「私達の関係って」

鷺島 馨

「私達の関係って」

「私達の関係ってなに?」

 ベッドの上で身体を重ね合っている状況で訪ねてくる内容がコレか。


 曖昧な関係をもう3年も続けている。

 出会ったのは会社の忘年会。

 二人ともお酒がまわっていい感じに会話が弾んだ。

 二次会もほぼ二人で会話をしていて気がつけば終電の時間が過ぎていた。


 あの時の会話は今も覚えている。

『終電逃しちゃったね』

『あ〜、うちまで歩くかなあ』

『えっ、家近いの?』

『ああ、二駅だよ』

『じゃあ、泊めて』

『いいよ』


 なにを考えて泊めてくれと言ったのかは聞いてないからわからない。

 一人暮らしの男のところに泊まりに来るって事は良いんだよな。と邪な考えを抱いた。


『じゃあコンビニ寄ろう。缶酎ハイ買おう』

『ああ』

 すぐ先に煌々と輝くコンビニのロゴが見えていた。


 彼女は買い物カゴに10本も酎ハイを入れた。

『俺、つまみ見てくるわ』

『私、肉が食べたい』

『オッケー、適当に見てくるわ』

『よろしく』


 レジで彼女と合流して会計を済ませる。

 酎ハイ10本と冬季限定のビールが1本、それに極薄という表記の箱。それに俺が持ってきたつまみの袋が5つ。


 この状況で彼女に支払いをさせるのは格好がつかないと俺は彼女より先に財布を取り出して、バックに手をかけた彼女を制する。

『俺が出すよ』

『いいの?』

『いいよ』

『ありがと』


 コンビニを出た俺と彼女はどちらからとなく手を繋いで歩く。

 深夜の住宅街という事もあって会話はない。

 俺の勘違いじゃなければ彼女もその気なんだろう。いやでも意識する。


 二駅分の距離は手を繋いでゆっくり歩いても20分もかからず俺の住むアパートに着いた。

『散らかってるけど。どうぞ』

『お邪魔しま〜す』


『適当に座って』

『は〜い』

 つまみを温めるためにキッチンに行く。

『グラスいる?』

『そのままでいいんじゃない』


 なにも気を使わない、偶々隣になって会話が弾んだ。意気投合した。それだけの間柄。彼女にしたいと思っていた訳じゃないから気負うこともなかった。

 そしてソファーに二人並んで座り、缶酎ハイを飲み、つまみに手を伸ばした。


 僅かに触れ合う肩に彼女がもたれてきて、お互いの身体に触れ合った。初めは恐る恐る、次第にしっかりと触れ合う。


 最初はソファーで、次に風呂場で、その後はベッドで。

 忘年会の翌日は会社が休みだったから夜通し身体を重ね合った。

 それが俺と彼女の始まり。


 週末になるとうちに彼女がやって来てお互いを求め合う。

 お互いの趣味は知ってるのに出身も誕生日も血液型も知らない。

 酷く歪な関係。


 その彼女が明確な形を求めて訪ねてきた。

「私達の関係ってなに?」と。

「俺たちの関係か……、お前はどうありたい?」

 この時の俺は答える事ができずに質問で返した。


 彼女との関係を振り返る。

 最近では彼女と過ごすのは月に二日か三日。お互い最初ほどの熱量を持って一緒に過ごしているわけじゃない。そもそも、彼女にとって俺はなんなのか。


 今年に入って彼女の態度に変化があった事は認める。


 時々、彼女は身体を重ねている最中にゴムを外す様になった。

 確かにつけていない方が気持ちいいのは認める。俺個人としてはつけてない方が当然いい。それでも無責任な事はできない。という意味の分からない意地から避妊をして行為に及んでいた。

 それでも避妊なしの行為を求められると拒めなかった。ただただ、頑なに彼女の中では果てない様にしてきた。


 ある時、眠っている間に込み上げてくるものを感じて目を開けると、俺の上でよがり腰を振る彼女の姿があった。滅茶苦茶妖艶でそれまで堰き止められていたものが彼女の中に解き放たれた。

