第一章 回復への兆し①
暗い森の中を駆け抜ける。
背後からは巨躯を揺らして追いかける、異形の獣――
アネスの前をレザークともう一人、金色の髪を肩まで伸ばした少女が走っている。
森を抜けた場所で、三人は息を切らした。
その時、暗鬱な森の中が白く輝いた。
アネスの目前で、金髪の少女が光に飲み込まれていく。
後ろ姿を見せながら、別れの挨拶もせず、すうっと光が包んでいく。
アネスは手を伸ばし、必死に金髪の少女の名を叫ぶ。
――ココーネ!
目覚めた視界の先には、二段ベッドの床板があった。
アネスは起床時刻にはまだ早い時間であることを確認すると、寝巻きを着替え外に出た。
早朝の寮区画。いくつも建ち並ぶ棟の低い位置に靄がうっすらとたち込めている。
学校や寮は山間にあった。アネスが寝食するこの場所は、ヘキサートの各分野を学ぶ学校だ。
エンブールドという大陸の西にあるリクシリア国、その国内でもさらに西に位置するここヘキサート学校は、名門と呼ばれている。
高等部の寮の前で、浅葱色の靄に紛れながらアネスは自主トレをやり始めた。
名門校に通う一生徒であることに自覚があるかないかは別として、アネスのこの自主的なトレーニングは、誰かが見聞きしてもさして競り合おうとする者はおらず、アネスにはそれが他者からの罵詈雑言を避けられるために、自由を得られたような時間でもあるのだった。
脚や腕の屈伸運動や、仰向けやうつ伏せになって上体を起伏させる運動を繰り返す。合間に走り込みなどを挟み、自分を追い詰めていく。
何百回とそれを繰り返していると、汗がしたたり息も上がってきた。
やや涼しげな空気がアネスの熱を帯びた体を心地よく冷めさせる。
何セット目かの腕立て伏せをやろうと数十回をやった時点で、少し背中が重たくなった気がした。
横目で背中の方を見ると、ライトグリーンの髪をツーサイドアップにした初等部くらいの少女がアネスの背に腰かけていたのだ。
「みゅーん、むむ……。座り心地は申し分ない……。ゴンダからこっちに乗り換えようかな?」
「ミュール、俺というものがありながら……!」
アネスの前には、親指を自分に向けた巨漢が立っていた。この男がゴンダだ。黒髪は伸ばしっぱなしで、目や耳を隠し広い肩幅も丸みを帯びている。
「こら、ミュール。トレーニング中に失礼よ?」
「カナリも座ってみなよ。そこらのソファより心地いいよ?」
カナリは言われるがまま、あら、そう? と興味を示しミュールの隣に腰かける。
「ここは背中じゃなくて腰になるかしら。あまりここの座り心地はよくないようね……」
「動くよ……」
批評するカナリをよそに、アネスは女子生徒二人を背に乗せたまま、腕立てをし始めた。
くすくすとミュールとカナリは笑っている。
「二人分の重りで鍛えられるって?」
ミュールが嘲るように言うと、カナリが真顔で反論する。
「そんなに重くないわよ!」
「こらこら。二人ともよしなさい」
そこへ制止に入ったのは、野太い声だった。
この声は……とアネスは野太い声の持ち主へ目を向ける。
灰色の髪を額の中央で分け、鷹のような目にすっと伸びた鼻梁。端整な顔立ちと言えばそんな感じのするその男子生徒はアネスにも見覚えがあった。
「ジスード……」アネスは名を呟いた。
この四人の男女は、四士会のメンバーだった。四士会とは初等部、中等部、高等部、学生部という四学年から四名ずつ選出された生徒の代表のことで、学内での季節事の催しや、他校との交流などを含めた企画立案、運営を執り行う権限を持つ。成績も上位の生徒が推薦や立候補などから投票で選ばれ就任する。
高等部の四士会会長であるジスードとは同じ三年生であるアネスは、さほど友誼はなかったが、顔見知りでたまに世間話をする間柄だった。
ミュールとカナリは、アネスの背から降りた。
「困らせてしまったようだな……アネス」
アネスは腕立ての姿勢から立ち上がり苦笑すると、
「ゾムクーレ家の人でも手に余る人たちなのかい?」
ジスードの姓をゾムクーレと言った。リクシリア国内ではそこそこ名の知れた家柄だった。
「まあ、一般人よりは高貴な家柄かもしれないが、レザークくん……つまりはブライコーダ家よりは格下だろう……」
ジスードはカナリたち三人を一瞥し、
「手に余るとしたら、それは彼らが優秀だということだ。それはそれで感謝ができる」
「感謝?」
「ああ、ヘキサ・シンへの感謝だ」
エンブールドでは〝ヘキサ・シン教〟という教えがあり、体内の六つの力を神として崇拝する人々が多くいた。
堅物と言えば間違ってはいないだろうが、ジスードの場合、単に信心深いだけのような気がする。
アネスは微かに笑みを作り、
「何か僕に用でも?」
「ああいや、毎朝頑張ってるなと思ってね……」
「自分で決めたことだからね。目標地点はないけど」
「無駄な努力などないさ。やる気を維持させるためには、ある程度目標を立てた方がそこを目指せる」
「僕の場合、苦心することが償いになるかなって思ってるもんで……」
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