黒攻のアナベル

第一話 黒騎公

 アナベル兄さん……


 セルベルが、麻の上着の袖を掴んでくる。彼女の手の震えが心臓にまで伝わった。かくいう僕にしても痙攣しているのかと疑うほど小刻みに膝が揺れていた。

「こんな街外れの孤児院に何のようだ?」

 勇気を振り絞り、目の前に立つ仮面に近い黒の兜、さらに黒一色の鎧を装備した男に向け尋ねた。

「何歳だ?」

 鎧の男は到底この場にそぐうとは思えないことをききかえしてくる。

 鼻筋を覆うように兜の上部から垂れた細長い鉄の塊。その両端から見える男の目は、両方ともうつろで、心ここにあらずといった感じだった。彼の足元の至るところに、元僕の先生たちが倒れていた。感謝という言葉ではまったく足りないほどお世話になった彼ら……その全員の身体から流れるおびただしい血が否応にも僕の瞳に映る。

 僕は回答しなかった。もちろん自分の年齢くらいは知っているが、鎧の男の狂気を帯びた影に圧倒され声が出ない。

 もちろん、先生たちの死を悼んでいる時間だってこの場には存在しない。

 意外といえば意外だが、すぐに攻撃をされるということはなかった。ここまで先生たちを躊躇なく殺してきた男の行動にしては奇妙だ。だからといって、彼の身体から殺気がなくなったわけではない。いつでも僕を葬り去る準備ができていることは、彼が手に持つ剣が放つ異様な雰囲気から感じ取れた。

「みんなを連れて逃げろ、セルベル」

 僕はそう小声で呟いた。

 ちらりと周囲を確認する。石造りの広間は若干薄暗く見にくい。だが、柱の裏などにも人の影はなく、見える範囲でも鎧の男の仲間たちの姿はない。つまり、建物内には彼ひとり。さらにまだ今であれば孤児院が取り囲まれている可能性は低い。間違いなく逃げ切れるはずだ。

 セルベルは僕の呼びかけに躊躇する素振りを見せたが、少しの時を経た後、孤児院にある裏口の方角へと立ち去っていった。頼む、途中にある聖堂の控室の片隅で怯え固まっているだろう彼ら――みんなをどこか安全なところへ連れていってくれ。今なら奴が僕を放って奥へ追っていくことはない。

 次に、それは外で教えると鎧の男に声をかけた。

 前方へと足を踏み出すと、鎧の男は後ろへと身体をやる。どうやら、逃げたセルベルを追うといった素振りはない。兎にも角にも、ほっと胸を撫で下ろした。

 セルベルが何度もこちらを振り返る気配をなんとなく背中で感じとりながら、孤児院の入口を抜け外へ出る。これで確実に僕だけが彼の攻撃対象になることができた。そう確信した。

 視界が一気に開けた。

 いつもであればそこは砂の小道に一面白と黄色と緑に覆われた花畑が広がっている。よく先生たちや仲間たちと転げ回って遊んだ場所だ。だが、それはどうしようもないほど過去の話だ。そこは、今はただの赤黒い血に染まった世界へと変貌していた。

 次第に視界一面に一筋の黒く太い糸が広がっていく。

「黒騎兵……」

 地獄の業火を思わせる大量の炎を背景にし黒の地平線を創り出すその軍団を見た僕は恐怖で慄いた。

 見渡す限り人々の身体が花畑に転がっているが、黒騎兵たちにより次々と黒く消し去られていく。

 骨が折れる音なのか、馬の蹄の音なのか、はたまた黒騎兵が奏でる雑踏の音なのか。

 それらの判別はまったくつかないが、気色の悪い緊張感を否応なく感じさせる音が僕の耳に届いてきた。

 歯がガタガタと鳴る。

 鎧の男はこちらを振り返った。それ以上動こうとしない。おそらく僕の回答を待っているのだろう。

 そうしている間にも、黒の軍団……師団は馬のいななきを至るところから鳴り響かせながら、僕の方へと迫ってきた。

 やがて、僕の身の丈の数十倍はあろうかという馬車が男の背後に到着した。巨大な荷台の上には煌びやかな台座。その中央には椅子があり、そこに黒の装束を身に纏った男が座っていた。

「黒騎公……」

 後ろを振り向くこともなく、鎧の男がぼそりと呟いた。

「はじめからすべての力を使い滅ぼせ。躊躇はするな」

 黒騎公と呼ばれた男の声が鳴り響く。

 切長の目。それに睨まれた僕の心が黒に染まる。

 肩にまでかかった黒髪、頬は凛々しいが、身体全体から危険なほどの闇を感じさせた。

 車輪に挟まれた死体の半身を何事もなく踏みつける。ゴキリと鈍い音が鳴った。

 こいつに慈悲などはない。出会ってしまうだけですべてが終わってしまう。

 早く逃げろ、セルベル。

 僕は胸中で祈った。

「ところで……おまえは何歳だ?」

 黒騎公が尋ねてきた。

 職務的な質問といった感じで、おそらく僕に特別興味があるというわけではなく、その態度は尊大かつ投げやりで退屈そうだった。

 鎧の男にも先ほど同じ問いかけをされたが、どういう意味があるのだろうか。こんなことを全員に訊き回っているのか?

 首を横に振った。さっき先生たちは問答無用で鎧の男に斬り殺されたし、周囲に転がっている大人たちの死体は、逃げ惑っている最中に殺害された形跡が多分に見受けられる。となれば、僕だけにこの質問をしているということなのだろうか? 考えれば考えるほど意味が不明になってしまいそうだ。

 困惑しながらも、

「じ、十五歳だ」

 と僕は答えた。

「ほう、そうか。ギリギリだったな」

 黒騎公はそういうとゆっくりと椅子から立ち上がる。そのままふらふらと、台座に取り付けられた階段を降りてきた。

 後ろに従える黒騎兵を引き連れず、ひとりでこちらへと向かってくる。

 ポケットにナイフが入っていたのだが、手をその付近に伸ばそうとすることさえ考えなかった。何をどう抗おうと彼を打ち倒すことはできない。そう深く心で信じてしまう、それほどの圧力を彼の動作に感じた。手前にいる鎧の男のことなど綺麗さっぱり忘れてしまうほどの存在感だった。

 地面を踏み締めるブーツが、砂煙をあげる。鎧の男の肩を押し退け、僕へと近づいてきた。何を考えているのか、何をするつもりなのか、皆目見当がつかなかった。

 ジリジリと僕は後ずさった。

 この男は何かはわからないが何かがおかしい。鎧の男のような直接的な恐怖心ではない。それは、まるで存在しえぬ巨大な幻の手で背骨や脊髄を掌握するような……

 振り向いて逃げなければ、と思いはすれど、僕の心は既に男が放つその何かに囚われていた。

 黒騎公は僕の前に立ちはだかった。

「どうなると思う?」

 氷より冷たい戦慄の声が僕に投げかけられる。

「ど、どうなるって?」

 僕は挙動不審にいった。

 ごくりと唾を飲み込もうとするが、口が乾き、それさえも叶わない。彼の行う動作すべてが、僕に何もかもの諦め――すなわち死を覚悟させた。

「俺の目を見るな」

 黒騎公が手をこちらへと伸ばしてくる。大きな掌が僕の前に迫ってきた。

 そして、僕の目の前は真っ暗になった。

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