 身体を痙攣させて俺にしがみつき最後の一雫まで逃さないと締め付けてくるその感触に俺は更に怒張した。

 下腹部に加えられるその圧迫に喜びを感じた彼女はそのまま行為を続けて更なる快楽を求めている様だった。

 俺はその姿に目を奪われた。普段の理知的な表情と違い、淫美な笑みを浮かべる彼女は堪らなく美しかった。


『どうして避妊しなかったんだ?』

 俺がそのことを訪ねても彼女は明確な答えを返す事はなく、ただ俺の唇を貪ってくるだけだった。舌が絡み合い唾液を交換していくうちに欲望に抗えずにもう一度身体を重ねていた。


 俺と彼女の関係なんて身体を重ね合うだけで明確な答えを出せてはいない。

 彼女はその関係に答えを求めて避妊をせずに行為に及んだのか?

 それなら彼女は俺と……

 俺がある答えに行き着いたその時、彼女は言葉を発する。


「私ね、来月結婚する事になったの」

「っ!?」

 結婚、彼女が?


「貴方とは相性も良かったからずっと一緒にいたいとは思ってた」

 お互い行為を終えた後だというのに真剣な表情を浮かべる彼女の顔に艶っぽさは微塵もない。

「貴方と過ごしている間はすごく嬉しかった。もし貴方と家庭を築ければどんな風になるのかを考える事は楽しかった」

 彼女の頬を涙が伝う。俺はかけるべき言葉が浮かばずただ話を聞いていることしかできない。


「貴方から明確な答えが欲しかった。私を手放したくないと思って欲しかった」

 俺も君を手放したくはない。そう思っていても声が出なかった。

「だから避妊をせずに身体を重ねた。これで子を成すのならそれで良かった」

「それなら、今からでも俺との関係を築き直そう」


 彼女は首を振る。

「ううん、もう無理なの……」

「どうして……」

「今日、会社も辞めてきたの」

 急に変わった話に頭が追いつかない。はぁ?会社を辞めた。結婚するために?それならどうしてここにいるんだよ……

「うちの親、小さな工場をやってたんだ」

 なんでもない事のように告げられる言葉。

 初めて彼女のプライベートな部分に触れた。

「それでうちのような下請けの工場は原材料の値段を下請料に転嫁できなくてね」


 昨今の円安によって商品の価格は高騰し続けている。それでも可能な限り価格を抑えようとすればどこかに皺寄せがいくのはわかる。実際、うちの会社も大小の差はあれど下請けさんに無理をお願いしている。そして彼女の実家もそうだという事だろう。それでも、なぜ彼女が会社を辞める?結婚のためか?理解が追いつかない。

「両親も銀行に融資を求めたそうなんだけど」

 その口ぶりから融資を断られたことがわかる。俺が頷くと彼女も俺が察したことを理解する。


「それで親戚のところに助けを求めたの」

 ああ、この口ぶりから察するに、物語でよくある親戚に金策を求めたら娘を差し出せというやつか。俺の表情を見て彼女が苦笑を浮かべる。

「そうよ、資金繰りの代わりに私を差し出せって言われたようなもの。相手は親と大して変わらないくらいの年齢の顔も覚えてないような親戚……」


 この令和の世の中にあってこんな事があるのか。

 そりゃあ、ニュースを見れば資金繰りができずに辞めていく店や会社はいくらでも出てくる。だからと言ってこんな事があって良いのか?


