第五話 温泉旅行【前編】

「あ! 雪だぁ!」


 馬車の窓から景色を眺めていたアリアが嬉しそうな声を上げた。本格的な降雪にはまだ早い季節だったが、どんよりと曇っていたので小雪が舞うのも不思議ではない。


 一行は出発してから三十分ほど走ったところで、市場の入り口に差しかかった。アルタミール領と違って優弥もあまりハセミ領には来ないし、市井に出たこともほとんどない。だから彼が領主であることを領民が気づかなかったとしても不思議はないのである。


 特に今回は単なる旅行なので、装いも平民と変わらない厚手のコートを纏っていた。そのため馬車から降りるところさえ見られなければ、金持ちにカテゴライズされることすらなかったのである。


「バートランド、俺たちはこのまま昼食がてら市場を散策して進む。馬車を向こう側に回したら休んでくれて構わん」

「かしこまりました。それではお気をつけて」


 優弥の左腕にアリアが巻きつき、右側にエビィリンが寄り添う。ただ、両手が塞がると不測の事態発生時に対応が遅れるため、彼女とは腕を組んだり手を繋いだりはしない。三人の後ろに従うロッティは完全に護衛モードだ。


 なお、当然のことながらこの地の密偵数人がつかず離れずでついてきていることは言うまでもないだろう。


 市場は昼近いこともあり、特に中央広場のすぐに食べられる物を売る屋台が賑わっていた。広場にはフードコートのようにパラソル付きのテーブルと椅子が並べられ、これらの屋台を利用した客は落ち着いて食事を楽しむことが出来る。


「ママの国の港町を思い出すね」

「あれを取り入れたらどうかとバートランドに言っておいたからな」


「そっか。パパが提案したんだ」

「ああ。さて、皆は何が食べたい?」


「焼きトウモロコシ!」

「アリアは焼きトウモロコシか」


 もちろん翻訳された結果であり、この世界での本当の商品名は異なる。だが、見た目はそのまま焼きトウモロコシだった。


「私は串焼きのお肉! あとお魚の塩焼きも!」

「私はお館様と同じ物を頂きます」


「分かった。それじゃ買ってくる。エビィリン、付き合ってくれ」

「アリアも行く-!」


「あははは。だったら皆で一緒に行くか」

「「うん!」」

「はい」


 結局四人で行って正解だった。飲み物も必要だったし、見る物全てが美味そうに見えて、あれやこれやと追加してしまったからだ。見かねた屋台の店主がトレーを貸してくれたほどである。


 ちなみにこういった場での毒味役は不要だった。周囲に潜む密偵たちの中に毒を見破るスキルを持つ者がおり、常に監視しているからだ。


 もっとも今回はほぼ行き当たりばったりの行動なので、さすがに一服盛ろうと企てるのは難しいだろう。


「城の料理はいつも美味いが、こうして皆で外で食べると、また別の味わいがあるな」

「本当に。このように穏やかな一時を過ごせる日が訪れるとは思いませんでした」


「そう言うがロッティ、お前は常に警戒しているじゃないか」

「配下を信用していないわけではありませんが、やはりエビィリン殿下とアリア様がいらっしゃいますので」


「もー、またロッティちゃんは殿下って呼んだぁ!」

「申し訳ありません、エビィリン」

「うん、それでよし!」


「ですがこれでも寛いでおります」

「そうか。半分は引退したんだからゆっくり楽しんでくれ。その、引退が半分ですまんが」


「いえ、私の性分でもありますので」

「アリアちゃん、ほっぺにタレが付いてるよ」


 笑いながらナプキンでアリアの頬を拭うエビィリンだったが、本人の鼻の頭にもタレが付いているのには気づいていないようだ。それを黙って優弥が拭うと、真っ赤になって俯いてしまった。おっちょこちょいな自称お姉ちゃんである。


