靴箱のなかの生活
へーるしゃむ
0-0 空の遠さについて
去年の俺の誕生日に、妹の純佳はへんなキーホルダーをプレゼントしてくれた。
植物のような怪物のような、その両方であるかのようなそのキーホルダーは、まさしくその両方であるものをモチーフにしているらしい。
「マンドラゴラですよ」
と、純佳は自信満々に胸を張った。そう言ったらすべてが伝わるはずだとでも言いたげな表情だった。ひとまずは贈り物をいただいたわけなので、
「ええと、ありがとう」
と感謝を述べる。
「かわいいので躊躇なく使ってください」
「はあ」
「兄はこういうのが好きかと思って」
「なるほど」
マンドラゴラが好きそうな兄なんて俺だったら嫌だが、純佳には思うところがなさそうなので気にしないことにした。
しかし、かわいいのはたしかにかわいい。
どうやらマンドラゴラといっても、なにかのゲームに登場するモンスターをかたどったもののようで、見た目は愛らしくマスコット的ですらある。
というか、マスコット的だからこそこういうグッズになるんだろうけど。
しかしなぜマンドラゴラなのか。
満足そうな顔つきの純佳にはどうしても問いを重ねる気にはなれなかった。
◇
そのキーホルダーを、俺は通学用の鞄につけた。
それに気づいたましろ先輩が、「マンドラゴラだね」と感心するようにしげしげと眺めてきたのも、もう去年のこと。
「妹からもらったんです」
というと、少し面食らったような顔をしたあと、彼女は「ふむ」と思案げな息を漏らしたのだった。
「そういうわけであるならば」
と、彼女はごそごそと自分の鞄をあさりはじめ、なにかを取り出して俺に見せた。
指先につままれていたのは、鍵だった。
「それは?」
「鍵です」
「はあ」
ましろ先輩は俺の目をまっすぐに真剣に見つめた。俺もなぜだか逸らさなかった。
彼女の大きくてまんまるな目には、なにか不思議なものが宿っている。そう思う。
ある意味で支配的な、暴力的な、そういうなにか逆らえない感じ。
魔力と言ってもいいかもしれない。
いたずらっぽくて、素直で、でもなにか見透かしきれないような、謎めいた瞳。
どうにも、そういうものには吸い寄せられる、のが人の性なのかもしれない。
謎めいたもの、隠されたもの、隠されているのに、完全には隠れきっていないもの。
ほんのすこしだけ覗くもの。つまり、ほのめかされたもの。
ましろ先輩の瞳と言葉には、そういうものが含まれていた。
「その鍵は?」
と、問うことすらもしばし忘れていたのは、その目を真っ向から見てしまったからかもしれない。
「マンドラゴラを持ってるならば、これはきみにあげるべきだね」
やはり、意味がわからない。首を傾げた俺の手を勝手につかんで、彼女はその鍵を握らせた。
「いつか役立つ日も来るでしょう」
そう言ったあと、彼女は手元の本に視線を落とした。これ以上の説明はないらしい。
それから特に役立つ日も来ず、というか、どこの鍵なのかすらわからないまま、やがてましろ先輩は卒業した。
◇
マンドラゴラは実在の植物で、毒草であり、また薬草でもある。
人間の手足にも見えるという特有の育ち方をするその根は、古くは鎮痛剤や麻酔として使われたこともあるというが、幻覚や幻聴などの麻薬効果のほかに強い毒性を持ち、場合によっては死に至るため、いつしか薬用としてはもちいられなくなったという。
マンドラゴラは、その形状ゆえか、毒性ゆえか、はたまた語るものが幻覚に侵されていたのか、多くの神秘的な伝承と伝説が残される植物でもある。
魔法薬、錬金術などの神秘的な薬品の材料。あるいは、手足のような根を使って歩き回る小人のような怪物。
そのような伝承の多くは、精液、経血、悲鳴、絞首刑のいずれかに関わっている。
◇
ましろ先輩から受け取った鍵が、文芸部の部室のある東校舎の屋上のものだとわかったのは、彼女が卒業した翌月のことだった。
その日俺はなんとなく屋上の扉の前に立ち、なんとなく鍵がかかっていることを知り、なんとなくその鍵を差し込んで回してみた。かちゃっと音が鳴ったとき、俺の心臓は変に跳ねた。
その日以来、東校舎の屋上は俺にとっての憩いの場になっている。
今日のようなよく晴れた日の放課後に鞄を枕にして昼寝をするのは最高で、今となっては部室に顔を出す時間よりも屋上でサボっている時間の方が長い。
この五月の日差しのもと、風は冗談のように穏やかで、いつまでだって眠っていられる。ここではすべての音が遠い。余計な情報はなにもない。
校舎裏の雑木林のざわめきも、運動部の掛け声も、吹奏楽部の練習の音も、適切な距離がとれて心地いい。
視界を覆うのは太陽の光に透けた瞼の薄橙だけで、余計なものはなにもない。
こんな時間が幸福で、どうしていけないんだろう?
