不思議の夢よ、安らかに

空廼紡

エピローグ

 友人クリスの娘、キャロラインが死んだ。七歳だった。


 その報せをクリスから直接聞いたロリーは、ガラガラで鼻が詰まったような声で告げた友人の心情を想って胸が締め付けられた。


 すぐさま友人の元に駆けつけて慰めたあと、最後にキャロラインの顔を見ておきたかったが、残念ながらそのときは仕事の都合で外国にいた。急いで帰国できたとしても葬式に間に合わないことは明白で、結局出席することは叶わなかった。


 帰国した後も、お互いゆっくりと顔を合わす時間がなく、気が付けば一年が経とうとしていた。


 ある日。クリスから連絡が来た。そこそこ近況報告をしたところで、改まったような口調でクリスが頼んできた。


『そろそろキャロンの遺品を整理したいんだ。けど、キャロンの物を見るとまだ辛くて……悪いけど、手伝ってくれないか?』


 キャロンはキャロラインの愛称だ。


『それは構わないが……まだ整理がついていないなら、無理にしなくてもいいんじゃないか?』


『心の整理はそれなりに出来たんだ。どうせ一生辛いんだ。だから早めに終わらせないと、少しも前へ進めない』


 それもそうか、とロリーは納得した。


 身内、しかも娘を失った悲しみは十年経とうが消えない。一生ものだ。それは独身で子供もいないロリーにでも容易に想像できることだった。


 クリスの妻はすっかり塞ぎ込んでしまい、今は田舎の実家で療養中とのことだ。だから手伝いには来ないという。


 約束の日。


 最寄りの駅に着いて早々、キャロラインの墓参りに行った。その後に郊外にあるクリスの家に向かった。


 クリスの家は築五百年の三階建て古民家だ。煉瓦造りの家で、窓枠が白く塗られている。年季の入った煉瓦の外壁にバラ科の蔦が巻き付いていて、二階と三階の間まで続いている。


(草がボーボーだな)


 前来ていたときは、ガーデニングが趣味だった奥方が庭の世話をしていた。美しく整備されていた庭が荒れ放題になっていて、歩きづらくなっている。


 キャロラインが死んでから、ここに住んでいないのだとクリスが言っていた。

 けれど、獣道のような道が玄関まで続いている。


(クリスか? 鍵を隠しておいたって言っていたし)


 クリスは大学の教授をしている。今日は駅で待ち合わせの予定が急遽講義が入ったため、先にロリーが家に行くことになった。


 駅で時間を潰すとは言ったが、それだと日が暮れてしまうから先に作業をしてくれ、と言われたのだ。


 もう六年半も行っていない友人の家に、本人不在のまま入るのは結構気が引ける。

 本人が良いとは言っているものの、それでも本当にいいのかと不安が付き纏う。


(いくら友人とはいえ、信頼しすぎるぞ)


 友人の脳天気さに若干苛つきながら、玄関に向かう。


(たしか裏庭のテーブルの裏に貼り付けてあるって言っていたな)


 裏庭に続く道も作られていたので、踵を返して庭に向かう。家の裏に回るとすぐに白くて丸いテーブルが視界に入った。傍らには同じデザインの椅子が三つ置かれている。


 テーブルの天板の裏を覗き込むと、ガムテープが貼られた箇所がある。おそるおそる触ってみると、鍵みたいな形をしたものがあるのが分かり、ガムテープを剥がす。


 予想通り鍵が出てきてそれを手に取って、玄関に戻る。


 玄関の鍵を開けて中に入ると、埃がブワッと襲ってきて思わず咳き込んでしまった。


「ゲホッゲホッ! 埃がすごいな!」


 腕で鼻と口を塞ぎ、家の中を睨む。どことなく黴臭い気もする。


 思っていたよりも酷い状態だ。盛大に溜め息をつきたかったが堪え、目的の部屋に向かう。


 キャロラインの部屋は二階にあって、部屋の前には空の段ボールが積まれているからすぐ分かるとのことだった。


 階段を上り二階に着くと、すぐ見つかった。部屋に向かってドアに掛けられたプレートを見やる。


 しっかり『キャロルの部屋』という文字を確認し、瞼を閉じる。


(キャロライン、君の部屋に入るよ。君にとっては知らないおじさんが自分の部屋に入る感覚だろうけど、許してくれ)


