愛より始めよ

湯屋街 茶漬

1章 6/13

第1話 事の起こりなどというもの

 教室は朝から騒然としていた。


 騒然としていたというか、色めき立っていたというか、とにかく何だか騒がしかった。


 そういうものに疎いなりに何だ何だと聞き耳を立ててみると、どうもクラスのアイドルが夜の繁華街を女と歩いていたとかなんとか。

 こちらには関係の無い話だ。

 陽の者が陽の場所に居たら何だと言うのか。


 しかしそんな陰の者の心とはまさに真逆といった様子で、クラスの、特に女子達が活き活きと噂話を展開していた。


「塩町の方に歩いていったんだって」

「ホストみたいな格好してたらしいよ」

「えー! じゃあこっそりバイトしてたって事?」

「「「うそー!! やばくない??」」」

「お父さんが病気になっちゃって生活費稼がないとって事らしいよ」

「えー! 私はお母さんが株ですごい借金作っちゃったって聞いたよ」

「どっちにしてもやばいよねー」

「「「やばいやばい」」」

「でも王子、健気だわー」

「王子てアンタ」

「王子はないわー」

「何よ、推しなんだから良いでしょ!」

「王子って感じじゃなくない? あれはどっちかと言えば騎士とか武士とかそっちでしょ」

「あのサッパリ爽やかな感じはそうだよねー」

「いやいやいやわかってない。 アンタらわかってないって」

「「「いやいや」」」


 すごい勢いで話がそれていく。

 井戸端会議然としていて風情があるが、情報源としてはあまり参考にはならないようだった。

 こんな情報交換がクラスのあっちやこっちやで行われている。明日には、悲劇の王子だか騎士だかが夜の街に堕ちていく怪談が完成している事だろう。


「あ、やべ」


 空を眺めながら耳だけを教室に向けて過ごしていたので気づかなかった。

 1限は鬼の松井による数学Bじゃないか。

 毎回授業始めに小テストを敢行し、出来が悪いと30分を越える説教が始まり、最終的には職員室に帰った松井を学級委員が呼びに行くところまでが恒例の流れである。今日日稀に見るタイプの教員であることは言うまでもなく、クラスの全員にぼんやりと嫌がられていた。


 一限開始まであと10分。

 前回の単元の公式を頭に刷り込まなければ。


 我々にはベクトルがわからぬ。我々は、普通科クラスの牧人である。笛を吹き、羊と遊んで暮らしてきた。

 けれども成績に対しては、人一倍に敏感であった。


 邪知暴虐の松井を除かねばならぬ。


(ふふふ)


 と笑いが零れそうになった。

 危ない危ない。社会的に死んでしまう。

 一人の世界に入るなと散々言われているのに。


 一人の世界に浸って一人で笑っているすぐ隣では未だ王子がどうだのという話でぺちゃくちゃかわいい囀りが聞こえてくるし、少し前の方の席ではまた似たような群れが似たような鳴き声を交わしていた。


 曰く、彼はキャバクラのボーイをやっていただとか

 曰く、彼はお店の女の子に手を出してしまったらしいとか

 曰く、オーナーの怖い人達にボコボコにされたんじゃないかだとか


 まるで一人の世界なんて存在すらしないかのように、それぞれの群れでそれぞれお揃いのキーホルダーやらネイルやらメイクやら施して、それぞれに独自の流行語を持って独自の言語コミュニケーションを行っている様はあまりにも圧巻だ。

 ガラパゴス諸島を発見した人は、こんな気持ちだったに違いない。


 でもわざわざ他国を侵略しなくても、きっとこんな風に狭い空間に40人ばかり人間を詰め込んでおけばもっと早くに生物の素晴らしさに気付いただろうに。

 勿体ない勿体ない。

 酸素が勿体ない。


 くだらない楽しい話をBGMにヘッドホン着用禁止の校則を呪いながら、一通りの予習を終える。


 よし、これでひとまず一人分、松井がブチ切れるリスクを軽減できた。

 密かな社会貢献に心の中で鼻高々である。


 がろろ


 教室の後ろのドアが左に滑った音がした。

 静まり返る教室。

 嵐の前の静けさなのか、台風一過なのか。


 一瞬黙ったエコーチャンバー構成員共の視線の先には、エコーの主な発生源が立っていた。


 文武両道人望激アツなんていうプロフィールを地で行くある種の変人であり、この教室のアイドル。

 大槌おおつち 晴人はるひと


 静まり返った教室に当然戸惑ったのだろう。

 一緒に入ってきたモブなにがしと目を合わせたり笑ったり、それらしい当たり障りの無い反応でお茶を濁しつつ一瞬で教室の空気に溶け込んだ。


(流石アイドルだわ)


