N18D4 蓮堂の聖域/Rendo's Sanctum

 夕暮れ時の下り電車はどこも人でいっぱいになる。


 リナが乗る大江戸線も例外ではない。練馬駅で大勢が降りて席が空くが、その次の豊島園で降りるので座れる時間は二分しかない。面倒だからそのまま立つ。


 試験のついでに買い物もしたら空腹に見舞われた。帰りは電車で揺られるだけでも一時間は耐え難く、蓮堂に相談したが返事が来ないので、一人でサイゼリヤに寄っていた。もし蓮堂が夕食を用意してたらと思うと少し心苦しい。今のうちに謝り方を考える。


 豊島園駅から徒歩七分。蓮堂探偵事務所に帰ってきた。


「ただいま」


 扉を開けてから部屋が暗いままと気づいた。蓮堂より先に着いていた。


 手探りで明かりのスイッチを探す。記憶との違いもあり壁を広く撫でて、別の場所を明るくしたりして、ようやく部屋が見えた。


 見知った通りの空間だが、ひっそりしている。


 対照的に心はざわついた。普段なら蓮堂が普通にゲームをしてるか、仕事と称してゲームをしてるか、台所から声をかけるか、たまに本当に仕事で書類を用意していた。静寂にはどこか慣れない。留守番の経験もあるが、夜ではなかった。


 いつも通りに動けば馴染み直すかもしれない。荷物を置く。手を洗う。日誌を書く。連絡を確認する。返事はまだない。音楽をかける。虚しく響いた。


 ショートケーキの苺を最初に食べた日に似ている。大きさの割合はごく小さくても、全てのバランスが崩れるか整うかを詰め込んだ宝玉だ。それ以来、リナは早くても半分になるまでは苺を残して食べる。


 シャワーを浴びる。髪を乾かす。歯を磨く。ゆっくり動画を見る。連絡を確認する。返事はまだない。車の音。階段を上る音。ドアノブを回す音。リナは飛び出す。


「おかえり!」


 舞い上がりすぎた顔色は一気に沈んだ。入ったのはオオヤだ。蓮堂はいない。落胆を隠して客人への応対に切り替える。


「ありゃ失礼、蓮堂はまだ出てます」

「そうだね。突然だけど、大事な話をしなければならない。座っていいかな」


 予感が膨らむ。リナは席を指示した。ソファではなく、奥の席へ。部屋着の範囲と外行きの範囲が重なる席に。オオヤは荷物を膝に置き、中から蓮堂のトートバッグを出した。


「蓮堂に何か、あったんですか」


 オオヤは口をさらに固く結んだ。昔ならきっと見落とすような、表情筋のごく小さな動きを今のリナなら見つけてしまった。早く言ってほしい。同時に、聞きたくない。


「そうだね」


 オオヤは深い呼吸の後に、意を決したようにして話す。


「蓮堂くんからの伝言だ。『蓮堂節子は姿を消すがお前を見守っている』『困ったらオオヤかハマカンを頼れ』それから、仕事の続きをリナちゃんに任せるそうだ。報酬も全額きみに」


 口調は真剣で、内容は冗談のような。何を意味するか、リナが察するには十分だった。


「蓮堂の身に何があったんですか」

「それは僕が語れる話じゃない。明日にでも警察が来て、君から話を聞きとる。その時は僕も同席するよ。保護者としてね」

「オオヤさんは、何を知ってるんですか」


 リナの目にはまだ意思が宿る。オオヤが初めて見た頃のリナには野心が見えた。足がかりに使ってでも這い上がろうと転がり込んだ居場所だ。蓮堂がどうなろうと、腹の底では興味などないと思っていた。