 親友からの頼み事だから、と自分に言い訳しつつ緊張した面持ちでドアノブを回す。


 ぼんやりとした明かりに照らされた、天幕がまず目に入った。白を基調した部屋には可愛らしい家具が置かれている。プリンセス風の部屋だった。


 カーテンを開けて、部屋の中を明るくさせる。太陽の光に照らされた大量の埃が舞っている。


(七歳……七歳かあ。早すぎるなあ)


 死因は聞きそびれたから知らない。ただ家の敷地内で亡くなったとしか聞いていない。


 クリスとは定期的に連絡を取っていて、毎回キャロラインの様子を聞いていた。病気の話は一切出てこなかったので、事故の可能性が高いということくらいしか分からない。


 キャロラインの死を聞いて、ロリーだって全く悲しくないと思ったわけではない。最後に会ったのは赤ん坊の頃だったが、それでも生きていた頃のキャロラインを知っている。


 小さくて、柔らかくて、ミルクの匂いがした、暖かい存在だった。ロリーがあげたウサギのぬいぐるみをあぐあぐと噛んでよだれまみれにして。


 そんな思い出があるからか、薄らとした悲しみが纏わり付く。


(なんだかんだ、俺もキャロラインの死を受け入れていないんだろうな……)


 やるせない気持ちを抑え込んで、部屋の前に積まれた空の段ボールを手にする。空の段ボールの中に遺品を入れてくれと言われたのだ。


(とりあえず、目に入れないようにしてくれたらいいって言っていたな。大型の家具は一人じゃ無理だから置いといて、備品とかそんな小さい物を入れていこうか)


 リュックを置いて部屋を見渡す。

 抱っこできるサイズのぬいぐるみが床に散乱している。

 まずはこの散乱したぬいぐるみからだ。


 ぬいぐるみたちを段ボールの中に詰め込み、隙間がまだあるのでちゃんと飾っているぬいぐるみはないか、と家具の上を探す。


 そのとき、机の上に一体のぬいぐるみがあることに気付いた。それは、ロリーがキャロラインにあげた白うさぎだった。


 なんともいえない感情が湧き上がる。白うさぎから視線を逸らすことができず、白うさぎを手に取って眺める。


 大事にしてくれたのか、六年半前にあげたとは思えないほど綺麗だ。少しクタッとしているものの、これといった汚れはなかった。


「あんなにあむあむしていたのにな」


 クリスは汚れを気にする性格だったから、もしかしたらクリスがまめに洗ってくれていたのかもしれない。


 いつも使う机の上に置いていたくらい、キャロラインはこの白うさぎを気に入ってくれていたのだろうか。


 そう思うと嬉しさのあとに悲しみが押し寄せてきた。こうなるのなら、もっと会っておけばよかったと初めて後悔した。


 白うさぎを抱いて段ボールに入れようとしたが、机の上に置かれていたスケッチブックが目に入った。


 一旦白うさぎを置いて、スケッチブックを手に取ってパラパラと捲る。


 キノコの絵、うさぎの絵、ジャムタルトの絵、ネズミとドードー鳥の絵、フラミンゴの絵、奇妙な姿をしている猫の絵、青いイモ虫の絵……色々な絵が独創的に描かれている。


「子供の絵とはいえ……なんか頭がおかしくなりそうだな」


 思わず苦笑交じりな声が出た。形が歪で色彩のチョイスも独特だ。キノコは毒キノコのような色をしているし、イモ虫は緑ではなく青色だ。


「いったいどこでドードー鳥なんか知ったんだか」


 スケッチブックを閉じた、そのとき。



 ――きゃはははは



 子供の笑い声が聞こえた。無邪気で楽しそうな声だった。


 ロリーは首を傾げる。


 ここは郊外で近くに家はない。子供どころか大人ですら近所に住んでいない。

 わざわざ遠くのほうから歩いて遊びに来たのだろうか。


(だがこの辺りはクリスの土地らしいし、敷地内で)


 怪訝に思ったそのとき、ぐりゃりと視界が歪んだ。


 景色が渦を巻き、音も立たず、世界が、歪んでいく。そんな感覚に陥った。


 気持ち悪い。頭もぐちゃぐちゃになりそうだ。叫びたい、狂いそうだ。


 必死に頭の中で素数を数え、正気を保つ。そうしているうちにだんだんと歪みが正されていき、元通りになった。


 疲れて目眩を起こしたのか、と深呼吸をしようとして止める。


 何故だ。違和感がある。


(なんだ……?)


