第二章迷い 一



「ひでえ目にあった。危うく殺されるところだったぞ。それにしても恐ろしかった。如何にか逃げ延びたが、法外な要求を突きつけられてしまった。呑まなければ殺されていたところだ。しかし、如何すればいい。くそっ、ああ痛ててて…」

窮地を脱したが、脇腹を押さえ悔しそうに呻いた。

「くそっ、腹を蹴られた時は、息が詰まり死ぬかと思ったぜ。それにしても痛てえな。まったく、池田がこんな風になっちまってよ。それにしても重てえな…」

引きずりながら嘆き、遠ざかったところで歩みを止める。それまでは様子が気になり、菊地の目の届くところで覗うことが出来なかった。ここまで来れば安心と掴んでいた手を離す。すると、だらりと垂れた。横たわる池田の顔を叩き覗くが、何の反応もない。

「おい、池田…」

身体を揺するが同じだった。そこには血の気のない顔があり、もう一度強く揺するも変わりなかった。急に悲しみが込み上げてきた。

「死ぬんじゃねえ、これしきのことで。おい、何とか言えよ。まさかお前が死んだら、一人ぼっちになちっまうじゃねえか。ずっと一緒に保管係をやってきたんだぞ。それも気心知れた仲間だったのに。そんなお前が死ぬなんて。俺には考えられないんだ」

動かぬ池田に涙を溜め、痛みと共に憤りを感じていた。

「くそ、こんな目に遭わせやがって。菊地の奴め、許さいでか!」

今まで味わったことのない悲しみに満ち、彼の死がこれほど己にとり切ないものなのかも初めて知った。

今までだったら、如何していただろうか。殴られたことも池田の死も、何の感情も生じなかったし、悲しいとか辛いとか憎いということも生まれなかった。要するに反応することがない。そのように教育され無関心だったのに。

ところが今は違う。野口は実感し、激しい憤りとなって身体中を駆け巡っていた。

何故、こんな気持ちになるのだろうか?

今までにない何かが、己の中で変わりつつある。それが今現れたのだ。

それは自分でも分からない、本能の仕業なのか。それとも、俊介さんの改革講話による自己変革なのか?

それにしても悲しかった。蒼白な池田の顔を見るのが辛かった。涙が止めどなく溢れ、顔がぼやけて来た。

「池田…」

如何にも耐えがたく叫ぶ。

「池田、お前の仇を取ってやる!」

そう意を決したが、菊地の奇相が浮かぶと萎えた。不安と言うより恐怖心だった。恐ろしさが蘇えり、覆い被さる恐怖が染み出すように震えてきた。

池田の死に対する悲しみより以上に、辛くも生き延びた故の刻み込まれた恐怖心は、簡単に拭い去ることの出来ぬものとなり、如何にもならないことを悟った。

このままでいたら必ず奴に追い詰められ、いずれ池田のように暴力の餌食となり殴り殺されるかもしれない…。

動かぬ池田をじっと見つめた。

池田、如何したらいいんだ。お前の仇を取ってやりたい。だけど奴が恐ろしい。まともに顔すら見れん。それどころか菊地が恐ろしいんだ…。怖くて、思い出すだけで足がすくみ如何にもならない。今の俺には、とても奴を倒す勇気なんか湧いてこない。それどころか真正面に見ることすら出来ない。奴の恐ろしい奇相が浮かんでくる。ううう、奴が睨んでいる。そうか、もうすでに奴の標的となり俺を蝕み始めているんだ。

それが証拠に、無理な要求をしてきている。奴の言うあれだけの獲物を、明日までに捕獲することなど不可能だ。それに俺の立場では、集めることすら儘ならない。

菊地から暴行を受けた時のことが甦る。

…あの時は、つい返事をしてしまった。いや、そうせざるを得なかった。それも仕方なく。決して断われぬことを承知で要求しているのだ。これとて、もし出来なければ本当に俺を殺しにかかるだろう。多少時間を稼げても奴の執念からすれば、どこへ逃げようとも探し出すに違いない。見つかればその場で命は消える。この巣穴の中で、それを回避する方法などあろうか?