「資金繰りの為に結婚するなんてそんな事許されないだろ」

「明確にそうとは言われてないの」

 つまり、融資を求めていったところに娘と結婚したいという話が出たということか。相手からすれば融資は関係なく結婚を申し込んだだけで、それ自体に違法性は無い。

「一体、いくらの融資を……」

「さあ、蓄えがもうなくなっている事だけは聞いたわ」

 彼女はもう諦めてしまっている。自分が諦める事で家族や従業員を守ろうとしている。それが分からない訳じゃない。


「だから……、せめて今だけは……」

 俺の胸に縋りつき涙を流す彼女。俺にはその肩を抱く事しかできなかった。


 次の日、目を覚ますと彼女の姿はなかった。

 電話もメッセージも連絡はつかない。


 彼女と個人的に仲良くしていた同僚を俺は知らない。

 会社の方でも個人情報保護を理由に住所を聞く事もできない。

「彼女の実家の事ちゃんと聞いとけば良かったな……」

 それっきり彼女とは連絡が取れなくなった。



 あれから5年が過ぎ、俺も30を過ぎた。今も変わらずあの会社に勤めている。

 何人かと付き合いはしたものの彼女以上に相性のいい相手は現れなかった。

 それなのに母親からは『孫の顔が見たい』と催促がくる。


「彼女に未練がある訳じゃないと思うんだけどなあ」

 彼女の事は忘れてはいないけど、引きずっている訳でもない。

 俺には何もできないという事も理解して気持ちの整理もつけた。

 顔も知らないオヤジに彼女を奪われたという事に苛立ちを覚えたのも半年ほどの間。もう気持ちに折り合いはつけている。


「はあ、気分を切り替えて仕事するかぁ」

 今の俺は転勤先で新しく下請け先となる会社を求めて挨拶にまわっている。

 地道に顔を繋いでいく。いきなり突っ込んだ話はしない。

 顔も知らない、付き合いのない会社から来た人間が仕事の話を持ちかけても警戒するだけだろ。だからまずは雑談を交わせるようになるところからだ。


「失礼します。鷺鵜商事です……」

 俺は言葉を失った。目の前には少し疲れた表情を浮かべている彼女がいたからだ。


「あ……、連絡を頂いていた鷺鵜商事様ですね」

 彼女も俺に気がついた。けど、周りに不審に思われないように会話を続けた。


 俺はそこの担当者とどんな話をしたのか覚えてない程に動揺していた。

 挨拶を終えてその場を後にしようとした。その時に彼女の左手が目に入った。薬指には指輪があった。そうだよな結婚してるんだし。


 不意の再会に俺の心は荒れ狂っていた。

 未練など無いと思っていた。それなのに、いざ彼女を目の前にするとそんな虚栄がなんの役にも立たない程心を乱した。


 会社には挨拶回りの後、直帰すると連絡を入れて大きな池のある公園のベンチで黄昏れる。

「参ったなあ、彼女を見ただけでこんなに心がざわつくなんて……」

 あれから5年、彼女はすでに他人の元に嫁いでいる。

「今更、再開してもどうする事もできないのに」


 もしも、彼女も俺の事を忘れられずにいてくれたら。

 そう考える事こそが有り得ない、女々しい想像だな。

「これからも顔を合わすのか……、つらいなあ……」

 項垂れて呟く言葉は誰の耳にも届かない。それでいい、こんな独白は聞かせられるものじゃない。


 ブー、ブーっとスマホが振動する。

 こっちは個人所有のもの、転勤後は母親くらいしか掛けてくる事がなかったからなんかあったかと不安を感じつつも画面を見る。

 登録にない番号からの着信。訝しく思いながら受話をタップ。


 黙っているとスピーカーから忘れる事のできない彼女の声。

『もしもし』

「っ、もしもし、番号変わった?」

『うん。それにしても驚いちゃった。こっちに転勤になったの?』

「そうだよ、先週来たばかりなんだ」

 何気ない会話。あの頃はそんな会話をする事がなくても、ただ隣で彼女を感じていられるだけで良かった。この5年間を埋めるように他愛のない話をする。それでも沈黙は訪れる。彼女は今どんな気持ちで連絡してきたんだろう。


『ねえ』

「ん?」

『今、どこにいるの?』

「大きな池のある公園。ベンチで黄昏てる」

『会いたいって……、言ってもいい?』

「っ、俺、会ったら自分を抑えられないかもしれない」

『あの時みたいに?』

 あの時、忘年会の日。終電時間を過ぎて同意の上で彼女をお持ち帰りした日。

 俺と彼女はあの日から始まった。関係に名前をつける前に俺の元を去っていった彼女、未練なんて無いと思っていたのにこんなにも彼女に会いたい。触れたい。抱きしめたい。ああ、俺はおかしくなっている。おかしいからこそ本心を告げる。倫理なんてクソ喰らえだ!


