ライ麦畑で夢を見て

睡眠欲求

ライ麦畑で夢を見て

ライ麦畑で夢を見て


「で、どこに向かってんだ?」


助手席で窓の外に広がるライ麦畑を見ながらジョンが言う。若い男だ。ハンドルを握るスラックは何も答えない。彼も若い男だ。車はライ麦畑を横断するように敷かれた道の上を走っている。根を張り生える植物は風に吹かれ一方向に揺れる。まるで無垢な少年少女が体を揺らし合唱をしているようだ。窓を少しでも開ければ外に吹く風が車内にすぐさま入り込むだろう。日光が照りつける日だったが汗をかくほど暑くはない。ライ麦畑は地平線まで続いている。


「おい。聞いてんのか?」


ジョンはスラックのハンドルを握っていることで伸びてる肩を叩きながら言う。


「あぁごめん。なに?」


スラックが言う。ジョンはどこに向かっているかをもう一度尋ねるが、その態度は悪態そのものだった。


「探し物を見つける旅をするつもり」


スラックは何か覚悟を決めたような口振りだ。


「なんだ?今日は”バナナフィッシュ”にうってつけの日だったか?それともクリスタルスカルか?何を探してるんだ?」


ジョンは鼻で笑う。冗談混じりの口調は彼の特徴であった。日はまだテッペンに位置している。二人にはまだ時間がある。


「わからない」


スラックは真面目な顔で答える。


「そうか」


ジョンは考えることを放棄した。今、車を動かしているのはスラックだ。ジョンに抵抗することはできない。観念したジョンは座席に身を任せる。目を閉じた。


「わからないけど、何か見つけにいきたいんだ」


スラックが徐に口を開いた。


「何かか。俺だったら”彼女”を見つけに行く。もう何年だ?」


ジョンは目を閉じている。目を開けて聞くことなどできなかった。沈黙が流れる。


「……三年」


スラックが沈黙を破り言う。悲しさを感じる発声だ。


「彼女はバナナフィッシュだ。会ったら死にたくなるかもな」


ジョンが言うとスラックは黙って頷いた。彼の顔は自分のことにも関わらずどこか他人顔だ。


「俺も一回会ってみたいよ。お前の彼女さんとやらに」


ジョンはどこか嘲笑を含み言う。彼は目を開け前を見つめる。


「人を愛することができなかったお前が。大戦で気が狂っちまったお前が。唯一愛した人を。一度拝んでみたいよ」


ジョンの言葉には彼の真意が積もっていた。


「別に愛してるわけじゃない。彼女が必要なんだ。だから愛さなきゃいけないんだ」


「はいはい、そうですか。でもその言葉いいな」


ジョンはスラックを頑固だと思って疑わなかった。彼はポケットに手を突っ込み中をほじくる。ノートを取り出しスラックの言葉を書き込んだ。だが気に入らずページを破りポケットに突っ込んだ。またページをめくる。文章を探していた。指でページを舐めるようになぞる。一つの文章で指を止めた。”これだこれだ”とニヤける。


「人を愛することは同時に自分を愛することである。今のお前にぴったりの言葉だな」


ジョンはまるで物語の語り手のような声調で声を発する。ノートを閉じた。ジョンはノートを車内に投げ捨てた。それから頭の後ろで手を組み、彼にとって楽な姿勢をとる。ふぅと息が漏れた。


「せっかくの夏休暇だって言うのによ。それも一週間だけの」

ジョンはわざと"一週間だけ"という言葉を強調して言った。

「別にいいじゃん。ジョン、お前だってやることなかっただろ」


スラックは何か吹っ切れたようにしゃべる。彼はジョンの嫌味のような言葉に挑発されたのだ。


「そりゃなかったけどよぉ。もしかしたらあの後に美人な女に誘われたかもしんねぇのに」

ジョンが言う。

「そんなわけない」

スラックが否定する。

「こんななんの楽しみもない旅をするよりかはいいぜ」

ジョンが言う、いつにも増して否定的な意見だった。


「言ってみれば一夏の冒険をするんだよ」


ジョンの発言を弁明するかのようにスラックが言う。無垢な少年じみたことを言っているのは自分自身でよくわかっていた。


「なんだ?少年時代が恋しくなったか?ビリーの腕時計でも探すか?」


笑いながらジョンが言った。彼らがまだ十五の時、クラスメイトのビリーの腕時計がなくなった。彼の祖父の形見ということもあり全校生徒で学校中を探す大事となった。結局見つからずビリーはそれから一週間学校に登校しなかった。そんな昔の話をジョンは記憶の底から引っ張り出してきたのだ。ジョンは昔の記憶は覚えていた。