 言い難い恐怖に駆られながら、おもむろに辺りを見渡す。


 真っ先に気が付いたのは、部屋が暗くなっていることだった。まだ昼前のはずなのに、と窓を見ると外も塗り潰したかのように真っ暗だった。おそるおそる窓を覗き込むが、景色が全く見えない。


 部屋の中はぼんやりと明かりが灯されているようだが、光源がない。部屋全体がぼんやりと光っているように見える。


 目眩だけでこれだけ世界が変わるだろうか。いや、ない。


「多分あれだ、うん。目眩ついでに倒れて。これは夢だ」


 うんうん、と自分に言い聞かせる。その証明にと、自分の頬を思いっきり引っ張ってみた。


「いたたたたた」


 頬に痛みが走る。慌てて離してヒリヒリする頬を撫でた。


「え、夢じゃない……?」


 しばらく愕然としていたが、動悸の音で我に返って深呼吸を数回繰り返す。


(落ち着け落ち着け、一人でパニックになってもしょうがないだろう、まず心臓よ静まれ)


 頭が混乱しそうになるが、その度に馬鹿の一つ覚えのように、落ち着け落ち着け、と頭の中で繰り返す。


 その言葉で頭の中を一杯にしないと、すぐに別の意識に持って行かれて最終的には狂いそうな気がした。


 動悸も幾分か収まり、改めて周りを見渡す。が、この部屋で大きな変化はないようだ。


 リュックを背負って、扉のほうに視線を向ける。


(ここで籠城してもどうしようもない。とりあえず外の様子を見よう。と、その前に)


 リュックの中から電子メモを取り出して起動する。


(念のためにここで起きたことをメモをしておこう。後で見返したら新しい発見があるかもだしれない)


 今までのことを電子メモに書き終わり、電子メモを戻して、改めて扉の前に立った。


 おそるおそるドアノブを握る。なにも起きないのでゆっくりとドアノブを回す。


 扉を開けると、塗り潰されたみたいな黒い世界が広がっていた。黒すぎて何も見えない。


 くんくんと空間を嗅いでみたが、あのほんのりした黴臭さもなければ、埃で咳き込むこともない。ただ夜のような匂いと、耳が劈くような静けさがあるだけだ。


 試しにリュックの中にある懐中電灯を取り出して、闇の中を照らしてみるがなにも見えない。ただ黒を照らしているだけだった。


 これでは照らしても無意味だと早々に諦め、電池の心配もあるので、一旦懐中電灯を仕舞う。


 とりあえず、微かな光がある部屋が見えるように扉を開けておこう。

 そう思い、耳を澄ましながら部屋から一歩踏み出した。


 その瞬間、突然の浮遊感に襲われた。


 周りに気を取られ、足許を気にしていなかったから前のめりになってそのまま落下していく。


「うわぁ――――っ!!!」


 しかも、一階に落ちる時間になっても地面と衝突せず、落下し続けた。

 落下の衝撃に備えようと身を屈めても、その気配は一向に来ない。


(どこまで落ちるんだよ!!)


 あまりにも長いこと落下し続けたためか、恐怖よりも苛立ちが込み上がってきた。


 もういっそのこと地面と衝突してくれ、と願ったところで周りの景色が変わった。


 少し幅が広い井戸の中を彷彿させるような、丸くて狭い場所だった。壁には分厚い本がギッシリと詰められており、本棚になっていることが想像出来た。


 本棚に掴もうとするがビッシリすぎて本の前のスペースがなくて掴む場所がない。

 下を見るが掴めそうな場所はなく、地面も見えない。


(あ、これ死ぬ)


 諦めの良さに定評があるロリーはそのことを悟り、一瞬で己の死を受け入れた。


 下を見て地面とキスするくらいなら上を見たほうがいい、と方向転換して上を見る。


 本のタイトルは気になるが、このスピードではタイトルは見えない。


(ここで死んだらどうなるんだろうな。もし普通にあの家で死ぬことになるんなら、クリスに申し訳ない……娘に続いて友人も同じ家で亡くなるなんて、なんて不幸な男なんだ)