絶望感に包まれる。

いや、さっき奴はこの巣穴を出て行くと言った。新しい巣穴に持って来いと命じた。この巣穴から出て行けば助かるものでもあるまい。奴が攻めてくれば俺以外にも犠牲者が出る。となれば、如何すればいい。

奇相の菊地の残影が邪魔をし、まったく答えが出なかった。

いずれ俺も、こいつのようになってしまうのか。池田許してくれ。俺にもっと勇気があったら、そしてもっと深く考える力を持てたなら。ああ、如何したらいいんだ。あの時、池田の言ったことに耳を貸さずにいたら、こんなことにはならなかった。つい魔が差したとはいえ愚かだった。

悔やむばかりだった。

万事休すか…。

野口は観念したが、その時である。目を閉じている池田が動いた。いや、そのように見えた。錯覚かと目を擦り否定する。

如何せ俺だって、早晩お前のようになる。その前に、お前を丁重に葬ってやる。池田、成仏してくれ。決して俺を恨むな。抵抗もせず、後退りしている俺を恨まないでくれ。

目を閉じ手を合わせた。すると今度は、名前を呼ばれた気がした。でも否定する。

池田、そんなに早く俺を呼ぶなよ。いくら寂しいからといって、そんなに早く迎えに来られちゃ困るぞ。まだ菊地に殺られたわけではないんだからな。

目を閉じ苦笑した。すると今度は、はっきりと耳に飛び込んでくる。

「野口、ここは何処だ…」

死んだはずの池田の声を聞いた。

「うん?」

野口は一瞬耳を疑った。

「ううう、痛えな…」

また、池田の声がした。

あれ、死んのでないのか…?いや、そんなことはない。

更に耳を澄ました。すると大きな声がした。

「痛てて、ああ痛い。あれ、ここはどこだ。俺、こんなところで何してんだ」

驚いた。唐突だった。紛れもない池田の声である。

「えっ、何だ。池田。生きてんのか!」

慌て声をかけた。一瞬頭の中と現実が錯綜したが、池田が目を開けているのをはっきりと見た。信じられなかった。てっきり死んだものと思い込んでいた池田が、きょとんと目を開け話かけているのだ。

まさか池田が生きているなんて…。

狐につままれたような野口に告げる。

「おい、野口。何、ぽかんとしているんだ!」

「…」

言葉が出なかった。言葉が喉に詰まったように口をパクパクと開けていた。だが池田を見ているうち、まさしく生きていることを知り何とも言えない悦びが湧いてくる。

おい、お前。生きているのか!

このように声をかけようとしたが、胸が詰まった。そして安堵し呟く。

「生きていたんだ…」

ようやく実感した。そして小さな声で言う。

「池田、よかったな…」

出たのはそれだけだった。野口は感激のあまり、何と言ってよいのか言葉が見つからなかった。池田も涙を溜めている野口を窺い、己の置かれている状況を知った。次第に記憶が蘇ってくる。あの時の生々しい状況が鮮明になるにつれ、助けてくれた野口に感謝の気持ちが胸の奥から湧いて来た。何と表現していいのか分からなかった。こんな経験は、この方味わったことのない感触だった。

そして、自然と池田の口から「有り難う」という言葉が出た。それに続く、二人の言葉はなかった。それで充分だった。互いに涙だけは己の意思とは無関係に溢れていた。これら一連の動作は、彼らにとって自然の成り行きであり意図したものではなかった。勿論、この巣穴社会の伝承で指導教育されたわけではない。無意識のうち、感情を表わすまま行動したに過ぎない。すなわち、本能が芽生え始めたのだ。

暫らくすると、二人は落ち着きを取り戻すが、同時に全身に痛みを感じていた。それはすなわち、菊地に対する怒りの裏返しでもあった。そして腹の中で反芻する。

俺たちにどんな非があるのか?これだけこっぴどく痛めつけられたのは何故なのか?

その理由を考えていた。

「そうだ!」

野口が突然発する。

「…確かに奴の獲物とは知らず掠めようとした。それを奴は、物陰に隠れ覗っていたんだ。通りで何か変だと思ったよ。その時は気づかなかったが、あの獲物に奴の匂いが付いていたし、後ろから近づいて来た時にその匂いが共鳴していたっけ。それと気づく前に、攻撃されてしまったんだ。それを考えれば、確かに俺らにも非がある…」

