世界一つまらない小説を書いてる人が感じたこと

佐竹健

第1話 求めすぎの行き着く先は地獄

 みんな、あれもこれも求めすぎだ。そう思うことがある。


 特に人に関してのそれは酷く、生まれたときからそれは始まる。


 まだ歩けなければ、


「早く歩けるようになれ」


 まだ話せなければ、


「早く話せるようになれ」


 と言われる。


 学校へ入れば、


「もっといい成績を取れ」


「いい高校や大学へ行け」


 とばかり言われる。


 あまりにハードだ。その道を歩んでいく過程で、世の諸人が望む正道から脱落してしまう人間が出てしまう。この過酷さからして、当然の理だろう。


『沙石集』という鎌倉時代の説話集に、こんな話があったことを思い出した。


 昔、年ごろになった娘を持ったネズミの夫婦があった。


 ネズミの親は、


「どうせ婿を取るなら、天下に並ぶはずもないヤツにしよう」


 と思い立ち、太陽や雲、風と縁談をすることになる。


 だが、太陽や雲、風は自分の弱点を理由に、ねずみの娘の婿になろうとするのを拒否してしまう。


 ネズミ一家は、風に勧められた筑地婿になってもらおうと考える。だが、ここでも、


「我々壁は風を防ぐことはできますが、ネズミに食われたらどうしようもないですよ。だから、婿はネズミにした方がいいんじゃないですかね」


 と言われた。


 このことを承けて、ネズミ一家は、


(もしかしたら、ネズミって結構強いんじゃないか?)


 と思い立って、最終的には同類のネズミを婿に入れた。


 非力なネズミが「最強の婿を取ろう」と思い立って、強力な自然や人工物に縁談を申し込む。けれども、短所を理由に断られてしまい最終的には同類のネズミを婿に取る。


 この構図から、話ができた当時は、


「分不相応な家柄と縁談をしても、必ずどこかで無理が出ますよ。だから、相手は釣り合う相手としましょうね」


 ということを伝えたかったのだろう。


 シンデレラのように、いい家のお姫様になれた。だが、生まれた子供はよほどのことがなければ跡取りになれない。中古から近世初期までの社会では、母親の実家の資力でその子の将来が決まっていた。源頼朝や織田信長が三男でも家を継げたのはそのためだ。


 身分制度が無くなった現代社会においては、


「人には人の器がある」


 と解釈した方がいいだろう。


 人間には、できることとできないことがある。どんなに完ぺきな人間であっても、できないことや苦手なことがある。反対に、何もできない人間だって、何かしら優れているところがあるものだ。


 人はそれを見ずに、その器でない人間にできないことをやらせたり、反対に祀り上げたりしている。


 できないこと、苦手なことをやり続けるのは、精神衛生上良くない。続けていると、怒られて精神をすり減らして自信や自己肯定感を喪失し、いずれは心を病んでしまう。


 器に入る量を超過するようなことをやると、必ずどこかで溢れておさまらなくなる。だから、自分や人の能力を無視してあれもこれも求めてはいけない。時間がかかるかもしれないが、少しづつぐらいで進めよう。相手が、もっとやりたいなら少し増やす。それぐらいが調度いい。ただし、無理はしないように。




 求めすぎた先にあるのは、極楽ではなく地獄。そう私は感じている。


 太古の昔、人類は天へと届くほどの塔を建てた。『旧約聖書』に出てくるバベルの塔だ。


(たかが人間ごときが天に届く塔を作るとは傲慢だ。処さねば)


 そう思った神は、人類を滅ぼすことを決めた。大雨を降らせて大洪水を起こし、地上に生きる生き物を滅ぼしたのだ。信心深いノアとその一家、そしてノアが作った箱舟に乗った生き物のつがいを除いて。


 思い上がった人間に憤った神が、洪水でノアの一家と助けられた動物のつがいたち以外を滅ぼす。これは、ユダヤ教やキリスト教の神が、厳格さと懐の深さを併せ持っていること表現したエピソードだろう。同時に人間という生き物の愚かさも表している。


 また、「どこかを目指したけれど罰を受ける羽目になった」という要素は、中国の桂男の話にも通している。


「どんなに求めようとしても手に入らないものもある」


 これが私の解釈だ。


 求めても手に入らないものは、この世にはたくさんある。そしてそれは、人によって違う。Aという人は愛情、Bという人は金、Cという人は地位が欲しいといった具合に。


 人によって、欲しいものはどこかで手にする。だが、手に入らなかった場合は、欲しいものを手に入れるためだけに死ぬまで苦しみ続けることになる。望むものが神聖なもの、尊いものであればあるほど、苦しみは大きく長くなってゆく。


 望めば望むほど、求めれば求めるほど、目的から遠ざかっていき、欲しいものが手に入らなくなる。そうして、その中でずっと苦しみ続ける。これが、求めすぎの代償であり罰なのではなかろうか。


「求めすぎている」


 ということに本人が気づくまで、ずっとこの地獄が続くからだ。死ぬときまで求め続けるのであれば、それは無間地獄と変わらない。


 自分や他人に求めすぎている人は、一度自分を見つめ直すといい。目を閉じて深呼吸し、子どものころから今に至るまでを振り返ってみよう。そうすれば、見失っていた自分の本当の目的や欲しいモノに気づくはずだ。わからなかったら、第三者に聞くしかない。


 何かを求める心があるからこそ成長や発展があるので、求めることは否定しない。けれども、何かを求めれば求めるほど、それと同じくらい苦しみも大きくなる。そして、それが重い足枷となって自分や他人を苦しめてゆく。


 求めすぎて、自分や他人を傷つける前に立ち止まって考える。これが、煩悩にまみれた俗世を生き抜く一番の秘訣なのかもしれない。

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