「探さない」


ジョンが言い終わると同時にスラックが冷めた口調で言う。


「じゃあ何を探す?」

「ガソリンスタンドに寄る」


反対車線の道に沿ってガソリンスタンドが構えていた。白の塗料で塗られた白い木の壁は所々剥げ、深い茶色が顔を出している。スラックはガソリンスタンドに車を徐々にスピードを落としつつ入れた。


「なんか買ってくるものあるか?」


ジョンが車を降りドアを音を鳴らしながら閉め言う。彼なりの気遣いの発言だ。


「ない」

「そうか」


ジョンはガソリンを車に補充するスラックを背に売店へ入っていく。商品をある程度見回す、度々受ける商品の誘惑に耐えつつ、今自分に必要なものを見極めた。下手をすれば高いものを買ってしまいかねない。彼にとっての高いものは基準が明確ではなかった。数々の商品の中でミントガムに目をつけ手に取る。レジに出した。レジ係がダルそうに商品の値段を出す。同額をポケットから手探りで取り出しレジ台に並べた。ジョンはガムをポケットに入れ車に戻った。


「ガソリン入れ終わったか?」


ジョンはガムを口に放り投げながら言う。ガムはキレイに彼の口の中に収まった。


「入れ終わった」


スラックが無言で手を出す。ジョンはガムをスラックに放射状に投げた。スラックはそれを受け取ると同じく口に放り込む。


「ちょっと電話してくる」


スラックはそう言うと売店の横にある公衆電話に向かい受話器を取った。コインを入れどこかにかける。ジョンはつまらなさそうにガムを噛んでいた。


「もしもし。今はガソリンスタンドにいます」


ジョンに話し声が僅かながら聞こえてくるが全ては聞き取れない。三分ほどでスラックは車に戻ってきた。ふたりは車に乗り込んだ。車が走り出す。ライ麦畑はまだ終わらない。


「で、結局どこに行くんだ?」


ジョンが尋ねた。ガムを噛んでいたため、しゃべりはそこまでハッキリしていない。


「まずはこのライ麦畑を抜ける」

「そうか」


ジョンは正直安心していた。最近まで大戦の後遺症で病んでいたスラックが少しずつ元気になっているからだ。ジョンは外を見ながら朝のことを思い出す。



——「なぁジョン・シェルビー。今、暇?」


家の前に止めた車の中からスラックが言う。彼は注意を引こうとわざとラストネームまで呼んだのだ。


「あぁ。暇だけど」


ジョンはダルそうに言うがその口調にはどこか好奇心が含まれている。


「じゃあ乗って」


ジョンはそのまま車に乗り込んだ。ポケットには財布やノートが納まっている。映画館へ向かうのだろうか。だがそのうち街を出てどこかわからない場所に連れてこられていた。流石に嫌気がさしジョンは言った。


「で、どこに向かってんだ?」




——「今日はたぶん帰らない」


スラックが徐に言う。今朝の記憶に更けていたジョンを現実に戻す一言だった。


「本当に旅ってわけか。でも俺着替えも何も持ってきてないぜ?」


ジョンが言う。


「大丈夫」


スラックが返したのはその一言だった。ジョンは車内に放っていたノートを見る。そしてダッシュボードにあったペンを取り、いくつか文章を書いた。ノートをまた放り投げた。その積み重ねか、ノートはボロボロになっていた。外を眺める段々と目が閉じてくる。




