第9話 重い愛 ①
私は働き始めて一年目の新人ですが、十一月に入ってから一気に寒くなってきたように感じます。今まではカーディガン一枚羽織っていればいいかなあ、程度の気温だったのに、もっと分厚い上着が必要な感じ。
こうして夏から秋へ、秋から冬へと季節が移り変わっていくうちに、脳外科病棟は忙しさに拍車がかかるようになっていきます。
「703号室に入院の三橋さんは湖ホテル街にあるラブホテルの一室で発見、同室していた女性はすでにおらず、退室時間となっても出てこない事を怪しんだホテルスタッフによって発見。その後、救急車にて当院へ搬送、CTの結果、脳幹部付近の出血を確認。現在、呼吸状態も悪くレスピレーターを使用、CVからの輸液管理にて様子観察となっています」
朝からの申し送り、ヘビー過ぎないですかね。
「あの・・えええっと、ラブホテルですか・・歳は78歳?延命希望せず?え・・・奥さんは浮気しているのを知らなかった?とりあえず、連絡先は息子になっている?えええ?」
カルテの記入内容を見て絶句。
最近では若者が恋愛をしないとか、性行為体験をしないまま歳を重ねる若者が増えているとか、それゆえラブホテルを利用する人が減っているとか、お客さんを増やすために女子会やテレワークが出来るようになっているところもあるとか、ネット記事で読んだことがありますけども?
若者には任せてらんねー〜みたいな感じで、昨今の世の中ではおじいちゃん達が頑張っているって事なんですかね。
「宮脇さんにも覚えておいて欲しいんだけど、今の時期、ホテルとかで興奮しすぎて血圧上がって脳血管ブチギレる高齢者が結構多いのよ。血管切れてすぐに助けを呼んでくれればまだいいんだけど、そのまま放置して逃げ出す場合もあるし、掃除に入ってみたら一人で死んでいましたみたいな事も結構あるのよ」
チームリーダーさんが、わざわざ説明してくれました。
「自分の妻とかじゃなくて、愛人とか、お金で買ったとか・・まあ色々とあるから、外には情報を出さないように、守秘義務はきちんと守ってね。特に、お見舞いにきている家族は心境複雑なのは間違いない事だから、うっかりと変なことは言わないように気をつけて」
「はい、わかりました」
うちの病棟は40床あり、それを二分割にしてAグループとBグループに分けています。各グループにチームリーダーさんが付く形になるわけです。
日勤では退院する人もいれば入院する人もいて、症状が安定した患者さんなんかがICUからうちの病棟に移動してくる事もあります。
まだまだ下っ端看護師の私は難しい患者さんを受け持つことは少ないのですが、チームリーダーさんが色々と教えてくれたり、フォローしてくれたりするわけです。
「それでは次なんですが、今日、ICUから患者さんが一人上がってくる予定です。ホテルからの帰り道、階段を踏み外して後頭部を打撲。その後、嘔吐が続いたため救急車にて当院に搬送、CTの結果、硬膜外血腫の診断を受け入院の運びとなりました」
それにしても、今日はホテル多いなーー〜。
「それで、ホテルに同伴していたのは患者さんの夫が勤める会社の社長であり、この事は絶対に黙っておいてくれとの事です」
はい?
「患者さんは、一人で飲みに行って、階段で足を滑らせて頭を打ちつけて、それで助けに入った通行人が救急車を呼んで病院まで搬送となった。これで意思統一をお願いしたいと、申し送りを受けています」
はあ?
「患者さんの夫はかなり粘着気質な人のようで、色々とこちらに質問をしてくるかもしれません。ですが、質問をされたとしても『病状以外の詳しいことはわかりません』と言ってくれれば良いそうです。フォローは師長さんが入るそうです」
ええええええ、マジですかーーーーーー!
「先輩、あのお、これが先ほど言われていた『守秘義務』という奴になるんでしょうか?」
「う・・・うーー〜――ん」
チームリーダーは顔を一瞬くちゃくちゃにすると、
「そういう申し送りだから、言われた通りにしましょう!」
と、言い切った。
病院に入院する場合、外来で診断を受けて入院が必要だと判断された患者さんが、入院日を決めて入院する場合と、外来受診をした患者さんが、早急に入院をした方が良いと判断されて緊急入院する場合があります。
ICUに入っていた脳血管疾患の患者さんが、病状も安定したからという理由で移動してくる場合、ICUの言われた通りにするのが絶対!みたいな、暗黙の了解みたいなものがあるわけです。
救急搬送されてきた患者さんは、そのままICUに直行することが多いし、その際、直接当事者から話を聞くわけですから、社長と患者さんが一緒にホテルとやらに行っていたのは間違いのない事実なのでしょう。
だがしかし、何故ゆえそこで嘘の物語を捏造した上で、そこに私たちが乗っからなければならないのか?社長が部下の奥さんと不倫中に、奥さん転んで頭打って硬膜外血腫になったっていう事でいいじゃないか!
