第4話 宇治原の道比等 

 孝之の視線の先にいたのは、以下にも厳かな空気を纏った老人だった。

 髪と程よく伸ばした髭は真っ白に染まっているが、その奥に光る眼光は鋭く、また立ち姿も矍鑠としていて、その姿には老いを感じさせなかった。

 黒の束帯に身を包み、手には使い込まれた黒漆塗りの扇を握り締めている。

我が物顔で紫宸殿を歩くその老人は、今上帝の御簾の傍までやってくると、その前に陣取る孝之を見下ろした。


 宇治原うじわら道比等みちひと

 近年、すっかりと政治権力としての勢いを失った皇室に代わり、摂政としてこの葦和あしなわの国の政治を取りまとめる男である。

 本来であれば、孝之にはその顔を知る由もないほどに身分に隔たりがあるが、偶然と言うべきか、幸運というべきか、孝之と道比等は数か月前に一度だけ顔を見知っていた。

 それ故に、孝之もこの老人を相手に流石に下手なことは言えぬと思い、素直に両手の拳を床に着けて頭を下げた。


従八位じゅはちい兵衛ひょうえ大志だいし早瀬はやせうじたちばな孝之たかゆきにございます。検非違使けびいしの任を受けておりましたが、この度、摂政、宇治原の道比等様の命により、内裏だいりに参上仕りました」


 すると、途端に周囲の殿上人たちが再び嘲りの笑いを上げ、それを制するように道比等は鋭い眼光を周囲に飛ばし、黙れと一喝した。

 途端に今まで孝之を笑っていた殿上人は黙り込み、やがてゆるゆると息を吐くように道比等は口を開いた。


「すまなんだな、孝之殿。しかし、紫宸殿はいわゆる官吏の庁舎とは事情が違う。目上の者から話を切り出されるまでは、口を開くのは憚れるものだ。そのようなことをすれば悪目立ちがするぞ?」


「失礼仕りました。元より育ちが悪く、内裏の礼儀作法を知らぬ身の上でありますれば、ご無礼ご容赦いただきたく」


「よいよい。さらば本題に入ろう。長々とした枕詞は性に合わぬでな。橘の孝之殿。貴殿を滝面の武士として任命する。これより、皇籍にあられる方々をお守りし、内裏と京の平和と安寧を保つように努めるよう」


 その言葉を聞くなり、孝之は下げていた頭を上げると、こちらを見下ろしてくる道比等の視線を睨み返すようにその顔を見据えた。


「その任をお引き受けする前に、一つ摂政殿にお聞きしたいことがございます」


「質問を許す。申してみよ」


「何故に私が滝面の武士に任じられることになったのでございましょうか?」


 すると、孝之の質問を聞いた道比等は眉をわずかに動かして孝之を睨み下ろした。


「不服か?」


「いえ。不服と言うことはございませぬが、流石に、それも知らずにお引き受けしては、身に余る幸運に気が緩み、とんだご無礼を主上や皇籍の方々に働いてしまわれるかもしれませぬ。できれば、私の様な木っ端貴族が主上の玉体をお守りする任に就かれる理由をお教えしてもらいたく存じます」