黙って聞いていた池田が割り込む。

「それにしたって、あまりじゃないか。無防備の俺らを後ろから攻撃するなんて、避けようがなかった。殴る前に一言声を掛けてくれれば、こんな目に遭わずにすんだものを。それにしても、ああ痛てて…、後頭部を強く打ったんで、まだ割れるように痛いんだ。でも、奴の鉄拳を受けた瞬間に意識がなくなっていたからな。それにしても痛え」

すると、野口が在り様を告げる。

「てっきりお前が死んだと思ったよ。顔面蒼白になり、身動き一つせず硬直していたからな。けど、まさか息を吹き返すなんて、思っても見なかったぞ」

池田の肩を叩いた。

「痛てて、野口よしてくれ。縁起でもねえ。俺が死んだだと。まったく勘弁してくれよな」

冗談ぽく告げ立とうとしたが、足が動かない。

「あれ変だな、足に力が入らんぞ。俺の足、如何なっている。さっきから少し変に思っていたが、感覚がないんだ。野口悪いが、ちょっと足の指を引っ張ってくれないか?」

「ええ、池田、如何したんだ引っ張れって。そんなことしたら痛いだろう。本当にいいのか?」

「おお頼む。如何もおかしいんだ」

野口が池田の足を掴み、一方の手で指を引っぱった。

「痛いじゃないか。野口、もっと手加減してくれよ。いくら頼まれたからと言ってよ」

そう言われるのを覚悟して、強く引っ張った。意に反して無反応だった。

池田が嘘ぶく。

「野口、何やってんだ。まだ引っ張ってないのか?」

野口は解せなかった。これだけ強く引っ張っているのに促すとは。

「何を言っているんだ。これだけ引っ張っているんだぞ。もっと優しくやれと言うならまだしも、早くやれとは如何いうことだ?」

半信半疑で尋ねた。池田が不可解な顔をする。

何で引っ張りもしないのに、そんなこと言うのだろう?

仕方なく、野口の手から足を外そうとしたが動かない。

池田が焦る。

「あれ、足が動かない?そんな馬鹿な、そんなことあるか!」

動揺し手を使って立とうとするが、腰から下が動かない。まるで別人の足が横たわっている様だった。

「如何いうことだ…!」

頭の中が混乱していた。

「立てないはずがない。おかしい、まだ眠りから覚めていないのか?」

そのうち訳が分からなくなり、頭の中が真っ白になっていた。すると池田の異変に野口が慌てる。

「池田、如何したんだ。早く立てよ。そんな冗談言っている場合じゃねえぞ!」

目を丸くし怒鳴った。それも間近で言われているのに、池田にはまるで遠くの方で告げられているようだった。

「分からない。自分が今如何なっているのか理解できない。一体、俺は如何なっているんだ…?」

錯綜する中で呻く。そして、同時に頭が疼き、割れるように激痛が走り出し呻く。

「うぐあっ、ううう…痛い…。野口、頭が割れそうだ!」

頭を抱え込んだ。錯乱状態の池田を窺いつつ呆然と立ち尽くし、「しっかりしろ!」と、励ますことしか出来ないでいた。のた打ち廻る池田だが、下半身だけは別人の如く動かなかった。それを覗う野口が、不可解そうに漏らす。

「お前、足が動かないのか…」

唐突な呟きが、池田をぴくんとさせそのまま硬直したように全身の動きを止めた。そして直視し叫ぶ。

「野口、今お前、何て言った。俺を見て言っただろう。何と言ったんだ!」

その目は、絶望の淵に追い込まれた如くなっていた。すると、野口が戸惑いつつ濁す。

「いや、何も言わないさ。お前の聞き違いだろ。「しっかりしろ」と言っただけだ」

「嘘だ。野口、お前は嘘をついている。はっきりと聞いたぞ。「お前の足は動かない」と。そう言っただろ、俺の足を見ながら!」

そう反論し、失意の底に落ちるように肩を落とした。と同時に、何を意味するのかを悟っていた。この世界で生きて行くには、すべて己の力でやらなければならない。そのように決まっているし、皆そのように行動しているのだ。

池田らのような働き蟻にとって、足が動かぬことは生きて行けないことを意味する。すなわち死だ。それもこの巣穴社会の掟であり、助ける者はない。他の働き蟻だってそうだ。争いは弱いものが強いものに負ける。負けそうな奴に、仲間が加勢し援護することはない。すなわち一対一の食うか食われるかの戦いであり、負けたら命を落とし運んでいた獲物は奪われる。また勝ったものに己が食われる。それが自然界の定めだ。