部活に顔を出さないでいると、
「やる気がない!」
と、今年の春から文芸部の部長になった瀬尾青葉には怒鳴られる。実際やる気なんて、ないものはない。
申し訳なくも思うが、何かに燃やす情熱があれば、別人のような人生を送れたことだろう。あんまり変な期待を持たれても困る。
さいわい瀬尾には今のところ、俺が屋上の鍵を持っていることは知られていない。
そういうわけで、俺はひとりの時間を謳歌できる、と思っていたのだが、
「またここにいたんですね」
侵入者がひとりだけいる。
声だけ聞いて、また来たか、と思う。
瞼を開き、体を起こす。
立っているのは小柄な少女だ。
一個下、なのだけれど、それだけの差とはとても思えない、中学生くらいか、場合によっては小学生くらいに見えそうな女の子。
大人しそうな顔つき、穏やかでどこか甘ったるい声音。その小さい体と、不釣り合いなほどの落ち着き……は、表面上のものでしかないことを、今の俺は知っている。
「何の用?」
と尋ねると、ふう、とひとつ呆れたみたいにため息をつく。
「サボり魔な先輩に一応、声がけに来ました。もうすぐ部誌の原稿の締切ですよ」
「参加しないって」
もう、と彼女はわざとらしくむっとする。
「青葉さんも大野先輩も困ってますよ。ただでさえ部員少ないんですから、隼さんが参加しないと」
後ろ手に扉を閉めて、宮崎ちせはとたとたと俺の近くへやってくる。
この春入学したばかり、今月正式に文芸部に入部したばかりだというのに、変な懐かれ方をしたらしく、やたらと距離が近い。
口でこそ文句を言うちせだが、どうやらそこまで熱心に部活に出ろと言いたいわけではないらしい。その証拠に、放っておくと勝手に俺の隣にやってきて並んで座り始める。
「部活に出なくていいのか?」
「もうちょっとしたら行きます」
俺が屋上でサボっていることを、ちせは他の部員たちに伝えていない。
案外こいつも部活なんてどうでもいいと思っているのかもしれない。あるいはひなたぼっこが好きなのかもしれない。
「いい天気ですねえ」
などと言ったかと思うと、ぽーっとした顔で眠たげに長いまばたきをしはじめる。
「そうだねえ」
と返事をすると、もう声がかえってこない。
ぽーっと陽気にあてられて、目をほそめて猫のように心地よさそうにしている小柄な後輩。
名を、宮崎ちせという。「小さい」というのが第一印象で、思ったとおりに「小さい」と言ってしまうと少し拗ねる。
「ええ、まあ仰るとおりですし言われ慣れてもおりますが」という顔で。
そのちせが、どうして俺が屋上にいることに気付けたのか、それはいまいちわからない。
彼女の姉は文芸部の先代部長で今年の春にこの学校を卒業した宮崎ましろで、そのつながりで鍵のことを聞いたのかと思いもしたが、どうやらそうでもないらしい。
この姉妹に関しては、難しいことを考えるのは諦めることにしている。なんだかわからんがそういうものなのだ、と受け入れるのがいちばん早い。そのくらい、姉妹そろって奇妙に勘の鋭いところがある。
「聞いたことがなかったんですけど」
と、ちせは不意に声をあげた。見れば、まだ眠たげな顔のままだ。
「隼さんはどうして文芸部に入ったんですか?」
どうして、と問われると少し答えに迷う。
「なんでそんなこと……」
「だって、わたしが入部してからずっと、隼さんほとんどサボってばっかりですし、でも、姉さんに聞いたら去年まではそんなことなかったっていうし、なんでかなって」
サボりたかったから、という言い訳は封じられてしまった。俺は変に痛む肩を軽く回してから答え方を考えた。
「野球をしたいやつが野球部に入る。サッカーをしたいやつがサッカー部に入る」
「はあ」
「文芸をしたいやつが文芸に入る」
「文芸ってなんです?」
「さあ? ちなみにちせはなんで文芸部に入ったの?」
ちせはちょっとだけむっとした困り顔になる。
「……姉さんに入れと言われました」
「ちせは逆らえないのか」
「いろんな、むずかしい事情がありますね」
彼女はなんだか遠い目をした。あのましろ先輩を姉に持つというのも、なかなか難儀そうなことではある。
そう、いろんな、むずかしい事情がある。それに比べれば、俺が文芸部に入った理由なんて簡単なものだ。
文芸部を見学しようと思ったのは、文章を、ちゃんとした文章を書くというのがどういうことなのかを知りたかったからだ。
文章、テクスト。意味のわからないものだ。そこにあるのは語と字の並びで、並べ方は無限に思える有限で、それがどうして意味を伝えるのか、俺にはよくわからない。「夜は暗い」と誰が書いても、その意味は同じように伝わる。猿が書いても蟻が並んでも同じように意味は伝わる。言葉を知らない赤ん坊や異国人が適当に描いた模様からでも、俺たちはそう読める文章からそのように意味を受け取る。
けれどそれはおそろしいことではないか。
どうして景色や音楽や色彩を言葉にすることができるのか?