——刑事がいた。黄色いテープをくぐり中に入る。よくある事件現場だ。自殺らしい。机の上には紙切れが一枚置いてあった。手袋をつけ紙の文章を読む。



——ジョンはハッと目が覚めた。


「どれくらい寝てた?」

「全く寝てない。一分もないくらい。逆に寝てたの?」


スラックが答えたがそれは質問にもなった。ジョンはガムをポケットに入っていた破れた紙に包み、外に投げ捨てた。そして新しいガムを口に放り込んだ。

十分ほど経っただろうか外の景色を覗けば夕陽が、沈むところだった。


「最近どうも眠たいんだ」


ジョンが言う。目を擦りあくびをする。ジョンは軽く伸びをし目を覚まそうとする。結果的にそこまで効果はなかった。


「あぁ。そうらしいね。ずっと眠たそうな顔してる」


スラックは言う。彼は続ける。


「最近あんまり寝てないの?」


「いや、そりゃもうぐっすりなんだけどな」


どこか不安げな顔でジョンが言う。


「そこら辺で一回止めていい?疲れた」


スラックが言った。まだライ麦畑を抜けてはいなかった。ジョンは無言で頷いた。路肩へ車を停める。ジョンとスラックは車を降りスラックはジョンが寄りかかる車の横に寄りかかった。スラックはポケットから煙草を取り出す。口に咥えジョンの目を見た。


「お前もいる?」

「いらない」


ジョンはその性格や見た目に反して体に悪いものは摂取しなかった。酒も煙草も薬物も何もやっていなかった。いわばクリーンというものだ。スラックはそれを知っていたが、あえて聞いたのだ。スラックが吸い吐く。ジョンから見たその横顔は今まで見たことのないようなどこか切なく哀愁漂う、そして吸い込まれるような不思議な顔だった。ジョンが知らない顔だった。


「俺な、夢があるんだ」


ジョンが空気に滲むようゆっくりと言う。彼は自分でもなぜこのようなことを話し始めたのかわからない。スラックは煙草の煙を目で追っていたがその意識はジョンに確実に向けられていた。


「なに?ライ麦畑で遊んでいる子供が崖から落ちそうになったところを捕まえる、”ライ麦畑のキャッチャー”になるって夢?」


普段あまり冗談を言わないスラックが言ったことに驚きを見せながらもジョンは首を横に振り否定した。深呼吸をし、鼓動を落ち着かせる。彼はなぜ自分が話しているかはわからない。


「死にたいんだ」


ジョンは心のうちを明かす。三年前のスラックと同じだった。そこには恐怖や解放感はなくどこか無情な心が生まれていた。

「バナナフィッシュを見たのは俺かもな」


ジョンが呟く。それはスラックにではなく自分に向けた発言だった。そのまま彼は続ける。


「言うなれば破滅願望かもしれない。いや破滅じゃない。死にたいんだ」


スラックは何も言わずただ煙草を吸い吐く。


「俺、お前に誘われて嬉しかったんだぜ。これで死に場所を見つけられるかもしれないって。なぁスラック。俺にも一本くれるか?」

ジョンは体に悪いものは摂取しない。だがこの時ばかりは自分を落ち着かせるものが必要だった。スラックは無言で一本差し出した。ジョンはそれを口に咥える。スラックはライターをポケットから出し煙草に火をつけた。ジョンは咳をするがなんとか吸えるようになった。


「こんなの吸ってて美味いか?」

 スラックは無言でうなづいた。そして吸って吐く。ジョンも負けじと吸ってはくが味は変わらなかった。


「で、なんで死にたいの?」


スラックが言った。その言葉に優しさはなかったが、ジョンにとっては心地のいいものだった。

「天国に行きたいから。天国には、このライ麦畑みたいな景色が広がってるって考えるんだ。いつも見るクソな景色より、よっぽどいいじゃねぇか。この社会も人も大嫌いだ」

その瞳はまるで夢を語る少年のようだった。だが、社会への不満もその瞳には含まれていた。

「そんなん天国に行けるかわからないんじゃん。だから死なない。いい?」


ジョンが無言で頷く。スラックの意見には一理あった。今の時間はなんだったのだろうか。ジョンにはわからなかった。スラックは煙草を地面に落とし靴で踏みつけ火を消した。そして無言で車の前を通り、車に乗った。後に続いてジョンもスラックを真似て、踏みつけ火を消し車に乗った。彼はノートを拾い読む。いくつか文章を読んだ後、ノートをまた放り投げる。


「バナナフィッシュでも探しに行くか?」


ジョンが陽気な口調で言った。車に乗る前とは打って変わった表情をしていた。


「近くに海がない」


スラックが言う。ジョンは舌打ちをしガムを噛みながら外の景色と睨めっこをする。ライ麦畑は全てを吸い込んでしまいそうなほど、浅く淡い黄色を装飾していた。ライ麦畑はまだ抜けない。陽はだんだんと落ちてきていた。もう半分が地平線に埋まっている。やはり瞼が重い。ジョンはゆっくりと眠りに落ちそうになる。耳に風の音が確実に聞こえてくる。


