第34話

「大丈夫? どこか怪我でもした?」

 慌てて訊く僕。

 桜花の目は細められ、ポロリと目じりから涙がこぼれる。

「……あはは、せ、背中から恐竜が……」

 緊張を破ったのは、抑えきれなくなった嗚咽おえつ、ではなくて吹き出すような笑い声。

 指さす僕の右肩を見れば、背負った首長竜がひょっこり顔を出している。これのことか。

「……はい、忘れ物」

 左手に持ったままだったちび恐竜のぬいぐるみを渡しておく。

「こいつが桜花のことを見つけてくれたんだ。心配してるんだよ、たぶん」

「え、あれ? 落としちゃってた?」

「向こうに置いてあった」

「そっか……、ごめん。えっと優枝は?」

「たぶん別の場所を探してると思う。僕もこいつがいなかったら通り過ぎてたし」

 誰かが目立つところに置いてくれたのは優枝が通った後だったのだろう。

 電話をかけ直してみるけど、やっぱりつながらない。とりあえず合流報告のメッセージだけ入れておくことにした。

「行こうか」

「優枝の居場所、わかるの?」

「なんとなくね」

 恐らく彼女はある程度進んで桜花が見つからなければ、当初の目的地へと向かうだろう。彼女も僕がそう動くことに思い至っているはず。仮に途中でメッセージを受信できればそれでもいい。

「でも……、これ」

 進もうとした僕に、申し訳なさそうに桜花が見せたのは足元。

 下駄の鼻緒がとれてぷらぷらしている。

「人に押されたときにぶちっていっちゃって……。なんとかここまで歩いてきたんだけど」

 それで経路を外れた場所にいたのか。こんなときにあの二人に会ったのは災難という他なさそうだ。

「ごめん、気が付かなかった。ちょっと見せてもらっていい?」

 しゃがみこんで詳しく確認すると、左足の親指付け根部分が切れてしまったようだった。何か丈夫な紐があれば応急処置はできるかもしれない。

 二人で持ち物を確認したけれど、ちょうどいい素材は見つけられなかった。さすがにぬいぐるみや巾着を解体するのは忍びない。道具もないし。

 仕方がないか。僕は背負っていたぬいぐるみとカバンを前に持ち直すと、また、桜花の前で膝を曲げた。

「はい、どうぞ」

 ぽかんとした顔でこちらを見下ろす桜花。下から彼女の顔を見る機会は少ないな、となんとなく思った。

「どうぞ、って……」

「しばらく僕が背負うよ。桜花は軽そうだし、これでも鍛えてるから大丈夫」

 最近は重い物を運ぶ仕事も多かったし。

「でも……」

「どうせなら、いい場所で花火みたいでしょ。優枝を一人にしておくのも可哀想だし」

「……うん」

 優枝を引き合いに出したのが良かったのかもしれない。おそるおそる僕の背中に手をかける桜花。

「……よっと」

 想像通り軽い。お互いの持ち物で多少ごちゃごちゃしているけれど、これならなんとか歩けるだろう。

「たぶんさ、こっちの道からも行けると思うんだよね」

 元来た方向ではなく、あえて奥へと向かう道を進む。

 まったくの勘というわけではなく、昔見た記憶。僕と優枝は小さいころに何度も迷子になっている。花火大会だって例外ではなくて、この周辺を歩き回った覚えがある。たぶん、背の低い僕らが大人の多い通りを避けて移動するための工夫だったんだろう。結果的にこちらを探す親たちを攪乱することになって随分と叱られた。

 ここから坂を登れば、多少遠回りだけれど当初向かっていた場所の近くにでるはず。暗くなってきたから足元には注意しないといけないな。そう考えながら地面を注視して一歩一歩進む。

「……ねぇ」

「なぁに?」

「さっきの話、聞いてたよね」

 桜花の元同級生らしき二人との会話についてだろう。

「どうかな。最後の方はちょっと聞こえてたと思うけど」

「どの部分?」

「……お姉さんのことを引き合いに出してたところかな。正直、ちょっとイラっとした」

「……本当に最後の最後だね」

「そう言ったじゃん」

「うん。じゃあさ、うちの姉がモテてたって話は聞いたってことだよね」

 実際には、もう少し感じの悪い言い方だったように思う。取り合うとか何とか。

「前にも話したけど、お姉ちゃんもさベースやってたのね。私よりずっと上手くて、私より友達もずっと多い人なの。それでうちの高校の卒業生」

 へぇ、先輩だったのか。

「人に好かれる人だから、三年のときにクラスを代表して志学祭でバンド演奏することになった」

 うん。

「けど、直前でギターとボーカルの人が喧嘩して立ち消えになっちゃって、その原因がお姉ちゃんだって噂になって」

 ……うん。

「本人はこの話、全然してくれないから本当はどうなのかはわからない。訊こうとも思わないし。ただね、お姉ちゃんがすごく頑張ってたのは知ってる。毎日、頭を掻きながらノートとにらめっこして歌を作ってた……」

 しばらく沈黙があった。

「それがね、こないだ話した歌」

「そっか」

「……怒らないの?」

 唐突に言われた。

「なんで?」

「私のわがままのために、縁起が悪い歌を演奏しようとしてるから」

 バンドというものがなくなるとしたらそのほとんどは人間関係が原因だ。そして色恋沙汰はもっとも忌避する要素の一つだろう。

「そんなこと」

 本当はまったくないとは言えない。僕にも優枝にも下心がある今のバンドは危ういものだと、ずっと思っているから。ただ、まぁとっくに覚悟だけはできていた。

「どうせ発表する曲はみんな一、二曲は推薦する必要があるんだからさ。そこでどんな曲を入れようと桜花の自由だよ。オリジナル曲ができるなら僕らとしてはありがたいくらい。きっと優枝もそう言う」