どうして文字の並びや音から感情を受け取れるのか? あるいは、受け取ったとたしかに思えるのか?
これは狂気の沙汰じゃないか。
文字と模様のその違い、声と音とのその違いを見失ってしまえば、俺の景色からは意味だけではなく、他者までもが姿を消してしまうかもしれない。にも関わらず俺たちは、本質的にそのふたつを区別できていない。
だから「なにか」を聞き違える、見間違える。
なるほど日常的にはその錯覚はいずれ正される。見間違えはいずれ正される。
蛇だと思った。驚いて飛び跳ねた。実は縄だった。
叫びだと思った。耳を澄ませた。風の音だった。
ノックの音かと思った。違った。雨垂れだった。
世界は整然としている。
けれど、では、蛇だと思ったその瞬間に立ち現れた像はなんなのか?
風の音だと気付くまでにたしかに叫びのように聞こえたその音と本当の叫びとの違いはどこにあるのか?
それでは……すべてが錯覚でない保証などいったいどこにあるのか?
そのようにして意味は皮膜を挟んで遠のき、俺の見ている景色は俺の脳のなかへと小さくなって後退していく。そこでは誰も何も語ろうとはせず、何も伝えようとはしない。そもそもそこに「誰か」なんていない。
この見えている青空は、このあたたかさは何なのか。
そこに外部はない。受け取れる意味は、占いのように曖昧で頼りない。
だから俺は正しい文章の書き方が知りたい。
どうしたら「誰か」に何かを伝えられるのかを、知りたい。
ほんとうの青空を見たい。
そんなことを話してどうなるだろう?
ちせはしばらくぼーっとして、ゆらゆらと船を漕ぎ始めて、頭が二度俺の肩にぶつかったあと立ち上がって、部室に行くと言って屋上を後にした。
◇
「文芸の芸っていう字は、そもそもこの字じゃなくってね」
と、ましろ先輩は去年の春、俺に教えてくれた。
ホワイトボードに「芸」の字を書き、となりに「藝」と、そう書いた。
「旧字ってやつですか」
うん、まあね、とましろ先輩は曖昧にうなずく。
「面倒くさい経緯は省いて結果だけ教えるね。こっちの芸は……」
と彼女は芸を指し、
「草刈りのことだね」
「はあ。草刈り」
「で、こっちは」
と藝を指し、
「苗を植えること、種を蒔くこと」
「はあ」
「うん」
「え、意味真逆じゃないですか?」
「うん。実はこっちの『芸』はゲイとは読まなくて、ほんとはウンって読んでたんだって。わたしたちが思う意味での『藝』って意味は、ほんとは含まれてないの」
「……はあ。なんで?」
「面倒くさい経緯は省いて結果だけの話だから、自分で調べてね」
ましろ先輩はけっこう面倒くさがりだ。
「まあこういうわけだから、昔ながらの文芸雑誌とかは『文藝』って字を使ってたりするわけなの」
「へえ。知りませんでした」
「そういうわけでね、どっちが本質かって話」
「本質?」
「きみの質問の答えだよ」とましろ先輩はそのとき言った。
「ブンゲイってのがなんなのか、って話」
◇
結局文芸部には顔を出さず、そのまま日が暮れるまで屋上で時間を潰し、帰路につく。五月の日暮れは静かに街を覆っていく。橙色の街は影を濃く伸ばしていく。
すれ違う人々、車の通る音、横断歩道を渡る人影、すべての影と陰が色濃く景色の中で浮かび上がってみえる
歩きながら、思い出すのはいくつものこと。
幼馴染たちのこと、中学のときのこと、文芸部のこと、屋上の鍵のこと、俺自身の生活のこと……。
◇
家に帰るとリビングのソファで純佳が居眠りしていた。俺は部屋に戻り、鞄を置き、着替えをする。
そして思う。もう思い出すな、といつものように唱える。それでいくらかほっとしても、この体の重さはなにも取れやしない。
もう忘れろ、終わったことだ。そう何度頭の中で唱えたって変わりはしない。俺が間違えたことも、なにもできなかったことも、帳消しになんかなりやしない。
ずっとずっと囚われたままだ。俺は彼女のために、もうなにひとつできやしない。
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