 それが今はどうだ。蓮堂と聞けば本気になれるじゃないか。冷めた娘では決してない。目と目を合わせればまっすぐに見つめ返してくる。


 先に目線をずらしたのはオオヤになった。肺を膨らませなおして言葉を選ぶ。


「君にも大谷おおたにと呼んでほしいがね。あまり気乗りしないが蓮堂くんの話をしよう」


 もう一度、深呼吸で溜めた。次の言葉を待たせる。


「彼女は炎の中に消えた」


 合いの手を待つように言葉を切る。


 リナは黙ったままだが、表情が変わった。意思から動揺に、オオヤにはどことなく、過去に似た出来事があったように思えた。


 実のところオオヤは、リナについて何も知らない。何者かも、どんな家にいたかも。蓮堂の助手としての活躍は耳にしているが、プライベートへ踏み込んだ話は一度もなかった。


「蓮堂くんは、考えがある人だ。どうにか生き延びたと信じたいが、僕らができることなんか何もない。せいぜいが帰れる場所を残す程度だ」

「本当に、死んだんですか」

「見てはいないが、状況からはそうとしか思えない。炎に包まれた家で、崩れ落ちた梁の下に右手が見えた。生きてると思うほうが無理だ」


 リナの表情が曇ったが、少し待つと一転して勝ち誇った顔をした。これまで蓮堂と過ごした全ての日々と、オオヤの言葉。断片的な情報がひとつの答えを出す。


「蓮堂が考えそうな言い方ですよね。死んだとしか思えない状況に持ち込んで、そんな証言をするしかない材料を整えて、ほとぼりが冷めたら帰ってくるつもりでしょう」


 オオヤの荷物へ手を伸ばす。フラッシュメモリを備えつけの読み取り機に食わせる。リナも慣れた手つきになった。情報を確認して、蓮堂が残した処理プログラムの待機列に加えた。


「きみは賢いんだな」

「どうも。ただ、明日はまた来てくださいよ。教わることをまとめておきます」

「そうだね。朝食の準備も任せてくれ」


 半ば追い出す形でオオヤを見送る。少なくとも今夜はもう鍵を閉めていい。


 トイレを済ませて、明かりを消して、ベッドへ向かう。頭まで布団で包む。


「蓮堂‥‥!」


 掛け布団と枕が濡れる。傷むからやめろと言われていたが、知ったことか。蓮堂のベッドを勝手に使っている。戻ってくれば必ず気づいて、あの蓮堂がどんな顔でどやしつけるか想像もできない。


 呼吸には鼻を使う。





4章 確かな旅路

N18D4 蓮堂の聖域/Rendo's Sanctum





 翌朝もリナはしばらく布団を抱えていた。蓮堂の香りに包まれて、本人はこの場にいないしこの世にいるかどうかも不透明だ。答えを知るのが怖い。


 試験の結果に似ている。既に結果は決まっていて、自分は知らないだけ。目を背けていれば受け入れる負担から逃れられる。しかし、いつかは向き合う日が来る。


 恐怖を乗り越えて、見なければならない。やがては見るしかないなら、今すぐ見るのが最もいい。見た後の行動を増やせるから。


 わかっていても恐ろしい。もし本当に、蓮堂ともう会えなかったら。ハリーポッターはまだ完成していない。ポケモン勝負もナワバリバトルもMagic:the gatheringも。足りないものはいくらでもある。


 テレビのニュースでは火事なんて誰も語らない。ネットニュースも掲示板もツイッターでも蓮堂の死を示す情報は見つけられない。一応、空き家での火事はあったらしい。人死になしでニュースにならないと言えば筋は通るかもしれない。しかし、ならばこそ幸いだったと話題になる気もする。


 扉を叩く音が聞こえた。オオヤだ。


「おはよう。眠れたかな」


 リナは頷く。昨夜は強気に出たものの、口を開けば変な声が出そうで、今は黙りたかった。


「それはよかった。浜くんにも連絡したから、後で来てくれる。まずは食事をしようか」


 オオヤが台所へ踏み出すが、すぐにリナが腕を掴んだ。この先は言葉でしか伝えられない。


 精一杯の勇気で、落ち着けて、普段通りに話せるように。


「自分でやるよ。できなかったら、生きられないから」


 上げた眼光は昨日までよりも鋭い。リナは生きられる子だと証明する。オオヤは覚悟を見て引くべきは自分だと認めた。


「任せる。きみは強いな」

「全然、蓮堂には追いつけてない」

「言うね。蓮堂くんがきみを拾った理由が分かった気がするよ」


 続きは食後に。オオヤは顔を逸らして切り上げた。普段はリナがいた席を取る。今日からはリナが上座を使う。壁を背にして、出入り口を見る。


 この場には蓮堂が残した数々の道具がある。蓮堂がくれた思い出がある。それらを守るのはリナだけだ。責任をもって。


 朝はトーストだ。ジャムとバターを出して、タンパク質を補うハムエッグを二人分。早くて簡単な品をトレイに乗せて、普段と同じく運ぶ。


 蓮堂が見ていた景色を見る。テーブルに置く前にオオヤの後頭部を避けて、体を捻るときは遠心力で床が食べようとするからゆっくりと。席を代わるだけで自らがまだ半人前と知る。


「おいしそうな出来だ」


 些細な一言が身に沁みる。オオヤはいちごジャムを塗りハムエッグを乗せてかぶりついた。


 その様子を見てリナは安心と同時に後悔もある。自分が食べるときはこんなにおいしそうに食べていたか? 蓮堂は顔にこそ出さなくても同じような考えをしたんじゃあないか?


