第12話

 事件は、これからというときに起きた。

「なんだ……? ガキが偉そうに。いっちょ前にバンドか」

 年配の男性。よれよれのスーツに緩めたネクタイ。顔が赤い。

 こんな時間に酔っ払いかよ……。どこで飲んでどうすれば祝日のこの時間に駅で会うことになるんだろう。

「お、なんだ、おもちゃかと思ったらいいギター持ちやがって。嬢ちゃん、あんたにゃ勿体ない。お手本を見せてやるからちょっと貸せ」

 あり得ない場所であり得ないタイプの人間を見たせいで、ちょっとだけ茫然としてしまった。その間におっさんはステージを囲むチェーンを越えて優枝の方へと近づいていく。

 おいおい……。

「触るな!」

 驚くほどよく通る声で制止したのは田所さんだった。

 大音声というわけではないと思うけれど通路中に聞こえたみたいだ。

 そこかしこから視線が集まる。

「あ?」

 思わぬ反応を受け、あたりを見渡して自分が注目を受けていることに気が付いたおっさんの顔がより一層赤くなる。

「なんだぁ? うるせぇな、小学生か? まったく親はどこにいるんだ。監督不行き届きだぞ」

 支離滅裂なことを言うおっさん。

 ただ、その言葉は明確に罵倒で、かつ、田所さんの勘所に障ったようだった。

 言葉すら発せずに詰め寄る彼女。

 思わぬ剣幕に驚いたおっさんは右手を突き出して田所さんの行動を止めようとした。それが悪かった。

 体重差とタイミング。まるで突き飛ばされたように後ろに転び、しりもちをついた。

「田所さん!」

 ここまでのことが起きてからやっとその場に向かうことができた。

 自分で自分が情けなくなる。しゃがんで肩に手を添え、声をかける。

「大丈夫?」

 瞬間的に沸き上がった怒りを突き返された彼女は、真っ白な顔で目を見開いている。

 パシンと、切れ味の良い音が響き渡った。慌てて振り向いた僕が見たのは右手を振りぬいた優枝と見事に頬を打ち抜かれたおっさん。

 あぁ、どんどん事態が悪い方向へと向かっていく。

 優枝の行動はおっさんの怒りを買った。その事実が赤から青へと変わっていく顔色でわかる。

 とにかく二人の間に入ろう。この中で一番殴られてましなのは僕だ。喧嘩なんて全然得意じゃないけれど、ここで動けなければ男がすたる。

 決死の覚悟で立ち上がり、一歩目を踏み出す。

「女の子の前でそんな拳を握って穏やかじゃないですね。どうかしましたか?」

 恰好よく割って入ったのは、そんな僕ではなく、よく見知った顔だった。

 小暮。どうやら初日からバンドの応援に来てくれたらしい友人。

「あ? なんだ、関係ないだろう」

 凄みはするものの、おっさんは拳を振り上げたりはしなかった。

 どうやらぎりぎりのところで間に合ったみたいだ。

「まぁ、そう言わず、話聞きますから」

 おっさんの目を見ながら辛抱強く話す小暮。

「……こいつらがいきなり突っかかって来たんだよ」

 事実無根……。

 ちょっと優枝と僕の怒髪が天を突きそうだったけど、小暮は気にせず続ける。

「それは災難でしたね……」

 自然に肩に手を回し、会話を続けながらゆっくりとステージから遠ざかる方向におっさんを誘導していく。なんだこの技術。

 あくまで緩い感じで、話を続けながらもステージを抜け、観客席を抜け、まだなお歩く小暮と一瞬だけ目が合う。

『いけ』

 そう言っているのだと思った。

 錯覚ではない。その証におっさんの背中で小暮の人差し指がステージを指している。

 今、僕の両ポケットにはそれぞれスマホが入っている。スピーカーとペアリングされた僕のやつと、演奏撮影テスト用に優枝から預かったやつ。どちらがどちらかはわからないまま、左側を取り出した。

 そこに表示された時刻は九時二分。演奏開始時間を過ぎているけれどまだ間に合う。

「田所さん」

 しりもちをついたままの彼女に左手を差し出すと、ひっぱり起こす。

「怪我はない?」

 こくりと頷く。

 それは良かった。次は、

「優枝!」

 今もおっさんが歩き去って行った先を睨んでいる。そこに声をかけて強引に左手を掴む。

 僕の左手は田所さんとつないだまま。

 元々、今日のバンドに僕の出番はほとんどない。

 騒動の中で、僕は何もできなかった。

 でも、今なら一つだけできることがある。

「僕は優枝の歌が聴きたい。田所さんの演奏が聴きたい。今日までずっと調整した打ち込みがちゃんと仕事をすることを確かめたい。こんなことで、みんなの初ライブを中止にしたくない。だから――」