——息が切れる。寒さと言う自然現象がここまで辛いものだとはジョンはおもってもみていなかった。辛い、その言葉が彼の脳内を反復し処理する。雪を踏む音、軍服が擦れる音だけが響いていた。その音の旋律を破るようにして轟音が響き渡った。ジョンの前を走っていた兵士が空中を舞う。鈍い音が鳴り地上へ打ち付けられる。その場にいた全員が固まる。だが今自分たちが置かれている状況について全員が悟り、考え、絶望した。ジョンはすぐさま木の影に隠れる。他に隠れようとするものもいたが隠れる前に倒れていった。ジョンは倒れる仲間と目が合う。ジョンの顔が引きつる。地面に積もった雪が飛び散り、木がえぐられる。五メートルほど離れた木からも仲間が発砲している。ジョンは自分が今やらなければならないことを判断し木から顔を出し発砲する。空気を切り裂く音が絶え間なく聞こえる。爆発すれば雪や土の他に血霧が舞い上がる。

「退けー!」

部隊の体調が言った。ジョンは後ろへ撤退する。前を走っている兵士が倒れる。撃たれたのだ。ジョンは彼のもとへ駆けつけ担ぎ走った。

「大丈夫か?」

ジョンが言う。

「もう俺はダメだ。たぶん肺をやられてる。置いてってくれ」

ジョンはその言葉を耳には入れず走った。

「もうすぐだからな」

ジョンは彼を励ますが、彼からの返答はない。ジョンはそんなことは関係なかった。二キロメートルほど走りキャンプ地まで走破した。そこに着くなり、彼を下ろすと息をしていなかった。

「メディック」

ジョンが呼ぶと近くにいた衛生兵が駆け寄るが衛生兵は生死を確認したあと去っていく。その背中は悲しさのカケラもなかった。ジョンは自分が救えなかったことに無力さを感じつつもなんとか平常心を保っていた。彼の脳裏に死んでいく仲間の顔が浮かぶ。それは決して消えないものだった。

「今日はここで野営だ。夜は交代で見張れ!」

隊長が言う。ジョンにとって野営は苦手だった。訓練でも何度かしたが、どうも慣れずにいた。彼は虫が大の苦手だったのだ。だがジョンは淡々と野営の準備を進める。頭の中にあったのは虫のことでもなく仲間のことだった。つい数時間前の出来事がフラッシュバックするたび、頭に激痛が走る。ジョンはそれに耐えながら作業を進めた。甲高い下手な笛吹のような音がする。その音の正体は誰もが知っていた。だが動くものは誰もいない。動かないというわけではなく、動く暇もなかった。音がした瞬間爆弾が着弾した。ジョンはその場から吹き飛ばされる。爆風によって空中を舞う体は勢いを失うと石のように重たく落ちていった。落ちる衝撃と共に頭を強く打ち付ける。ジョンの全身に苦痛が走った。


——ジョンはゆっくりと目が覚める。彼が驚くことはなかった。それは夢でもあり彼の記憶でもあった。


「今日は野営か?車中泊か?」


ジョンが不服そうに言う。


「野営ってそんなわけないじゃん。この先にモーテルがある。そこに泊まる」

スラックは驚きつつも答えた。

「了解」


会話をしていると目の前にモーテルが見えてきた。スラックはモーテルの五台ほどしか止まれない駐車場の一台分の場所に車を止めた。ジョンはノートとペンをポケットに乱雑に入れ車を降りモーテルへ向かった。スラックはもうモーテルの入り口の前に立っていた。

中はやはり想像していたように豪華ではない。二階建てではなく一階建ての縦に細長い造り。受付には五十代くらいの女性が座っていた。スラックとジョンが近づくと女性が気づきコルクボードに貼られた紙とペンを取り出した。


「何日宿泊ですか?」


無愛想に聞いてくる女性のバッチにはシンディと書かれていた。シンディは座っていたイスから立ち上がり接客する。


「一泊」


スラックが答えた。


「ベッドは?」

これも無愛想だった。スラックは特に気に留める様子もなくジョンも同じだった。

「ツインで」

「じゃあここに書いて」


シンディが指を指した紙はどうやら個人情報などを記入するようだった。スラックが書く。ジョンにはボヤけてよく見えなかった。目を細めるが名前や住所の部分だけペンで塗りつぶされたように見えた。大戦の後遺症らしい。たまに出る症状だった。だが対して気にしてはいなかった。スラックが書き終えるとポケットから紙幣を取り出し会計を済ませる。ジョンはただその光景を眺めるしかなかった。シンディは鍵をスラックに渡した。


