第三章 ~『スラムの人たちから勝ち取る信頼』~
少年を助けたクラリスは、路上で倒れている人たちを助けながら、街の中心地へと向かっていく。
進めば進むほど、目付きの鋭い者たちが増えていく。困窮しているためか、服装や体つきもみすぼらしくなっていく。
「アルト様、この先には何があるのでしょうか?」
「スラムだ。だからこそ食料を届ける価値がある」
「アルト領にはスラムそのものがありませんからね。私も足を踏み入れるのは久しぶりです」
ハラルドに婚約破棄された原因にもなったスラムでの慈善活動を思い出す。王都では聖女の評判が広がっていたおかげで、危険な目にあうことは少なかった。
だがフーリエ領は初めて訪れる場所で、聖女の評判によるお守りも通用しない。恐ろしさを感じないと言えば嘘になる。震える手をアルトの指に絡めた。
「私が傍にいる。恐れなくていい」
「……ふふふ、アルト様の隣なら世界一安全ですね」
恐怖は消えて足取りが軽くなる。石畳の道を真っ直ぐに進んでいくことができた。
「聖女様、ここがスラムの中心地です」
荷馬車を中央の広場に止めたゼノが、クラリスに呼びかける。心の準備を整えると、アルトと共に前へ出た。
「ではまずは私の方から――」
ゼノはゴホンと咳をすると、大きく息を吸い込んだ。
「これより食料配布を始めます!」
静まり返ったスラムに響き渡るような大声でゼノが叫ぶ。食料という声を聞き、街の奥から人々が集まってくる。
飢えて死ぬ寸前なのか、枯れ木のようにやせ細った彼らは、食料が積まれた荷馬車をジッと見つめている。
「全員に配っても余るほどの食料があります。列に並んでください」
呼びかけるがスラムの人たちの反応は悪い。どういうことだと訝しんでいると、代表の男が一歩前へ出た。筋肉質な体つきと、鋭い目付きから只者でないと分かる。
「俺はライザ。このスラムの面倒を見ている男だ。一つ聞かせてくれ。あんたたちはどこから来た?」
「アルト領からです」
「やっぱりか。ならあんたが聖女か?」
「恐縮ですが、そのように呼ばれる事が多いですね」
クラリスが聖女だと名乗ると、集まっていた人たちの反応がさらに悪化する。眉を顰める彼らの心情は訊ねなくても明らかだった。
「あの、私が何か失礼なことをしたのでしょうか?」
恐る恐るクラリスが訊ねると、ライザは拳を握りしめた。
「弱々しい演技を止めろ」
「私は演技なんてしていません」
「どうだかな。俺たちは、あんたの噂を聞いているんだぜ。なんでも希代の悪女だそうだな」
「あ、あの、それは誤解で……」
「誤解なはずがあるかよ。なにせ、あんたの父親のバーレン男爵が、最低の娘だと演説していたんだからな」
「え……」
飛び出してきた父親の名前に、クラリスは心臓を掴まれたような感覚に包まれる。虐待されてきた過去が脳裏でフラッシュバックしたのだ。
「バーレン男爵が語った話はこうだ。あんたは王子の婚約者でありながら、複数の男に手を出した。それも自分から誘ってな」
「ち、ちが……」
「それだけなら許すこともできた。俺も貞操観念は褒められたものではないからな。ただなぁ、あんたのもう一つの悪評を聞いた瞬間、俺はこんな悪女が世にいるのかと震えたもんだぜ」
「もう一つの悪評ですか?」
「あんたがストレス解消のためにスラムの人たちを虐めている話だ。特に足の骨を折って、歩けなくするのがお気に入りだそうじゃないか」
「わ、私、そんなこと……」
「しらばっくれるなよ! この悪女が!」
「ひぃ……っ……」
父親に対するトラウマがクラリスの心を弱くしていた。反論するための勇気も湧き上がってこない。
ライザの怒鳴り声が引き金となり、スラムの人たちから一斉に「帰れ」コールも湧き上がる。悲しみで涙が頬を伝った時、アルトが彼女を庇うために背に隠した。
「クラリスを馬鹿にするなら、私は容赦しないぞっ」
