人魚の入江

夏蜜

前半

 窓辺を通して聞こえる歌声に、リンは夢から引き戻された。寝室の磨硝子から注がれる月光は、広い寝台を煌々と照らしている。

 青白い月明かりに何度か瞼をしばたたかせると、一筋の涙が溢れた。きっと亡き両親の夢を見ていたのだろう。両親が旅先で不慮の事故に遭って以来、リンは度々、平穏で幸せだった日々を夢で見るのだ。

 リンは上体を起こし、耳を澄ました。いつも夜中になると、屋敷の裏手にある入江から、歌声が聞こえてくるからだ。誰の声かはわからない。透明で高らかな歌声は、暗く沈んだ海のような心に光を射した。

 いつもは寝室で横になっているだけなのを、この日は歌声の正体を唐突に知りたくなり、リンは寝台を下りた。部屋を出て、夜闇の蔓延る廊下を行く。吹き抜けのエントランスホールに来ると、海側の天窓には青々とした月がはっきりと映っていた。月の光は、勿忘草色のステンドグラスを施した玄関扉まで輪を広げている。

 リンは誘われるように玄関扉を押し開け、外に出た。屋敷の裏手は緩やかな勾配となっており、白浜は目と鼻の間だった。だが、手入れをする者がいないため草木は奔放に伸び、暗がりでは前方がよく見えない。そうこうしているうちに、またあの歌声が鼓膜を震わせてくる。

 リンは草木に隠れて浜辺に目を凝らした。波打ち際に人影がある。その人物が大きく息を吸い込むたび、心地好い歌声が夜空を駆けるのだった。

「……あれは一体、誰なの」

 リンは思わず呟いた。間髪をいれず、波打ち際の人物は歌うのを止めて振り返る。逆光で表情はよく判別できないが、こちらの存在に気付いているようだった。

 恐らく、どちらも逃げようとしたことだろう。リンは恐怖で踵を返そうするのを踏み留まり、逆に近寄って行った。すかさず、歌声の持ち主は青黒い海へ潜ろうとする。

「待って……!」

 リンは精一杯の声を出した。怖くないと言えば嘘だったが、逃したくないという気持ちのほうが強かった。サンダルを砂まみれにして、一歩ずつ近づいてゆく。顔の輪郭がわかる程度になると、リンは呼吸を整え、改めて訊いた。

「あなたは、誰?」

 海風に、項から鎖骨にかけて斜めにしてある黒髪がなびく。月明かりは海から砂浜に橋を架け、その袂にリンは佇んだ。

 願い通り、歌声の持ち主は躰をリンに振り向ける。そして姿勢を低めたまま、おもむろに砂浜に上がった。リンは荒ぶる呼吸を抑えてさらに距離を縮める。次の瞬間、相手のその姿に息を呑んだ。

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