 そう考えると抗いたくなるが、絶望的な状況なのでどうしようもできない。


 走馬灯を頭の中で巡らせていると、背中に衝撃が走った。


 衝撃はあったものの、気を失うほどの衝撃ではなかった。


 唖然としていたが、背中がなにやらフサフサしていることに気が付いて慌てて上半身を起こして、下敷きになっているものを見た。


 そこには藁が敷き詰められていた。厚みは相当あって、これがクッションとなって助かったのだと察した。


 ハッとリュックを取り出して中身を見る。


「よかった…………壊れていない」


 仕事道具も入っていたので良かった。


 ふぅっと溜め息をついて、ふらつきながら立ち上がる。ずっと落ちていたからか、感覚が覚束ない。


 そのとき、ボトッと何かが落ちた。音がしたほうに視線を向けると、キャロラインの白うさぎが落ちていた。


「なんでこんなところにあるんだ?」


 白うさぎを拾い上げ、マジマジと観察する。特に変化が見受けられないそれに、ロリーは記憶を手繰り寄せる。


(まさかオレと一緒に落ちてしまったのか? でもたしかに机の上に置いたはずだ。なんにせよ、ここに置いていくわけにもいかないか)


 白うさぎをリュックの中に入れて、天井を見上げる。真上は当然ながら高すぎて見ることができない。


 周りを見渡すと、アーチ型の出入り口があった。扉はなく、向こうの姿がはっきりと見える。


 長い廊下だ。窓がなく、壁は白く、床は大理石。照明は壁に付けられた燭台の蝋燭のみ。それなのに妙に明るかった。けれど奥の方は暗くて先が見えない。


(なんか古くさい廊下だな)


 動いている何かの気配がないことを確認し、廊下に出る。


(どこに続いているか分からんが、上に戻れないから進むしかないな。上に戻る方法も見つけないと)


 一本道の廊下を進んでいく。


 カツンカツン、と自分の足音が響くだけで他は何も聞こえなかった。


 どれくらい歩いただろう。先の見えない廊下にうんざりしていたとき、ようやく二股の廊下が見えてきた。


 どちらが正解の道だろう、と悩んでいると右の廊下からタッタッタッと走ってくる足音が聞こえてきた。


 小さな足音だったが、何が来るか分からない。隠れる場所はないかと慌てて辺りを見る。


 ジリッと後退する構えを取って、その足音の主を確認しようと目を凝らす。


 やがて、足許の主が視界に現れた。


 それは少女だった。水色のワンピースに白のエプロンを着けた、金髪の少女。


 その少女の横顔に見覚えがあった。クリスがたまに送られてきた写真。その中に全く同じ横顔の少女がいた。


 あれは、あの少女は。


「キャロライン!?」


 ロリーが思わず叫ぶが、少女はこちらを振り向かず、左の廊下へ消えていく。


 慌てて少女を追いかけるべく、左の廊下へ駆けるが少女は先の見えない黒い廊下へ消えようとしていた。


「なんでキャロラインが…………」


 キャロラインの死に顔を見てはいないが、墓参りには行った。その墓にはちゃんとキャロラインの名前があったはず。


(他人の空似……? 会ったの赤ん坊の頃が最後だし、写真もそこまで見返してもないし)


 だんだんと自信がなくなってきたそのときだった。


 ドスンドスンと、大きな音が右の廊下から聞こえてきた。ついでにいうと、ぬちゃぬちゃという音と鼻息も聞こえてくる。


 大きな何かがいる。嫌な予感がせせりあがってきて、心臓がヒヤッとしたと同時に背中に汗が流れ落ちた。


 おそるおそる振り返ると、奥にその何かがいた。


 まず認識したのは、蝙蝠のような大きな羽だ。次に三本指の足に鉤爪。体格も見えて、灰色の鱗がテラテラと光っているのが見えた。そして魚のような顔が見えた。出っ歯で髭のようなものが垂れ下がっていて、頭には二本の触覚が生えている。