そこで夫婦の関係がとか、会社の人間関係がとか言われても知らんがな!やった事に対して責任持って受け止めないと!後々、人生後悔する事になるんだぞ!
「宮脇さん、この愛人の患者さん、宮脇さんの担当ね」
「はい!わかりました!」
病棟内カースト最下位の私に面倒臭いのが回されてきましたーー〜。
「くれぐれも言動には気をつけて」
「宮脇さんで大丈夫なの?心配なんだけど?」
心配するくらいだったら代わって欲しい、まあ、代わってなんかくれないって知っているけども。
「それではみんな、仕事を始めましょう」
「はい!」
とりあえず観察室に受け入れるわけですね、私は愛人の患者さん(言い方がひどい)のためにベッドを用意しに行きました。
硬膜外血腫とは、頭を強く打つことで脳を覆う硬膜という膜と頭蓋骨との間に血液が溜まる症状の事を言って、出血の場所が悪かったり、出血の範囲が広かったりすると手術適応という事になります。鶴野靖子さん(58歳)の場合は、出血の範囲も広く、頭蓋内圧亢進症状(頭痛、めまい、吐き気、嘔吐)があった為に緊急手術が行われているので、数週間はうちの病棟に入院する事になるでしょう。
この数週間の間は私が担当看護師となるため、旦那様より、
「妻が誰と一緒にいたか知りませんか?本当に一人で倒れていたところを発見されたんですかね?」
などと毎日のように質問攻めにされるのかなあっと思ったのですが、
「妻のこと、よろしくお願いします」
と、観察室に現れた旦那さんは、生真面目な様子で深く頭を下げるだけです。
ちなみに、夫が勤める会社の社長さんと不倫していたという奥様ですが、世間でいうところの美魔女とか、妖艶な美人とか、そんなことは全然なくて、
「今日も体を拭いてくれるの?ありがとー〜―」
と、朗らかに笑う、小柄で色白で、ふっくらとした体型の『ザ・主婦!』という感じの人でした。
お見舞いにくる旦那さんとも、
「毎日、お見舞いありがとうねー〜―」
なんて言って朗らかに笑っています。
ホテルに行った帰りに階段で足を滑らせて、頭を打って怪我をして・・・ホテルでホニャララした後で〜なんて言うよりも、ホテルで美味しい食事をニコニコしながら食べて、帰りに足を滑らせて頭を打ってと説明された方がしっくりくる感じです。
そうしているうちに、会社帰りに一緒の車で来たのだろうか、旦那さんと問題の社長さんが一緒に揃って観察室に入ってきました。
お見舞いって事なんでしょうけども、かたや自分の夫、かたや不倫相手、
「まあ!忙しいところすみませんー〜―!」
なんていう明るい声が観察室から聞こえてきたのだけれど、その日を境にして、なんだか変な現象が観察室で起こるようになってしまったのだった。
「あっ・・しまった」
各ベッドには備え付けの体温計というものが置かれているのですが、熱を測り終えた後に、ケースに入れようとしたらうっかり床に落としてしまった。そんな事は良くあることなんですけれども、
「え・・・」
ベッドの下に転がって行ってしまったはずの体温計が、手元にコロコロと転がってきたわけです。
「え・・・」
いや〜、こういう時って、『え』っていう一文字しか口から飛び出てこないですよ。
「どうかしたのー〜?」
呑気な感じで鶴野さんは声をかけてきてくれたのですが、説明の仕様がないですよ。
落とした体温計が勝手にこちらの方へと戻ってきた?
どうやって?
「いやあ〜なんでもないですよーー」
落とした体温計をアルコール綿で拭きながらケースに戻すけど、体の向きを変えながら床を何度も覗き見る。
違法建築とか地盤沈下とかで、床が斜めにでもなっているのかなぁ。
戻ってきた体温計については、そういう事もあるのかなっていう感じで忘れることにしたのですが、その日は日勤明けからの深夜勤務という事で、十九時に仕事を終えて、夜ご飯を休憩室で食べて、シャワーを浴びて、仮眠室で仮眠をして、そうして深夜十二時に病棟へと戻っていくと、真っ青な顔をした先輩看護師さんが、ナースステーションで私を出迎えてくれたのでした。
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新宿の方に勤めるお友達の看護師さんにも話を聞いたことがあるんですけども、あちらもホテル街なるものが結構あるので、ホテルでの行為中に脳の血管がブチギレて患者さんが運ばれてくるなんてことが良くあるそうで、冬になると行為中に血管が切れた患者さんが救急車で運ばれてくるのは、ホテル街近くの病院あるあるかもしれません。
お相手の女性が恋人なのか、愛人なのか、お金の関係なのか何なのかは分かりませんが、結構放置されることが多い(放置されなかったら死ななかったのに・・麻痺が残らなかったのに・・)ので、お相手を選ぶ際には慎重に。
大概は、一緒に病院まではやって来てくれないですね。
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