 もちろん思っても口になど出さない。

 そんな事をしたが最後、この空間を占める脊椎動物の実に95%が敵になる。


 人間とは群れを成して外敵を蹂躙する特定外来生物の俗称である。

 目をつけられたが最後、人権などという西洋の神サマが保障している概念などそこらの羽虫と意義を混同され、想像するのも辛いような仕打ちを受けるのだ。


 ああ怖い怖い。なむなむ。


 そんなこんなでもうそろそろ一限が始まる。

 松井は、『それ何に使うの?』と言いたくなる木の棒、というか杖のような物を授業に持ち込んで教室の人間達を威圧する習性がある事が知られている。

 そして教室に移動する時、その棒を床に突きながら歩いてくるのだ。


 かん

 かん

 がん

 がん

 がん

 ごん

 ごん

 ごん

 ごん


 と段々と低音域まで聞こえるようになりながら杖の音が近づいてくる。

 それは地獄の門番が計策持って歩いて来るようにも感じるし、死神が棍棒担いでやって来るようにも感じる。


 勉強を怠っている愚か者には、死へのカウントダウンに聞こえるかもしれない。


 ポケットの中のスマホが震えた。

 こんな時に何だ。と画面を見ると、見知った馬鹿からメッセージが届いていた。


『今日なんかあったの?』


 間が抜けているにも程がある。

 お前が主人公なんだよと教えないといけないのか。



『大槌とかいうクラスのアイドル兼王子サマ兼騎士兼武士のお父さんが病気で倒れてお母さんが借金作ったらしくて、家族を養うために仕方なく塩町で夜のバイトをしていたところ店のキャバ嬢についつい手を出して身篭らせてしまって経営者の怖い人達に謝りに行ったらしい』

『すごい、何一つ正しい情報がない』

『なんだ、教室中の噂を総合してやったのに』

『まとめブログみたいなことすんな』

『調査の結果、意味がよくわかりませんでした。 いかがでしたか?』

『🤔』

『🤗』

『で、何でそんな話題で盛り上がってたかは知ってる?』

『お前が夜の塩町で女の人と歩いてたのを見た人がいるらしい』


 と、返事が止まった。


 ごすん

 ごすん

 ごすん


 と、杖の音はいよいよ何らかの怪物を想起させそうな重量感のあるサウンドに変わっていく。

 これは松井が、教室二つ分の距離まで接近した事を示す。


 おいもうスマホしまいたいんだけど。

 見つかったらその時点で面倒くさい説教始まるコースなんだけど。


 と元凶に視線で圧を送るが、奴はこちらに背中しか向けていなかった。

 右手は不自然に机の下に、恐らくスマホを持っている。

 そして左手は彼の顎にあり、考える人のポーズであった。


 杖の悪魔が教室に近づく。

 騒がしかった教室の空気が張り詰め、誰も話さなくなって、教科書を捲る音だけが静かに響く。


 ああもう、続きは後で読むからな。

 と思ってスマホをポケットに仕舞おうとした。


 そのスマホがまた震える。


 通知のポップアップが勝手に画面を光らせ、否が応でも目に情報を押し込んでくる。



 がろろろごすん



 教室の前の方のドアが右側に滑った音がした。


「小テストやるぞー」


 何の挨拶も無しに配られ始める小テストの紙を前から後ろに回しながら、目に押し込まれまれた情報が頭の中で反芻されていた。






『それは正しい情報だな』






 短期記憶なんてものは見事に消し飛び、小テストの結果は言うまでもないものになった。

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