 孝之がそう言うと、道比等はふむ。と、言いながら、手にした扇をぱちりと広げて口元を隠した。


「……三月ほど前、主上が御吉山みよしやまに咲かれた紫陽花を鑑賞されるために行幸に出られたのを覚えているか?」


 それは、孝之が道比等の顔を見ることになった事件であった。

 御吉山は景勝地として名高い名山である。

 何よりも最大の特徴は、御吉山にある鎮峯ちんぽうじに勤める僧侶によって植えられた、合計二万五千本の草花が咲き誇る美しい景色である。


一万本の桜と、七千本の紅葉と、五千株の紫陽花と、三千株の朝顔が植えられると言われる山道や寺の境内は、四季折々の彩が山を染めることで知られている。

 春には桜色に、梅雨には青紫に、夏には青に、そして秋には赤く色づくその山の風景から、別名を四色山と呼ばれるほどである。


 その一方で、修験道の開祖たる役小角えんのおづのが開いた修験者の総本山としても知られ、空海大師くうかいだいしが開いた太野山たいやさんと並ぶ霊山でもある。

 当然ながら、霊験あらたかな修験者や高僧が数多在籍していることでも知られ、時には国政に関わることもあるという。


 そんな御吉山に、今上帝が紫陽花の鑑賞の為に訪れたのが、三か月ほど前のことであった

 それはあるいは、言葉通りの意味にも受け取れるが、その実、言葉の裏には別の意味が込められているように見える。

 実際、警備の為に駆り出された孝之も、今上帝の行幸には別の目的があると聞かされていた。


「ええ。ですが確かあれは、紫陽花鑑賞とは名目で、あの時は太后陛下のお加減が悪く、主上はその平癒祈願に出向かれたと記憶しておりますが」


 孝之の返答に、うむ。と、道比等は一つ頷くと、広げた扇をぱちりと閉ざした。


「その折に、貴殿が主上に襲い掛かった犬神の首を切り落としたことがあろう?あの時の姿を主上は覚えておられていた。そのことが貴殿を取り立てることになったきっかけだ」


 その言葉に、一瞬周囲にいる殿上人の群れがざわついた。

 確かに、孝之は検非違使と言う下っ端も下っ端の一員として、今上帝の警護をこなしていたが、幾つかの偶然の末に今上帝を襲う犬神を切り捨てた。

 あの後、犬神を追いかけ回した挙句に、今上帝の前に化け物を追い立てるとは何事かと、上司にどやされることになったのは苦い記憶である。

 そんな過去のことを脳裏に思い起こしながらも、同時に内心ではますます首をかしげた。


 何故ならば、孝之が切り捨てた野良犬は、孝之には殺せなかったからだ。


「ええ。ですが恐れながら、あの化生の者は首を切り落としだけでは結局は死なず、残った首だけで主上に襲い掛かったはず。その首を祓ったのはその場にいた陰陽師や高僧の方々であったと思いますが?」


 つまりはそう言う事である。

 孝之が出くわした犬神とは、そう言う化け物であり、どうあがいても単に剣を振り回すしか能のない孝之には殺しようがなかったのだ。

 それどころか、そんな化け物を追いかけ回した末に、今上帝のいる場所まで追い立ててしまい、あまつさえ襲い掛からせてしまった。


 本来であれば、上司にどやされるだけで済むはずがない。

 貴族の位を剝奪され、都から追放されるだけでも罰としては軽い方だ。

 であればこそ、猶更に滝面の武士に任じられる理由が分からない。

 そう、孝之が内心でますます首をひねった時だ。


「ここだけの話にしてもらいたいが、あの時主上が御吉山に向かわれたのは、太后陛下の平癒祈願を行う為ではない。勿論、紫陽花鑑賞と言うのも建前だ。もっとも、全てが全て嘘というわけではないがな」


 不意に、道比等が孝之の心を先読みしたように、そう言った。

 同時に、周囲の殿上人のざわめきが一層大きくなった。

 本来、今上帝の意向や隠された目標が公にされることは、ほぼない。

 よほどの何かが起こらぬ限り、あるいは何か大きな国の方針が定まらない限り、今上帝の意向を明かすことは様々な不利益になると考えられているからだ。


 それが今回、高々一人の武官の進退を決めるだけだというのに今上帝の意向を明かすという。

 明らかに、異常事態である。

 何かとんでもないことが明かされるのであろうと、孝之のみならず、その場にいた道比等以外の全員が固唾をのんだ。











後書き

 一部設定を変更しました。

 本来、犬神は野良犬が変化して人に襲い掛かる化け物でしたが、犬神の設定そのものを変更しました。変更内容そのものは、後々のストーリーで詳細を解説します。


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