「ああ、今、会ったらもう離せなくなる。それでもいいなら会おう」

 こう言えば普通は引くだろう。そういう言葉を彼女に伝える。

『いいよ。そこで待っていて』

 彼女はそう言って通話を終える。

 俺は事態についていけずに池を眺める。夕陽が水面に反射して池を朱に染める。風が吹き渡るたびにさざなみだって表情を変える。

 ザッ、靴底で砂利が擦れる音が耳に届く、振り返ると夕陽に照らされて朱に染まる彼女がいた。その頬を伝う雫に夕陽が映えている。


「もう、会えないと思ってた」

「そうだな」

「会いたかった!」

「もう離したくない!」

 お互いの身体を抱きしめ合い、口づけを交わす。

 甘い口づけではない、互いを貪り合うような口づけを。

 どれくらいの時間そうしていたのか分からないが空は朱から藍へと色を変えていた。


「一緒にいたい……」

「帰さなくていいか?」

「うん……」

 俺たち二人ともまともじゃない。

 そんな事は理解した上で離れる事ができない。

 彼女と共に部屋へと向かう。あの日と同じように手を繋いで。


 部屋に入った俺たちは互いの獣性を解き放つように求めあった。

 離れていた5年間を埋めるようにして求め合った。

 気がつけば日付が変わっていた。


「腹減ったな……」

「何か作ろうか?」

「冷蔵庫の中。ビールしかない」

「コンビニ行く?」

「そうだな」


 コンビニに行く途中、彼女は俺にあの日と同じ質問をする。

「私達の関係ってなんだと思う?」

「不倫だな」

「そう、なるよね」


 彼女は左手を高くかざしてその薬指に嵌っていた指輪を外す。

「もし、あの人からさらって欲しいって言ったらどうする?」

「本気?」

「うん、本気」

「実家はもういいのか?」

「結婚した後、結局希望した額の融資を受けられなくて工場はなくなっちゃった……。父さんも母さんもその事を気に病んで死んじゃった……」


 涙を堪える彼女が足を止めた。手を繋いでいる俺も足を止める。

「それでも私は諦めて日々を過ごすしかないと思っていた。ううん、過ごしていた。そこに貴方が現れた。もうこれ以上自分の気持ちに蓋をしていられない。私を攫って行って……」

「いいんだな?」

「うん」

「分かった」

 真剣に彼女の顔を見つめて答えを返す。

 ぐ〜っと鳴る腹の虫が雰囲気を台無しにする。

「お腹減ったね」

「そうだな」

 俺と彼女はコンビニへの歩みを再開する。


 田舎の深夜のコンビニにまともな食べ物を求めても仕方がないという事を転勤を繰り返すうちに学んだ。都会であれば遅い時間でも食べるものを求めての来客を見込めるが田舎の場合はそうもいかない。

 ある時間を境にぱったりと客足が途絶える。

 今、俺たちがいるこの町もそういった町だ。

 だからあの日と同じようなつまみとカップ麺を持ってレジに向かう。

 レジ横の肉まんが一つ残っていたのでそれも買う。

 表に出て肉まんを分けあって家路に着く。


 部屋に帰って腹を膨らませた後、これからの事について考える。

 現状の確認のため聞いた彼女の話は酷いものだった。


 旦那は家に生活費を入れず、どうにか出させたお金でやりくりをしていたそうだ。自分の食費を稼ぐために先々月から昼間、彼女と出会ったあの会社で働き始めたという。

 愛人の元に通ってほぼ家に戻らず、たまに帰ってきた時も無理矢理行為に及んで自分が満足したら終わりでさっさと眠るそうだ。他に身寄りの無くなった彼女はその状況を我慢して受け入れていたという。