 掴んだ手を引き寄せ、合わせる。円陣を組んだ形になる。

「力を貸してもらえないかな」

 二人の表情を確認する。真っ白だった田所さんの頬には赤みが差し、目はこちらを見ている。怒りに染まっていた優枝の視線は田所さんにくぎ付け……。まぁいいけどさ。

「映ちゃん、貸すんじゃないよ」

 二人が頷き合う。

「力は――」

 右手だけを離すと、全員の左手が重なった形になった。

「合わせないと!」


 ――もう大丈夫。

 手早くアンプに向かってケーブル類をチェック。スマホを取り出して顔を上げる。

 目の合った二人は、すでにステージの中心に立っていて、視線だけでゴーサインを出してきた。

 タッチパネルの再生ボタンを押すと、一切の手ごたえがないままに、リズムを刻み始める。

 何事かと振り向く通行人たち。

 見てろよ、これから始まるのは僕たち軽音同好会の初ライブだ。

 すぐに二人の演奏が始まる。観客エリアでも聞こえるようにアンプの音量を調整、次いでスマホの方でもスピーカーで同じことをした。

 ちょっと音割れしているけれど、これくらいなら許容範囲内だろう。

 優枝が『チェリー』を歌い始めたのを確認してから観客エリアの真ん中へ向かった。

 練習はずっとしてきた。データの調整もぎりぎりまでやった。だから歌にも演奏にも不安はない。

 たった一つ、どうなるかわからなかったのが、優枝の声量だ。

 今回持ち出しの機材ではマイクだけが準備出来なかった。市役所で相談したときには「アコースティックギター一台で来る人もいるから大丈夫よ」とは言われていたけれど、不安なものは不安だ。

 とはいえ、今こうして聞いてみれば杞憂だったことがわかる。地下通路の形状が良いのか広く響き渡る軽快な歌声。雑踏の音にも負けず、少なくとも僕のいる場所までしっかり届く。

 すぐに、僕以外にも通行人の中から観客エリアへ入ってくる人が出始めた。

 ガールズツーピースバンドというのは印象が良いのだろうと思う。女の子が頑張って演奏している感じがしっかりする。観客にも若い女の子が多くて、僕がちょっと場違いな感じがするくらいだ。

 観客がじわじわ増える中で一曲目の演奏が終わる。

 優枝たちの様子を見ながら二曲目の『明日も』を始めるタイミングを図っていると「がんばれー」と隣から声がする。見ず知らずの誰かが応援してくれている。

 優枝は、そちらにむかってピースを向け笑顔を振りまいた。初めてのライブなのにあまりにも自然なファンサービスに胸がどきりとする。ステージと呼び続けているそこは、チェーンで区切られているだけで高低差はない。あくまで通路の一部。

 まさか反応があるとは思っていなかったのだろう。

 隣の女の子たちは同じ高さの目線から向けられたそれに黄色い声で返す。なんだか本当にライブをしているみたいだ。

 ここで、僕は二曲目を開始させた。最高のタイミングで優枝のギターリフが始まる。

 観客席の子たちにとって世代的に聞き覚えがあるものだったのだろう。高まる期待がまるで手にとるようにわかる。

 優枝との距離は五メートルもない。でも、ここと向こうにはチェーン一本以上の区切りが確かにあった。

 これから歌う歌詞の通り、彼女は今間違いなくヒーローで、別世界の住人なのだ。

 ヒロインじゃない。祝日のヒーロー。

 一瞬だけ田所さんのソロパートが入ってから歌が始まる。

 気が付けば僕の周りは観客で一杯になっていた。女の子が多いけれど、男性もいる。老若男女に親子連れ。ゴールデンウィークの中日なかびに街へ繰り出す、世にも幸せな人たち。

 彼らはそれ以上のささやかな幸運を今ここで享受している。

 僕たちがライブを行うことを知っていた人なんて、山口さんと小暮くらいのはずだから、誰もいないと言っていい。どんな楽曲かなんてもっと知らない。観客の中で、僕だけが彼女たちの演奏を知っていた。

 そしてそんな僕ですら心を動かされているのだ。

 小暮が連れて行ったおっさんのことを思い出す。

 あいつにだって聴かせてやりたい。それで言ってやりたい。どうだ、凄いだろうと。幸運な観客だけじゃない。こんな時間にお酒を飲む理由のある人にだって届けたい歌がある。

 田所さんは言っていた。ベースの音は心臓の音みたいだと。本当にそうだと思う。優枝の歌声の影で鳴り続ける彼女のベースは、僕の心音そのものだ。少しずつ心拍数をあげていく。

 どきどきが止まらない。心が叫んでいる。なんで僕の居場所こちら側なんだ、と。

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