第2話 ナタ・デ・ココ【nata de coco】
泣きそう、にならないところが敗因なんでしょうね。
それは分かっていますが、涙目どころかドライアイ。
窓からは城下の夜景を一望できるロマンチックなシチュエーション。
でも私は独り。ちょっとだけ、せいせいしたような気もしますがそれはまあ、この場限り、私一人の秘密にするべき感情でしょう。
折角だから王宮に併設されている王立図書館にでも寄って行きましょうか。
皇太子殿下に呼び出されたのでやって来ましたが、今後はそうそう王宮に来ることもないでしょうから。
今は人払いされているようで周囲に人の気配はありませんが、ここに来るまでに、視線で射殺されるんじゃないだろうかというぐらい衆目を集めましたとも。
ああ、せっかくだから、陛下にご挨拶すべきでしょうか。
ご挨拶ついでに、何もかも、ぶちまけたらよいのでしょうか。せっかく、ですし。
いえ、冗談ですけどね。
冗談ついでに、いっそ窓から出て行ったら駄目でしょうか。駄目ですよね。さすがに。
などと思いながら、窓の外に顔を向けようとして、
人に遭遇しました。
ぎりぎりぶつかってはいませんが、ビスケット一枚分ぐらいの距離感で。
ルビーのように真っ赤な瞳が、至近距離にあります。
思わず身を引けば、全体像が見えました。
男性です。
白銀に輝く髪をさらりと揺らし、ただ一点の曇りもない、奇跡のように整った美しい顔が驚いた顔をしています。ビスケット一枚分ぐらいの距離感で。
近い。
「やあ」
喋った。
自分で言うのもなんですが、私はわりと美人です。
この国ではごく標準的な黒髪黒目の、それでも十人中十人が、私は美人だと褒め称える程度には、美人です。
ですが、そんな私より、ずっと特別感がある美しさだと感じるのは、銀糸のような髪のせいでしょうか。ルビーのように美しい、その紅玉の瞳のせいでしょうか。
「驚かせてしまったね。ごめんね」
微笑んだその
廊下の窓枠に脚をかけてはいるけれども。
あとここ、四階ですよ。
「よいしょ」
ビスクドールが口にするには少しばかり世俗にまみれた掛け声と共に、その男性が廊下に降り立ちました。
思いのほか近い位置に立ったその方は、思いのほかしっかりした体格で、見上げるほどに背は高く、つまり大変男性らしい体つきをしております。
「ああ、まずいな。ちょっと失礼」
誰かが近付いてくるようです。
そう思った時にはもう、その方は私の腕と腰とに手を回していました。大変鮮やかな手付きで。
気付けば誰もいない一室に押し込められて、いわゆる壁ドン。
ついでに私の口元を塞ぐ大きな手。
「静かにしていて。君も、こんな状態で誰かに見られたら困るでしょう?」
羞恥を煽るんじゃないかと思うほどに甘い声が、吐く息が耳朶にかかる近さで囁かれました。
確かに、見られては困ります。
腐っても公爵令じ…………いえ、もう事実上社交界から追放された不肖なる我が身、もうどうでもいいかも。
壁に押し付けられ、体温を感じるほどに寄せられた身体。夜の密室に、男女が二人きり。
負け犬落ち目令嬢に、『淫乱』の二文字が加わること間違いなしです。
でももう、別にいいかも。どうせもう、落伍者没落女ですし。
「ちょっと、なんか諦めてない?」
「何も諦めてはおりません。ただちょっとだけ、人生という荒波に揉まれ過ぎた我が身を哀れみ、一時の心地良い悲哀に浸っているだけです」
「かなしいんだ? 皇太子に振られたから?」
そのビスクドールの様な美しい
まあ、大変に魅力的なご様子ですこと。
いえ、その顔面だからって誤魔化されませんよ。人の不幸を笑ってませんか。
「……ご存じでしたか」
「ご存じない人なんていないんじゃない?」
それは、確かに。
潜めた声で、戯れに言葉を交わしながらも、その身体が離れていく様子はありません。いえ、離れていくどころかむしろ、ちょ、どこを触っているんですか。
ぺちん、と軽く叩き落とした手が、今度はそっと背中に添えられました。
ところでパーソナルスペースってご存じですか?
「おれが、立候補してもいいかな?」
「何に?」
「君の、婚約者に」
「どうして?」
「一目惚れ」
「ご冗談を」
「君のその容貌ならアリじゃない?」
それは、そうでしょうけど。
「ねえ、メアリー」
いきなり呼び捨てですか。距離感バグってません?
それに人の名前をまるで如何わしい言葉でも囁くみたいな、そんな風に口にするのは止めてください。どうかと思います。
「おれのお嫁さんになってよ」
「ごじょ」
うだんを、と言いかけて、ハタと気付きました。
――アリ、では?
アリ、かも。
いいえ、むしろヨイ寄りのアリ。
目の前で、微笑むビスクドール。
白銀の髪に、紅玉の瞳。美しい、その人。
すつる神あれば引きあぐる神あり。まさに今、それでは?
私は押し返そうと胸元に充てていた手で、その方の襟首を掴みました。ガっ、と。
「おお?」
そして、角砂糖一粒分の近さまで互いの顔を近付けました。
やはり、美しい。
髪は根元から紛れもない綺麗な白銀。紅玉に輝くのは間違いなく、本物の瞳。
「――その求婚、お受けいたします。クイン皇子殿下」
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