 化け物だ。化け物がこちらに向かっている。


 認識した後のロリーは考える前に全力で走り出した。少女が走って行った左側の廊下へ。


 化け物は少し速度を上げて、追いかけてくる。息づかいが荒く、言葉のような言葉ではない呻き声をあげていた。


 同年代と比べて短い足を懸命にばたつかせ、前へ前へ進む。いつもより全力で走っているというのに、何故かいつもよりも遅いような気がした。


 化け物の足音と鼻息が徐々に迫ってきているような気がする。


 化け物は走っていない。それでも歩幅がロリーと圧倒的に違う。


 正確な距離を見るために振り返りたい。だが、耐えた。


 後ろを向けば身体のバランスが崩れ、転びやすくなるしスピードも遅くなる。それなら前を向いて退路を確認したほうがいい。


 心臓が痛い。バクバクと激しく波打っている。背中に感じる威圧感で背中が冷たく、汗が噴き出している。



 走れ。

 走れ。

 走れ。

 走れ!!



 暗闇しかない廊下の奥から、ぼんやりと光る扉が見えてきた。


 廊下に隠れそうな場所はない。ならばあの扉に賭けるしかない。最後の力を振り絞り、速度を上げて扉へ向かう。


 ドアノブを回してドアを閉める。あの化け物が扉を通れるわけがないが、壁を破壊する可能性もある。


 ロリーは部屋を見渡した。


 そこは部屋というより広間だった。ぐるりと扉があって、真ん中にはガラス製で三本脚の小さなテーブルがあった。


 どれか扉を開けて、隠れないと。


 そのとき、ドンッと扉に何かが当たった。音と振動からしてほぼ間違いなくあの化け物だ。


「くっ! 追いつかれたか!!」


 急がないとここを突破されるかもしれない。


 そう思ってとりあえず近くの扉に行こうとしたが、やけに静かになったことに気が付いた。扉は危険そうなので、壁に耳を当てる。


 呻き声と鼻息は聞こえるが、扉と壁を攻撃している音はしなかった。


 しばらくそうしていると、足音が聞こえた。だんだんと遠ざかっていく。


 完全に足音が聞こえなくなり、ロリーはその場に座り込んだ。緊張が風船のように抜けていく。肺に溜まった重い空気を吐き出すため、盛大な溜め息をついた。


(なんだったんだ、あれは…………その気になれば、こんな壁壊せそうだったのに……壁を壊すという発想がなかったのか? 脳みそがあるのかないのか分からん奴だな)


 汗を拭って、ノロノロと立ち上がる。何がともあれ化け物は去った。この広間を調べよう。


 ロリーは一つ一つの扉を調べた。扉は数えて八枚あった。扉に耳を当ててみたりドアノブを回したりしたが、どれも開いていなかった。


(あの化け物が壁を壊さなくて、ほっっっっっんとによかった)


 次にテーブルを調べる。クッキーと小瓶があったが、怪しいので無視する。


 その他には何もなかったが、もしかして、とテーブルの裏側を覗いてみると銀色の鍵が貼ってあった。よく見かける鍵ではなく、昔のシンプルな鍵だ。


 八つの扉、どれかの鍵かもしれない。鍵を剥がしたが、そこでハッと思い出した。


(電子メモにさっきのことを書こう)


 記憶が新しいうちに書かなければ。電子メモを取り出して先程の出来事と、これからしようとしていることを書き込んで、リュックの中に仕舞う。


 改めて鍵を握りしめ、左から鍵を差し込む。鍵が合わなかったから、また次の扉の鍵に差し込む。


 五つ目のところでようやく鍵が合っている扉を見つけた。


 おそるおそるドアノブを回して、扉の中を覗き込む。


 そこには森が広がっていた。整備されているのだろうか。鬱蒼と茂っていなくて、一定の距離で木が聳え立っている。木々の間から漏れている太陽の光が明るくて、心が洗われていくようだった。


(こういう状況でなきゃ、ゆっくり散歩するんだけどな)


 おそるおそる扉から出て振り返ってみる。扉は消えない。数歩歩いて確認しても、扉が消えないことを確認して息を吐き捨てる。


 ゲームなどで部屋から出たら扉が消えてしまう、というパターンがあるがその心配はとりあえずないとみた。


 ただ、壁がないところに扉が浮いているのは、不思議な感じだ。


(あれだ、ジャパニーズアニメの秘密道具みたいな感じになっている)


