられて、心は即座に「平気です」と答えていたが、とてもそうは見えない。知り合いが目の前で死んだショックを考えれば、それは当然の反応のように俺には思えた。


「これからあなたに幾つか質問をします。答えたくなければ答えなくても結構ですので、どうか楽にしていてください」


 小林こばやしはそう前置きして、相手を睨みつけるように見据えている。

 心は青い顔で無言のまま頷いた。


「あなたと黒田くろださんは親しい関係だったのですか?」


「……はい。よく勉強を教えて貰っていましたから」


「今日、黒田さんは直接麻衣まいさんのところへ向かう前に、何故ここで貴方と会うことにしたのでしょうか?」


「相談にのっていたんです」


「それはどのような相談ですか?」


「僕は幹彦みきひこさんに勉強を教えてもらう代わりに、姉の趣味や好みをこっそり教えてあげていたんです。今日も姉に渡す誕生日プレゼントについて、どんな物がいいか相談にのってあげる予定でした」


「では黒田さんとは仲が良かった?」


「ええ。そうだったと思います」


 そのとき、小林のお腹からグーという不謹慎な音がした。


「失礼、どうやらお腹が空いてしまったようです」

 小林はその件に関して特に恥ずかしいとは思わなかったらしく、普段通り超然としている。


「実は私、昨日から何も食べてなくて」

 俺は昨夜小林が宅配ピザを一人で平らげていたのを思い出して、咄嗟に「嘘だ」と言いかける。けれど俺は言いかけた言葉をぐっと飲み込んだ。


「あの、もしよろしければ、麻衣さんの作った手料理を食べさせては戴けないでしょうか?」


「なッ!?」

 声を上げたのは桶狭間警部である。


「小林君、それは幾ら何でも……」


 不躾ぶしつけで無遠慮だ。

 しかし、これはおそらく小林の作戦なのだろう。事件解決の為なら手段を選ばない。それが小林こえの名探偵たる所以である。何か考えがあっての行動なのだ。


「小林君、食べ物なら今コンビニで部下に何か買いに行かせるから」

 桶狭間が子どもを宥めるみたいに言う。


「それでは駄目なのです。意味がない。私は麻衣さんの手料理を食べたいのです」

 小林はその後「早くしないと空腹で死んでしまう」と続けた。


 心は「姉に訊いてみないと」とはっきりしない声でモゴモゴと答えた。


「なるほど。それでは警部、早速綾部さん宅に参りましょう」

 俺はやたら張り切る小林に「お前はヨネスケか!」と心の中でツッコミを入れるのだった。


     〇 〇 〇


 玄関先で我々を出迎えた綾部麻衣は小林の話を聞いて、キョトンとしていた。童顔で元から丸かった目を、さらに丸くしている。恐らく、意味が分からなかったのだろう。

 それは俺にしても同じことだった。


「ですから、黒田さんの為にあなたが丹精込めて作った料理を食べさせて戴きたいのですよ、私は」


「……はァ」

 麻衣は困惑気味に溜息をつくだけだった。


「おい、もういいだろう小林君。帰るぞ。綾部さん、こんなときに申し訳ありませんでした」

 桶狭間警部は小林の首根っこを掴むと猫か兎のようにヒョイと持ち上げ、立ち去ろうとする。


「あの、待ってください」


 麻衣に呼び止められて、小林がニヤリと笑うのを俺は見逃さなかった。


「それは一向に構わないのですが、それが事件と何か関係あるのでしょうか?」


 当然といえば当然の疑問である。


「ありもあり。関係大ありです。麻衣さんの料理に舌鼓を打てば、この事件の謎は綺麗さっぱり全て解けるでしょう」

 小林はまたしても自信満々にそう宣言した。その自信は一体何処どこからやってくるのか、俺にははなはだ疑問なのだが。


 麻衣がテーブルに運んできたのはビーフストロガノフだった。手の込んだ料理の代名詞的なロシア料理である。


「本当に良かったのですか?」

 桶狭間警部は眉毛を下げて申し訳なさそうに麻衣に尋ねる。


「……ええ、もうこれを食べてくれる人はおりませんし、私も心も今は何も喉を通らないみたいですから。置いておいてもどうせ捨ててしまうだけですので」


 小林は料理の前で手を合わせると、何故かチラリと警部の方に視線を送った。


「桶狭間警部、鏑木にこのビーフストロガノフを食べさせてやりたいのですが、かまいませんね?」


「えッ、俺?」

 俺は驚いて声を上げる。


「そう、お前が食べる」


「…………」


 あれだけ自分で食べたいと騒いでおいて、一体何のつもりなのだろうか?

 しかし考えてたところで俺に小林の考えていることなど分かる筈もない。俺は小林に言われるままに席に着き、ビーフストロガノフをパスタに絡めて口に運んだ。


「う」


 その味は強烈にして鮮烈だった。ごく控え目に言って、不味い。ゲロ不味だった。腐った牛乳のような味がした。


「いかがでしょう?」

 麻衣が感想を求めてくる。その顔はどういうわけか誇らしげですらあった。まさかこの料理に自信があるということなのか?

 その隣で笑いを堪えている小林の顔がチラリと見えた。やはり確信犯だったのだ。小林は始めから麻衣の料理が不味いことに気が付いていた。それで俺に料理を食べさせようとしたのだ。


 しかし、それが事件とどう関係してくるのだろうか? 流石に俺への嫌がらせの為だけにこんなことをするとは思えない。

 何にせよ、ここでこの料理を「不味い」と言って料理を残すのは小林の思う壺のような気がする。それは何だかしゃくだった。ならば気合で食べ切ってみせるまで。


 五分後。

「……ギブアップ」

 四分の一程食べ終わったところで、俺の心はポッキリと折れていた。


「一つ分かったのは、麻衣さんの料理は死ぬほど不味いということですね」

 俺は心の底から正直な感想を言った。麻衣には悪いが、不味い料理はそれだけで重罪である。


「鏑木がたった今証言した通り、麻衣さんは極度の料理下手でした。そして婚約者である黒田さんは麻衣さんの料理が不味いことで悩んでいた。違いますか?」

 小林に一瞥されて、心はただ青い顔を怯えるように伏せていた。


「おいおい小林君、さっきから聞いていたら人様に料理をねだっておいて、それはあまりにも酷くないか?」


「でしたら警部も一口食べてみるといい」


「……いや、私は鏑木君と違って妻も子もある身。遠慮しておこう」


「…………」


 口々に料理を貶された格好の綾部麻衣は、部屋の隅で小さくなっていた。


「では前置きはこのへんにして、そろそろ事件の真相についてお話させて戴きましょうか」

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