 そして俺と連絡が取れなくなっていた理由は俺への未練を断ち切るため。

 それが結婚してからはスマホを取り上げられてどことも連絡が取れなくなった。ようやく自分の稼ぎでスマホを契約したのが先月の事だそうだ。


「離婚はできないのか?」

「世間体があるから多分了承しないと思う」

「それなら、弁護士に相談するしかないか」

「うん」

「それに、この町にもいられないな」

「私が離婚するまで我慢すれば……」

「それは、俺が耐えられそうにない」

 彼女の現状を知った今、離婚するまでの間彼女に我慢を強いる事はできないし、したくない。


「俺も会社辞めるか」

「いいの?」

「まあ、蓄えはあるからどうにかなるさ。それに俺が辞めても変わりはいるよ」

 実際、結婚も視野に入れて貯蓄はしてきた。相手はいなかったけどな。

「私は貴方と一緒ならどこでもやっていけるわ」

 こうして俺達はその日のうちに辞表を書いた。


 明日、いやもう今日になってる。

 計画としては今日のうちに荷物を実家に送って二人でこの町を離れる。

 彼女の荷物を取りに行く事は大きなリスクとなる。日中、様子を伺って大丈夫なら必要な荷物だけを持ち出す事を妥協点とした。


「明日、いや今日に備えてもう寝ようか」

「うん、一緒に寝よ」

 5年ぶりに彼女の息遣いと温もりを感じて眠りについた。


 俺は出社してすぐに上司の元を訪ねた。

「すみません、一身上の都合で辞めさせてください」

 本来なら退職の最低でも一月前には辞表を出すのが筋だがそうも言ってられない状況だ。

「引き継ぎは、って言ってもお前も来たばっかりで引き継ぐ内容もないか」

 俺の書いた辞表に目を通した課長が俺に訊ねてきた。

「本当の理由はなんだ」

 ここで茶化す訳にもいかないか。

「惚れた女を助けるためです」

 ポカンとした表情を浮かべた課長はその後、大笑いして俺の背中を叩いた。バンバンと何度も。痛い。

「そうか、惚れた女のためか。なら、引き止めても無駄なんだろ?」

「はい」

「分かった。お前、有給は何日残ってる」

「二十日ですね」

「三日ぐらい無給でもいいか?」

「はい」

「なら、後はうまいこと話しておく」

「ありがとうございます」

 課長に深く頭を下げて礼を言う。

 この後、会社からの貸与物を返却して少ない私物を鞄に詰め込む。

 最後に課長の元に行く。

「短い間でしたがお世話になりました」

「ああ、元気でな」

 こうして俺は無職になった。


 昼前に彼女と落ち合う。

 彼女の方も無事に職を辞したそうだ。

 そうして彼女の家に向かう。

「旦那から連絡が無かったから昨日は帰ってないと思う」

「それは好都合だな」


 彼女の住む家はいかにも旧家といったものだった。

 その中で彼女に割り当てられた部屋はあまりにも殺風景で荷物も少なかった。

「服は着ていないものは置いていくわ」

 旅行鞄に詰められたものは身の回り品を除くとアルバムくらいのもの。

「両親の思い出の品はこれしかないの」

 本当に何もない部屋。俺と過ごしている時の方がもっと物があった気がする。

 程なく彼女の荷造りが終わる。


 旧家を後にしようとした時に一台の車が前に停まる。

「おい、そんな荷物を持ってどこへ行く」

「もう、ここには居たくない」

「そんな事が許されると思うのか」

 車から降りてきた男が彼女に手を伸ばす。

 俺は二人の間に身体を割り込ませてその手を遮る。

「なんだお前は、邪魔だ!どけっ!」

 両手を広げて彼女を男の視界から隠す。

「くっそ!お前には関係ないだろうが!」

「きゃあぁ!」

 男の拳が俺の左脇腹を殴りつけてきた。

 鈍い痛みと共によろけるが踏みとどまる。ここで俺が倒れる訳にはいかない。

 一発拳が当たった事で男は調子づいたように俺を殴り続ける。

 なるべくいなす様にしているがなるべくいなす様にしているが、喧嘩なんて小学校以来した事もない俺に全ていなす事はできない。

 少なくない回数殴られて流石にキツイ。それでもグッと歯を食いしばって痛みを耐える。


「おい、やめろ!」

 彼女の叫びを聞きつけて近隣の住人が表に出てきた。

