第22話

 街灯の光がまぶしい。

 目の前の道路をトラックが走り抜けていき、生暖かい風が流れる。

 さっきまであんなに不愉快に感じていたまとわりつくような汗がなぜか嘘のように引いていた。

 僕が決定的に間違えたあのとき、最初に気が付いたのは桜花だった。自分のすぐ後ろをスティックが滑っていったのだから当然だ。

 一瞬だけこちらに視線を向けて、何事もなかったかのように演奏を続ける。

 優枝もすぐに僕の様子がおかしいことを把握した。後ろを振り向き、状況を理解して歌が途絶えた。

 けれど彼女の非凡な点は演奏を止めなかったことだ。

 そしてすぐに決断した。僕なしで曲を続けることを。途中から歌を再開し、最後までやりきった。

 観客席にいる内、何割かは出演者か関係者。みんな僕のミスに気が付いたはずだ。

 そんな中でステージを降りることもできず、片側だけのスティックでリカバリーする方法も思いつかず、申し訳程度にバスドラムを踏み続けて僕の初ライブは終わりをつげた。


 何事もなかったようにMCを入れた優枝のことを素直にすごいと思う。演奏のミスに触れず、「またお願いします」と話をしめた。

 また、はちゃんとやってくるだろうか。そのとき、僕はいっしょにいるのだろうか。


 ライブハウスでは出演者は貴重な観客要員でもある。なんとかステージを降りた僕たちは楽器を置いたらすぐに会場に戻る。

 暗闇の中に帰って来たときには、健介さんたちタラバタがすでに一曲目を演奏中だった。

 邪魔にならないように二人といっしょに後ろの方に陣取る。

 けれど、演奏をちゃんと見ることができない。眩しすぎる。見ていればそこに自分を重ねずにいられない。タラバタの人たちには一切恨みなんてないはずなのに、どこかでミスをしてくれないかと願っている自分が苦しくて、下を向いているしかなかった。

 壇上に向かって呪詛を吐く観客なんて、最悪だ。


 予定されていた彼らの楽曲が全て終わり、次のバンドとの入れ替わりのタイミングで僕は会場から外に出た。耐えられなかったから。

 優枝も桜花もそれを止めたりはしない。

 控室に戻るのも憚られて、ライブハウスの外へ出ると、いつの間にか日が落ちていた。

 ふらふらと少し歩き、となりの駐車場の車止めに腰を下ろす。

 僕はいったい何をしているのだろう。

 項垂れて考えても答えは一つしか浮かばない。

 ただ逃げて来ただけだ。どこにも出口はなくて、行き止まりにきて座り込んでいる。

 ぱき、と手の中でプラカップが音を立てた。ドリンクのカップを持ったままだったのか……。

 中に入っているのは炭酸がちょっと抜けたサイダー。約束した通りのソフトドリンク。本当なら受け取ってすぐ煽るようにして飲むはずだった、演奏後の些細なご褒美。それがなぜか今も手元に残っている。

 もしも、これがお酒だったなら僕は新しい逃げ道を得ることができたのかな。

 大人として生きるということは、毎日そんな逃げ道を確保しているという担保がなければ続けられないほど苦しいことなんだろうか。

 一口、飲んだ気の抜けたサイダーは思ったより美味しかった。つい今まで、胃の中が裏返ってぐちゃぐちゃしているような気分だったのに、飲み物をうけつけている事実が不思議だ。

 汗をかいて喉が渇いていたのだと思う。動いて疲れて糖分も欲しかったところなのだろう。だから、ただ甘酸っぱくてとげとげしただけの液体が美味しいと感じる。

「おい、何こんなところでたそがれてるんだよ」

 誰もいないと思っていたのに、突然声をかけられた。

「ヤスさん……」

「ヤスさん、じゃねぇよ。もう『ケーシー君』三曲目だぞ。トイレじゃないなら早く戻ってこい」

「……すみません」

 本当はとてもじゃないけれどそんな気分ではなかった。だけど、ヤスさんに言われれば断るわけにはいかない。こんな僕たち、いや僕が、ライブハウスに来ることができたのは彼のお陰なのだ。

「キツイか?」

 何がとは言わなかった。今、僕を苦しめるものがあるとするならば、それはたった一つだけだ。

「……正直辛いです」

 素直に答えが出ただけでも、頑張っていると自分で思うほどに。

 ここまで堪えるとは予想もできなかった。

「なら、次の俺たちの演奏、聴いていけ。いいな」

 何が、なら、なんだろう。

「…………」

 ヤスさんは僕の答えを聞く前に、戻って行ってしまった。

 当たり前だ。彼の出番はこのあとすぐ。本当はこんなところで僕の相手をしている場合ではなかったはず。そんなことにも気付けなかった……。

 気分は上を向かなかったけど、言われた通りにする。今は自分で何かするよりも、こうしろと命令される方が幾分気持ちが楽だったから。

 中身の減ったプラカップを握りつぶしてしまわないように気を付けて立ち上がった。

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