身の丈にあった生き方で

アングル

毎日ちょっとずつ苦しさから解放される

 蚊やコバエが死んでいる電灯を、ベッドに転がりながら仰向けにぼんやりと眺める。

電灯のカバーは微妙に欠けている。


 年中点けっぱなしのパソコンからは雨の音が流れてくる。

雨は昔から好きだった気がする。でも、もしかしたらそうでもないかもしれない。

雨を構成する重要な要素としての一部分である、雨音しか愛していないのかもしれない。

この感情の矢印を、「好き」と形容してしまうと、なんだかとても不誠実な気がしてくる。


 パチパチともザーザーとも、聞こえない。分かりやすいオノマトペは、明確ではない。

一般にそういう表現が使われているのを感じる度に、胸がとてもざわざわしてしまう。


 もう少し枝先を伸ばして、過去のことを思い出してみる。

ぼんやりと悪い記憶が蘇ってくる。後悔や無力感。犯してしまった後悔は受け入れることができるけど、土壇場で勇気を出せなかった時の、あのやりきれない思いはまだ肯定できていない。いずれ、また器が大きくなったら、もう少し自由に生きさせてあげられるのかも定かじゃない。


 ふと、傍に見える絵に手を伸ばす。電灯に向かって掲げ、注視せず、ぼんやりと全体像をかすめとるように見る。上手く描けた気がする。

絵は上手い方だったけど、当然上には上がいる。自分のことを、仮にでも上と呼ぶのを恥ずかしいと思う意識も、そんな時に植えられたものだろう。

少しずつでも描き続ければよかった。と今は思う。いつの間にか絵を上に立つための道具としてしかみなせなくなっていたのは何故なんだろう。その思考のパターンに気付いてすらいなかったのも不思議だ。


 十何年間も、周りに誇示したい気持ちと、それをやましい考えだと一蹴する自分がループしていた。今はもう、ただ無心で楽しく描くことに努めている。どんな競争意識を持つことも、私にはふさわしくないような気がする。


 息を少し大げさに吐いて身体を起こす。一人でいる時も人の目を気にしていた自分を排斥するための習慣だ。

図書館から借りて、読みかけで積んでいた本を手に取って、数ページ捲ってまた閉じる。


 昔、中学生の頃、自分は本が好きなんだと思っていて、色々な本を読んだ。内容を理解して覚えているような本は数えるほどもない。

「ダレン・シャン」とか、あとは題名も覚えていないような本の、文章の切れ端を少しずつ少しずつ頭のどこかに蓄えている。

無理に何かをする必要もない。自分自身に、自分自身を課す度に、自分自身を却って見失ってしまうのは、今になってから理解したことだ。

維持しようとする度に疲れてしまうし、律しようとする度により傷ついてしまうから。


 カーテンを開けて部屋に光が射し込む。空は曇っているのに、隙間から少しずつ顔を出す水色が、太陽の光を称えている。

鬱になると青空を見れない、というのは嘘、というか間違っていると個人的には思う。

鬱や精神の病を患っているのかどうか、医者に診てもらってなければ、自分で自分の状態が分かってもいない、そんな人が一番空の色を知らない。

半端にでも逃げることを知っている人は逆に。空の表情をたくさん知っている。


 今のままじゃいけないという意識を常に持ち続けていると、どんどんと悪化していく。気づくことはできるけど、自分の糧として、上手く落とし込む術を知らない人は病んでいく。


 ぼーっとそんなことを考えていたら、授業の始まる時間が近づいてきた。

最低限の身だしなみを整えて、パソコンにパスワードを打ち込む。

受験に失敗した苦肉の策ではあったけど、自分に一番合った選択だと、今になって思う。人間万事塞翁が馬、というやつだろう。

少しずつ許してあげられる時間を増やして、もう悪夢を見ないようになったらいいと切に思う。


 頭の中には、楽しくて、到底許されなかったアイデアがたくさん湧き上がってきていた。照明の明かりは少し暗い。

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