池田はこの掟の中で、命を繋ぐ方法のないことを悟った。悔しく思おうが、悲しく泣き叫ぼうが助ける者はいないのだ。今まで生きてきた池田にとり、運命といっても過言ではない。自身、他の仲間が巣穴の中で足を折りもがき苦む姿を見ても、それを助けようとしなかった。

そんな事例が今まで何度もあった。その仲間は成り行くまま死んでいった。それを可愛そうか、助けてやろうと一度も考えたことはなかった。

しかし今の池田にとって、俊介に出会い説法を聞いて以来、自分の中で何かが変わっていた。現実に野口の助けに涙したり、己の足の動かぬことに不安が駆け巡ったり、これで命が亡くなると思うと悲しくて、誰かに助けを乞いたくなる思いが募る。そして生きたいという望みが強くなっていた。

もし俊介さんの話を聞いていなければ、そして目覚めていなければそんな感情は芽生えなかったに違いない。何の抑揚もなく定められた掟に従い、一生を終える道を進んでいたに相違ないのだ。だが今は違う。こんなことで命を落とすわけには行かない。もっとやりたいことを見つけ、思う存分謳歌したい。

そんな気持ちが、ふつふつと池田の胸の奥で湧いていた。だがしかし、再びわめき出す。突然、吐き気と共に激痛が襲ってきたのだ。

「わあっ、痛い。頭が割れるほど痛い。ぐえっ、うぐぐぐ…!」

池田は頭を抱えながらうずくまり、その場に倒れ込んた。意識が無くなっていた。どのくらい時間が過ぎただろう。死界から蘇ったように薄ぼんやりと野口の姿が浮かんできた。朦朧としながら窺う。野口は泣いていた。何故泣いているんだろうと思った。止めどなく涙を流し、ぶつぶつと呟いているのだ。聞き耳を立てる。

「このままでは池田が死んでしまう。そんなのは嫌だ。何とか助けてやりたい。誰か教えてくれ。こいつの命を救う方法を、何としても死なせたくない。大切な仲間なんだ。ああ池田、死んだら嫌だ。俺を独りぼっちにしないでくれ。誰か池田を助けてくれ!」

必死に訴えていた。その様子を見て嬉しかった。

この野口が、懸命に俺のことを救おうとしている。彼も同じなのか。心の通う働き蟻になり得たのか…。

そう思うと何故か、急に嬉しくなり涙が溢れた。

野口、有り難う。俺のために、そこまで願ってくれるなんて…。

後が続かなかった。そんな池田の間隙も知らず、野口は泣きながら叫んでいた。

「このままにはさせない。お前を助けてやる。このまま放ったらかしにはせん。昔の俺とは違うんだ。何としてもお前を助け、これから一緒に生きて行く。如何なんだ、池田。協力してくれるか。俺はお前に何でもしてやる。そう言う二人三脚の生き方だっていいじゃないか。これからもっともっと冒険をして、思う存分謳歌しなきゃな。池田、そう思わないか。お前が何と言おうと俺は決めたぞ!」

池田の手を取り、きつく握り締めた。池田は何も言わなかった。いや、あまりの感激に応じることが出来なかったのだ。そのかわり、今の気持ちを伝えようと力強く握り返した。すると驚いたのは野口である。池田の顔を見た。

「お、おい!池田、生きていたのか!」

「う、うん。まあな…」

「そ、それはよかった。てっきり、死んだかと思ってな。悲しくて泣いていたんだ。生きていたなんて、本当に嬉しいよ」

「本当か?野口。死んだ方がいいと思っていたんじゃないのか。涙なんか流したって信じられねえな。「この間抜け、死んじまいやがって!」と言っていたんじゃねえのか?」

「馬、馬鹿な。そんなこと言うわけないだろう。たとえ死んでも、間抜け呼ばわりするかよ!」

野口は泣きはらした目頭を拭い、真顔で言った。

「冗談だよ。冗談。俺はお前を見ていた。ふと気づいて、泣く姿を見たよ。そんなに俺のこと思っていたなんて感謝するよ。有り難う。本当に有り難う」

「何だ、そうだったのか。それならもっと早く声を掛けてくれればいいのに。そうすりゃ泣かずに済んだのに。ああ損した」

野口は安堵したのか、池田を見ながら軽口を叩いた。




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