 そう思うと少しだけ感動する。


「やぁ、いらっしゃい」


 頭上から渋めの声が聞こえた。仰ぐとそこには一匹の猫がいた。


 細い猫だった。シャム猫のようだが、猫よりも爪が長い気がする。ロリーは猫と戯れたことはあまりないので、そこは自信なかった。顔がなんとも嫌みったらしい顔をしていて、愛くるしい顔とは程遠い。


 猫はロリーを見下ろしてニタッと笑っている。


 その視線を見返しながら、ロリーは胡乱げな目を向ける。


「喋ったのはお前か?」

「そう」

「猫なのに?」

「猫だからさ」


 いや猫は普通喋らない。そう言い返したかったが、呑み込んだ。先程化け物に追いかけられたから、猫が喋ることくらいどうってことない。襲ってこないだけ友好的な存在だ。


「お前は一体なんだ?」

「見ての通り猫さ。それ以外何者でもない」

「それじゃあ、この世界について詳しいか?」

「君よりかは詳しいだろうよ」

「じゃあ、ここは一体なんだ?」


「ここはどこにもあってどこにもない世界さ。もっとも彼女にとってはそうではない」

「彼女? それは誰のことだ?」

「彼女は彼女さ。哀しい哀しい、彼女のことさ」


 ロリーは首を傾げるも、彼女について今は関係ないことだと思い、次の質問にいった。


「この世界から出る方法を知っているか?」

「知っているともいえるし、知らないともいう」

「どっちだよ」


「君が帰れる可能性はあるだろうさ。君はこの世界にとって異物だからね。世界がそうするだろうよ。ただ、ここでジッとしているだけじゃ世界は動いてくれないさ」

「よく分からんが…………つまり、世界が動いたらオレは元の世界に帰れるのか?」


「多分おそらく。だがしかし、異物は君だけじゃない。異物を揃えないといけないかもしれない」


 異物異物と呼ばれるのは些か不愉快だが、この世界にとっての異物だとしたら願ったり叶ったりだ。


 そこまで考えて、あの化け物が現れる前のことを思い出した。


 キャロラインによく似た少女。異物の条件がこの世界の住人ではないとしたら、あのキャロライン似の少女も含まれるのではなかろうか。


(キャロラインじゃないにしろ、キャロライン似の女の子を放置するのは気が引けるな)


 子供は特別好きでもない。キャロラインではない子だったら、そこまで気にしていなかっただろう。


 だが、あの少女はあまりにもキャロラインに似すぎている。放ってはおけない。


「なあ、猫。女の子を見ていなかったか?」

「知っているといえば知っているし、知らないといえば知らない」

「だからどっちだよ」

「何事にも順番っていうのがあるさ。なにせ女の子はたくさんいる」


 そこでロリーはハッとなって、リュックの中からスマホを取り出して写真を表示した。クリスから送られてきたキャロラインの写真だ。


 その写真を猫に見せる。


「この女の子によく似た子をさっき見かけたんだ。知らないか?」

「ああ、その子か。知っていると言えば知っている」

「どこにいるか分かるか?」

「君はそこに辿り着きたいのかい?」

「とりあえずは」


「なら導をあげよう。それが役割だからね」


 そう言って猫は長い尻尾を揺らした。その尻尾には鍵が絡まっており、その鍵をロリーに向けて投げてきた。


 慌ててその鍵をキャッチして、しげしげとその鍵を眺める。先ほど手に入れた鍵の水色バージョンだ。


「いいかい? 何事も順番っていうものがある。順番は大事さ。毛繕いには負けるけどね。この世界に順番は関係ないけど、君にとっては爪とぎよりも大事さ。せいぜい間違えないようにね」


 そう言って、猫はすぅっと消えていった。


 幻のように消えてしまった猫を呆然と見送り、水色の鍵を見やる。これは幻ではないという証明のような気がした。


(順番……まあ確かに順番は大事だな)


 あの猫が語っていた台詞の中で一番共感できるものだ。


(二回も言っていたし、よほど大事なことか? 気まぐれな猫が言うからにはそうだろうけど)


 何がともあれ、鍵が手に入った。この鍵はおそらく、あの広間に使うものだろう。


(キャロライン似のあの子に追いつかないと)


 目的が決まり決意を新たにしたロリーは踵を返し、扉のほうに向かった。

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