 その後食事を終えた四人は市場をゆっくりと見て歩き、バートランドが待つ馬車に辿り着く頃には雪も止んでいた。ただ、陽射しがないせいで気温はほとんど上がっていない。


「それでは出発致します」

「ああ、頼む」


 一時間あまり走って一行が到着したのは高級温泉宿オリバルトン。客室はわずか四室で、どの部屋にも内風呂と源泉掛け流しの温泉露天風呂が備わっている。他領の貴族でも特に上級貴族のみが利用可能で、宿泊は完全予約制だった。


 中でも最高級スイートはレイブンクロー大帝国の皇帝トバイアス・レイブンクローをして『僕の居室より素晴らしい』と言わしめたほどだ。もっとも彼の居室がそれほど豪華ではないことを知る者は少ない。


「ま、この部屋は二名で一泊金貨五十枚だからな」


 金貨五十枚は日本円でおよそ五百万円である。一行はそのスイートルームと、二名で一泊金貨三十枚のラグジュアリールームに滞在する。二部屋に分かれたのは優弥と一夜を共にする一人と、それ以外の二人のためだった。


 なお、客室以外に大浴場もあり、そちらには檜(に似た素材で組まれた浴槽)風呂や薬湯、魔法石を使ったジャグジーにサウナまである。魔法石はいずれも皇帝トバイアスから贈られた物で国宝とも言える逸品だった。


 しかし、この宿がレイブンクロー大帝国中でも随一の高級宿とされている所以ゆえんはそれらの施設ではない。本当の理由は海牛かいぎゅうと呼ばれる冷たい海中に棲む牛の魔物料理が出されることだった。


 海牛はマイナス二十度以下の北の海底に生息し、全身が金色の毛に覆われ体長は一メートル前後。足の代わりに水掻きがあるが、その名の通り牛に似た体型のため泳ぐのが遅い。


 ところが極寒の海底にいるため捕獲はほぼ不可能で、それ故に希少性がとんでもなく高いのである。その肉は生で食べても寄生虫による食中毒の心配が皆無で、生涯忘れられないと言われるほど味も格別だった。


 優弥が初めて口にしたのはわりと最近で、魚人族からアルタミール領主邸で日頃のバーベキューの礼として贈られた時だ。以降は定期的に納めてもらえることとなり、それをこのオリバルトンの目玉料理としたのである。


 客の目に入らないところに魚人族が顔を出す囲いがあり、海牛はそこから搬入される。この契約で魚人族は好きな時にバーベキューを楽しめるので、今では海牛を養殖しているとのことだった。


 ちなみにこの海牛のステーキと生肉を追加注文する場合はそれぞれ百グラムで金貨二十枚、日本円でおよそ二百万円である。過去に宿泊した貴族の中には一人でステーキを五枚、五百グラムを追加した者がいたそうだ。


 なお、本来最高級スイートルーム以外に宿泊する場合、夕食に出てくるのは五十グラムのみである。今回は特別に全員に二百グラムずつ用意されていた。


「お、美味しいぃっ!!!!」

「うまっ! うままっ!!」

「お館様、これは本当に忘れられなくなります」


「だろ? 滞在中は好きなだけおかわりしていいぞ」

「パパ、私このお肉だけでお腹いっぱいにしたい!」

「アリアもー!」


「生肉を刺身にしても食えるからな。栄養価も高いし太りにくいのも特徴なんだ」

「いいことばっかじゃん!」


「明日の夜は人魚たちとバーベキューの予定だから、そこでもまた楽しめるぞ」


「えっ!? 人魚さんにも会えるの!?」

「アリア、人魚さん見たことないよ」

「明日会えるからな」


 食事を終えて温泉を堪能した後、その日は四人ともぐっすり眠った。部屋割りは秘密にしておく。



――あとがき――

 世界の高級宿には一泊一千万円超えのところがあるそうです。2022年の最高額は、潜水艦ホテルの一泊一千五百万円だとか。

次話『温泉旅行【後編】』です。

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