「……そんなものかな」

「桜花はさ、お姉さんのこと、嫌い?」

「なんでそんなことを訊くの?」

「大切な話だから」

「嫌いじゃない。ずっと憧れだった。羨ましくてズルいと思ったことは何回もあるけど」

 素直な感想なのだろう。兄貴がいる僕にも多少は共感できる言い分だった。

「じゃあさ、お姉さんはあの歌のこと、今でも未練があると思う?」

「……わからない。卒業のときに、譜面とデータをくれて「好きにしていい」って言われた。だからもう本当はどうでもいいのかも。たぶん、そう」

「そっか。なら、さ。桜花は自分で自分のために志学祭に出たらいい。そこで自分の好きな曲をやる。それだけだよ。優枝と同じ」

「優枝と?」

「あの子はいつも自分のやりたいことに素直だから、学祭が目標っていうならそうなんだよ」

 君のために、とは言わなかった。彼女に必要なのは責任や重しじゃない。

 本心を言うなら、桜花のお姉さんは長い間、ずっと自分の曲と向き合えなかったのだと思う。今でも『どうでもよくない』可能性はある。そうでないなら、誰にもデータなんて渡さずにすっぱり破棄するか、自分なりに完成させていたはずだから。けど、言わない。

「私も、優枝と…………」

 長い沈黙があった。

「……みんなでいっしょに演りたい」

「うん。なら、良かった」

 僕たちのバンドはそれぞれみんな別の方角を向いている。いつ崩れたっておかしくない危うい関係だ。それでも、お互いはそれなりに尊重しているし、演奏をしたいという気持ちは共通している。

 だから、この二つさえ変わらないなら、『自分の目標のため』の活動を一つにまとめ上げることができるはずだ。

「……映はさ、なんでいっしょにバンドをしてるの?」

「…………」

 即答はできなかった。

「……優枝のため?」

 正解。ただし部分点。あくまできっかけがそうだったというだけ。

「ゴールデンウィークのとき」

「え?」

「あのとき、僕だけステージに立てなかったでしょ」

「あ……、うん」

「別にたいして技術があるわけでもないし、人前で目立ちたかったわけでもないんだけど、それでも、悔しかったんだ。そこに居場所がないのが」

「居場所?」

「そう、居場所。始めたのはちょっと面白そう、とか優枝に誘われたからであってる。けど、僕の始まりはここ」

 あの日、あの時、あの場所だ。

「二人の背中を支えたかった。僕がいるバンドにしたかった。七月のライブではそれを証明するつもりだったんだ……」

 失敗したけど。思い出すと苦い味がする気がする。まだ消化しきれていない後悔。

「…………」

「今でも、そうしたいと思っている。ヤスさんに相談したのも、バイトを始めたのも、志学祭にでるのも。全部同じ。二人の間に、僕の居場所が欲しいからやってることだよ」

「…………」

 さっきから、桜花は相槌も打ってくれない。背中にある熱と重さは彼女の存在を痛いほど感じさせるのに、顔も見えないし、どう感じたのか推し量る材料がない。

 ……気まずい。

 僕はこれまでいくつか、桜花の秘密を思わずして知って来た。

 だからこれくらいのことは共有するべきなんじゃないかって、半場義務感に駆られて答えてしまったところはあるかもしれない。

 けれど、全然受手のことを考えていなかった。君たちといっしょにいたいから、バンドをしているという言葉は、もしかしたらすごく気持ちの悪いものなんじゃないか。気にしてしまえばそうとしか思えなくなってくる。

「あの、さ! ごめん、ちょっと唐突だった。あまり深く考えないで――」

「――映」

 耐えられなくなって出た言い訳は静かな言葉で遮られた。

「私、あの歌を完成させるから。だから、ろう。学祭のステージで、三人で」

「あ……、うん」

 もしかしたら、桜花は僕の言いたかったことをちょっとだけでも受け入れてくれたのかもしれない。少なくとも、聞かなかったことにする程度には気を遣ってくれている。大人の対応だな……。

 しばらくの間、他愛のない話を続けた。バンドのことだったり、バイトのことだったり、いつの間にか残りが随分と減ってしまった夏休みの予定のことだったり。それが終われば、学祭までの時間は長くないことだったり……。

 やがてそんな話もとぎれとぎれになって、辺り一帯はいつの間にか真っ暗になっていた。僕たちの向かう目的地は、会場から少し離れた小山の上。昔、優枝や家族と訪れて花火を見た場所。

 坂の上だから足元は危ないけれど、人が少なくて良く見える隠れスポット。

 最後の道をゆっくりあがると、

「映ちゃん! 桜花!」

 と、こちらを呼ぶ声がした。あまり光もない中で僕たちに気が付くなんて、優枝は目がいいなぁ。あ、あれか、お腹にぶら下げた恐竜のシルエットのお陰か。

 つくづく今回、君たちは仕事をしてくれた。ありがとう。

 優枝が手を上げてぶんぶん振ってくる。

 その向こう側が突然宝石箱のような光を放った。

 遅れて、お腹に響く重低音。大会の始まりを告げる大玉。

 僕は、色鮮やかに横から照らされる優枝の顔から目が離せない。

 優枝も、こちらに目が釘付けだ。

 でもたぶん、その視界の真ん中には僕ではなくて桜花が捉えられている。

 次の大きな花火があがって、遅れてきた音が鼓膜を叩くまでのしばらくの間、お互いに見つめ合う時間が続いた。

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