「一○五号室よ。ごゆっくり」


シンディが言う。スラックとジョンは部屋へと向かった。廊下は外にあり、地面のコンクリートにはヒビが入っている。やけに目立つ緑色のドアを開け中に入る。ジョンは少し薄暗く感じたが電気をつけるとそう感じることはなかった。ジョンは部屋の中のドアを一つずつ開けていく。


「おい、この部屋トイレないぞ?」


トイレに行きたくて仕方がなかったジョンが言う。どこのドアを開けてもトイレを見つけることができなかった。


「あ、ほんとだ」


スラックの興味はあまり向かなかった。


「シンディに聞いてくる」


ジョンはそう言うと足早に部屋を出て受付に向かった。


「なぁ、あの。えっと……」

「シンディよ」


シンディが言う。ジョンは思い出したかのような顔を見せる。


「そうだ。シンディ。トイレってどこだ?」

「トイレね。トイレは外に出て右に曲がった建物の端にあるわ」

シンディは少し立ち上がりトイレの方角を指で指す。

「ありがとう」


ジョンは軽く会釈しトイレに向かう。駐車場を見るとスラックの車の他に二台止まっていた。ジョンがトイレがあるであろう場所の方向を見ると公衆電話で激しく口論になっている男がいる。口論相手は受話器ではなく、受話器の先にいる人物とだった。


「何も譲るものはない。俺だ。ぜんぶ俺のだ」


離婚協議中なのだろうか。明らかに頭に血が上っている。顔は真っ赤になり、眉間にはシワが寄っている。ジョンは車から降りる前にノートをポケットに入れておいた甲斐があったと言わんばかりにノートを取り出し、すぐさま男が言った言葉を書き綴る。

だがジョンは気に入らなかったのかまたページを破りポケットに入れた。そのまま男を横目にトイレに入った。お世辞にも綺麗とは言えない。タイルにはヒビが入り、ひどい匂いがする。だが、彼にその事についての問題はなかった。素早くトイレを済ませ外に出る。もう月が見え、辺りは真っ暗闇に包まれていた。照明が照らしていたが十分な灯りではない。公衆電話にいた男はいなくなっている。

足の速さは変えず部屋に戻った。部屋に戻るとスラックはベッドの上に腰を下ろしていた。


「トイレ遠かった」

まだ語学がつたない少年のように言う。

「ご苦労様」


スラックが言う。スラックは眠そうに欠伸をした。


「なぁ、なんで俺と旅をしようと思ったんだ?」

 ジョンがベッドに腰を下ろしながら言う。

「なんでか?なんとなく暇そうだったから」

「まぁあの時は一人だったし暇だったけど。それで本当に良かったのか?」

スラックが頷いた。

「ここ禁煙か」

スラックが舌打ちをしながら言う。机の上には禁煙と書かれた札が置かれている。ライターを取り出し付けは消しを繰り返した。

「腹減ったな。なんか買ってくるわ。何か欲しいものある?」

ジョンが言う。朝から何も食べていなかった。

「スナック菓子」

スラックは言った。ジョンはノートを取り出しいくつか文章を書く。その後、彼は財布を持ち部屋から出ていった。外は薄暗く、少し暑さを感じるが嫌になるほどではなく、ジョンはむしろ心地よく感じていた。シンディの机の上にいくつか菓子が売られていた。ジョンはいくつか手に取り、シンディの前に出した。


「買うの?全部で六ドルよ」

「オーケー」

彼は財布から六ドルを出した。

「ちょうどね」

シンディは六ドルを受け取りポケットの中に入れた。ジョンは買った菓子を手に持ち早足に部屋へと戻った。部屋へ戻ると机の上に菓子を開け、全て袋を開けた。

「ほら、買ってきたぞ」

「ありがと」

スラックはベッドから立ち上がり菓子がある方へ行き、早速食べ始めた。スラックはお腹が尋常でないほど減っていた。あっという間に一袋を食べ終えた。その光景に見惚れていたジョンと食べ始める。買ってきたのは三袋のみだった。ジョンが一袋目を食べているうちにスラックはもう一袋を食べ終えていた。