 考えても答えは出ないが、考えずにはいられない。リナは蓮堂から貰うばかりで、返せたか自信が持てない。蓮堂がいたらきっと「次からやれ」と言う。しかし、蓮堂がいない間は。


「食べないのかい?」


 オオヤの言葉で我に返った。せっかくだから同じように、塗って乗せてかぶりつく。仲間と示すには同じ行動をするといい。仲間と示すには食事を共にするといい。人間は知的生命体と嘯いているが結局は動物なので野生の本能が残る部分を刺激したら、知的さを本能の正当化に使って仲を深められる。蓮堂から教わった内容を受け継ぐ。


 食事は始めるまでが長く、終えるまでは早い。片付けはさらに早い。特に汚れを弾く食器と汚れにくい料理を合わせたらぬるま湯で流すだけですべてが片付く。


 すぐに今日の行動を始めるために。


「続きを教えてください。蓮堂が私を拾うとかって」

「きみは似てるんだよ。昔の蓮堂くんにね」

「探偵に拾われて探偵になった、ですよね」

「そうだ。この場所でね。先代の探偵も似たような方法で行方を眩ませて、そして蓮堂くんがここを継いだ。君もそうするといい。この部屋の伝統になる」


 オオヤの言葉はありがたい反面、胡散臭くもある。蓮堂がこの仕事をしたのはオオヤからの依頼が発端だ。大口の仕事が定期的にあるから普段は楽をできるとも言っていた。


 そこをリナが継いだなら、リナにも厄介な仕事が来る。今の技量ではとても手が回らない。


 リナは蓮堂のようにプログラムを書けないし、人心を握る話術もない。後回しにしていたら蓮堂がいなくなった。これまで教わった内容を元にやりくりするしかない。


 もし継がなければ、この部屋はどうなる? 誰もいない部屋を残す理由はなくなり、蓮堂がここにいた痕跡もなくなる。そんな結果を望むか? 答えは否、リナはこの場を残したい。


 ならば足りない部分を、これから増やしていく。足りない間は他の何かで補う。気合いとか執念とか根性とか、使えるものはなんでも使う。


「当分のきみは大学に通うだろう。ノルマとかそういうのは無いから安心して」

「継ぎます。蓮堂が帰って来られるように」

「生きてると確信した言い方だね。昔の蓮堂くんが言えなかった言葉だ」

「信じます」

「反証可能性は?」

「次の看板を十六女いろつき弁護士事務所にします」

「すると五年くらいかな? 僕は弁護士については知らないが」

「それまで待ってください」

「待つよ。他ならぬ蓮堂くんの頼みだ。税金やら水道やらは少しずつ覚えればいい」


 リナは深く頭を下げた。そうしていれば目元を隠せる。


 残りの仕事を進めた。画像を分析して、名簿にした姿との一致度を確認する。すべて蓮堂が用意したプログラムで動いている。リナの操作は最後に目視でお墨付きを出すだけだ。手順はタブレットに書かれていた。まるでこうなると予測していたように。


 未だ掌の上にいる無力感と、同時に庇護下にいる安心感がある。長くは続けられない。でも今回までは、これで仕事を終えられる。


 オオヤに渡した。納得した様子で持ち帰った。足音は往復してトランクが届いた。


 中身は現金を三千万円、映画でもなかなか見ない光景が目の前にあった。


「リナちゃんは『綺麗に使う』の意味はわかるかな」

「合法の範疇で、ですかね」

「洗浄をしてからという意味だ。こいつが大金に見えても実際は使うまでに手間がある」

「よくない仕事だったんですね」

「この金の流れだけね。それともうひとつ」


 オオヤは懐から封筒を渡した。パンパンに膨らんでいて、中身は五百万円だ。


「こっちは綺麗な金だ。蓮堂くんへの長い依頼が終わって、依頼人がすぐには来られないから代わりに渡すよう頼まれてた」

「どの依頼ですか」

「何も言わないと思って印刷物がある。勇気を出したら読んでくれ」


 オオヤは冊子を渡した。

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