 その中の一人が男を後ろから取り押さえる。

「離せ!コノヤロウ!ぶっ殺すぞ!オラっ!離せ!」

 俺を殴る事で興奮しているのか男は叫び続けていた。

 俺は傾いた身体を彼女に支えられてどうにか立っていた。

「ロープ持ってきたよ」

「縛れ!」

 暴れ続ける男は近隣住人によって縛られ、猿轡をかまされた。

 もがもがと喚く男と少し離れた場所で即席の氷嚢を殴られたところにあてて冷やす。


「今、警察にも通報してるからね」

ありあとうありがとう

「ありがとうございます」

 氷嚢を持ってきてくれたおばさんに礼を告げる。


 この後やって来た警察官によって白昼、住宅地で起きた暴行事件は終息を迎えた。俺と彼女も事情聴取のために同行した。

 とはいえ俺は一発たりとも手を出していない。完全な被害者の立場だ。

 これは騒ぎになれば警察官が来る事を見越しての事だったのだが想定以上に殴られた。俺が相手の事を過小評価していたからだ。

 もう少し人を殴る事に躊躇いを覚えるだろうという考えが俺にはあった。実際にはそんな事は無くどんどんエスカレートしていった。彼女が後ろにいなければとっくに膝をついていたに違いない。


 警察官に応急処置をしてもらい状況を説明する。

 俺が話せるのはあいつが嫌がる彼女に手を伸ばし、それを遮ったら殴られたと言うことだけ。補足するように彼女はあいつから受けたDVを告げ、家を出ようとしたところにあいつが帰ってきた事を伝えた。

「はい、これで事情聴取は終わります。貴方は彼から受けた暴力を訴える事ができます。被害届を出しますか?」

「はい、届けを出します」

「それではこちらに来て下さい」

 俺たちはカウンターから離れた席に案内されてそこで記入箇所の説明を受けながら被害届を書いた。

「はい、それでは被害届を受理しました」

「お願いします」

「病院に行ってきちんと治療を受けてください」

「はい、有難うございます」

「奥さんもDV被害を受けていたのでしたら弁護士に相談する事をお勧めします」

 彼女の話を聞いていた婦警さんの言葉に俺も頷く。

「はい……、有難う、ございます」


 警察署を後にした俺達はもう一度彼女の家に戻り、彼女の荷物を全て俺の実家に送る手配をした。まあ、衣類の入った段ボール二箱だけどな。

 すっかり彼女の荷物がなくなったその部屋で左手の薬指から外した指輪をテーブルの上に置く。


「あの人は指輪をしないのに私には外す事を許さなかったの。でも、もう解放されてもいいよね」

「ああ」

 俺の胸に顔を埋めて涙を溢す彼女をそっと抱きしめる。


 最後に家の鍵をかけてもう一度警察署に向かう。

 対応してくれた婦警さんに家の鍵を旦那に返して欲しいと頼み、渡す。


「病院行こうか?」

「ああ、まだ痛むしね」

 彼女に付き添われて病院に行く。治療が終わる頃にはすっかり日も暮れていた。


 彼女と再会したのは昨日の午後。俺たちを取り巻く環境は大きく変わった。二人とも無職になって、彼女はこれから離婚に向けて動き始める。

 身を寄せる場所として当面は俺の実家を選んだ。なるべく出費を抑えたい気持ちもあったけど、本音は彼女に俺のことを知って欲しいと考えたからだ。

「じゃあ今度こそ行こうか」

「はい」

 やっぱり俺たちは手を繋いで、駅に向かって歩み始める。


 一年後、彼女は調停離婚によってあの男から解放された。


 その半年後、俺と彼女は籍を入れた。

 今、彼女は新しい命をその身に宿している。

「ねえ、私達の関係って?」

 いつかと同じ質問。

「夫婦、それとも家族の方がいい?」

 今度は躊躇う事なく返答する事ができた。


 今、彼女は優しい笑みを浮かべている。

 この先、色々な事が二人の間で起きるだろう。それでも俺は彼女のこの笑顔を見続けていたい。新しく生まれてくる命と共に笑い合っていたい。

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「私達の関係って」 鷺島 馨 @melshea

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