冷たい怒気を含んだ言葉が放たれると、クラリスへの非難はピシャリと止まった。身に纏う魔力から、圧倒的な戦闘力の持ち主だと悟ったからだ。
「その魔力量、あんたがアルト公爵か?」
「だとしたら?」
「あんたと比べれば俺たちは虫以下の存在だ。おそらく片手でお釣りがくるほどの実力差がある。その前提がある上で、一言だけ伝えさせてくれ」
「私に対してなら許そう」
「アルト領から格安で食料を販売したよな。その結果、俺たちは飢えて苦しんでいる。悪気はなかったのかもしれないが、俺はあんたが憎い」
直接的な原因はフーリエ公の食料価格の値上げだ。しかしそのキッカケを作り出したのがアルトであることも事実であった。
「それは……悪いことをした」
アルトは領民を苦しめるつもりはなかった。だが行動が裏目に出たのだ。責任は取るべきだと頭をゆっくりと下げた。
「おい、嘘だろ……」
「公爵様が頭を」
「そんなことありえるのかよ」
スラムの人たちは公爵であるアルトが頭を下げたことに戸惑う。貴族と平民。その二つの階級には天と地ほどの差があるにも関わらず、殿上人である彼が謝罪したのだ。
「あ、あの、アルト様は悪くありません。悪いのは私なのです。私が食料を生み出したりしたから……」
「いいや、クラリスは悪くない。命じたのも私なら、フーリエ領への販売も私の提案だ。すべての責任は私にある」
クラリスとアルトは互いを庇い合うために罪を被ろうとする。貴族らしい高慢さとは無縁の反応に、スラムの人たちは困惑する。
「なぁ、本当にこの人が悪女なのか」
「善人に見えるよな」
「騙されるなよ、演説を聞いただろ」
「それはそうだけど……」
ヒソヒソと困惑が広がり、クラリスたちを信じる声も挙がり始める。だが全員ではない。疑いを抱き続ける者も多い。
「お姉ちゃんは悪くない!」
そんな疑いの声を吹き飛ばすように、少年が声をあげる。彼はクラリスが助けた少年だった。大勢の前で緊張しているのか、ガクガクと震えているが、勇気を絞りだしていることが伝わってくる。
「お姉ちゃんは、怪我をしていた俺を治療してくれた。美味しいリンゴもくれたが、毒なんて入ってなかった!」
「それは本当なのか?」
スラムの代表ライザが問うと、少年は何度も首を縦に振った。
「皆も目を覚ましてくれ。悪いのはフーリエ公爵だろ。食料を安く売ったことに罪なんてない」
「そ、それは……そうかもしれないが、まだ聖女が悪女だとする証拠が……」
「あの演説をしていた男なら、俺の足を遊び半分で折ったんだぜ。そんな奴の言葉と、俺たちのためにスラムまで食料を運んできてくれた人たち。どっちの言葉を信じるんだよ!?」
少年の言葉で大人たちは目が覚めた。冷静になれば分かることなのだ。荷馬車に積み込んだ大量の食料を遊び半分で駄目にするはずがないし、アルト領から運んでくる手間も相当な労力だ。嫌がらせだけが目的なら他にも賢い方法はある。
「すまねぇ、俺たちが間違っていた」
スラムの代表としてライザが頭を下げる。それが引き金となり、スラムの人たちは一斉に頭を下げた。
「頭をあげてください。あなたたちは騙されていただけなのですから」
「聖女様……すまねぇ……」
「気にしないでください。それよりも一緒に食事としましょう」
「あ、ああ」
クラリスの合図と共に荷馬車に積んできた食料が解放される。果物はそのまま配られ、麦や野菜は大鍋で調理して振舞われていく。
食事を楽しむ彼らは、クラリスたちに感謝する。幸せそうな彼らの顔から疑念はすでに消えていた。
「ねぇ、アルト様。フーリエ領の皆さんも善き人たちばかりですね」
「だな」
スラムの人たちを救えたことを喜び合う。二人の絆もより強く結びついていくのだった。
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