「お前二袋も食いやがった」

「別に運転してたんだからいいでしょ」

ジョンはため息をつき言う。

「もう一袋買ってくる」

財布を持ち部屋を出て行こうとする。

「もう二袋にして」

スラックが呼び止め言った。ジョンはまたため息をつき、部屋を出ていった。廊下を足早に進みシンディのところまで行く。

「もう二袋くれ」

ジョンが何もなかったかのように言った。

「もう食べたの?」

シンディが驚きつつ言った。ジョンは肩をすくめるしかなかった。

「四ドルよ」

シンディが言う。ジョンは財布から四ドルちょっきりに出した。

「はい。ちょうどね」

最初に感じた無愛想さはなくなっていた。菓子を手に持ちジョンは部屋へ戻ろうとした。それを止めるようにシンディが呼びかける。

「ジョン」

彼女は泊まるために、最初に書いた紙を見て名前を知っていたようだった。ジョンが振り返る。

「いい夜を」

シンディが言う。それを聞きジョンは笑顔で返答した。

「あぁ。いい夜を」

ジョンはゆっくりと部屋へ戻る。風も気温もヒビも全てが心地よく感じていた。やけに目立つ緑色のドアもキレイなものに見えた。今だったらあの汚いトイレもキレイに見えることだろう。そんな考えがジョンの頭をよぎった。だが、トイレに行くことはなかった。部屋へ戻るとまだかまだかとスラックが机の横のイスに座り待ち構えていた。ジョンが机の上に菓子を置くと一瞬で奪い取り袋を開け口の中へ放り込む。ジョンも負けじと口の中に流し込んだ。

「なかなかいけるな」

ジョンが菓子を噛みながら言う。まるで骨を砕くかのような音が部屋中に響き渡っている。ふたりにはその音は聞こえなかった。ただ目の前にある菓子に夢中だった。全て食べ終えたところで、スラックはベッドへ飛び込んだ。硬いベッドだったため、スラックは少々痛みを覚えた。だが質感は良かった。スラックは仰向けになろうと体を動かす。あまり体を動かしたくなかったがこればかりは仕方がなかった。体をベッドに任せる。それはスラックにとっていつにもなく快適なものだった。

「もう寝ていい?」

スラックが横になりながら言った。


「あぁ疲れただろ。あんなに運転してたら」


ジョンが言う。スラックは目を閉じるとふと今日の朝の事が瞼の裏に浮かぶ。



——白い建物の前に立つジョンを五十メートルほど先だろうか。スラックは視認することができた。ジョンの周りには白衣を着た男が複数人立っている。建物の横に車をつけた。ジョンはこちらに気づいていないようだ。他のその白衣を着た男としゃべっている。白衣を着た男と言っても、スラックはそれが誰かを知っていた。


「なぁジョン・シェルビー。今、暇?」


スラックは、ジョンかどうかを確認するためラストネームまで呼んだ。白衣の男たちはこちらを見て無言で頷く。ジョンがこちらを振り向く。


——ジョンが気づいた時にはもうスラックは寝ていた。ジョンはスラックが起きぬようドアを静かに開ける。外に出る。夜の空には、特に星は見えず雲で覆われていた。ジョンはガムを口にする事を考えたが、考えた末やめた。彼がポケットに手を突っ込むと紙が指先に当たる感触がする。取り出すと『俺だ。ぜんぶ俺のだ」と書かれた紙が入っている。公衆電話で離婚協議をしていた男の言葉だ。


「ぜんぶ俺のだ……」


ジョンは呟き、紙をポケットにしまいながら部屋に戻る。スラックのカバンから車の鍵を取り出した。スラックは小さめのカバンを持っていたため見つけるのはジョンにとって容易だった。


「スラック、車の鍵借りるぞ。ガムを忘れてきた」


スラックは何も反応しない。ジョンは車まで走って行く、走るといっても彼にとってはジョギング程度だ。車に着くとダッシュボードを開ける。ジョンは部屋に引き返しポケットの中に入っている紙を取り出し机の上に置いた。置いた紙はポケットの中に入っていたせいか、シワがついている。ジョンは気には止めなかった。ノートを取り出しいくつか文章を黙読する。


「ぜんぶ俺のだ……全部俺の事だったんだ」


ジョンは頭に拳銃を突きつける。頭蓋骨にその感触が伝わる。声が聞こえる。拳銃構え、引けよ、引き金。重力に任せ崩れ落ちる。

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