第3話:イーストプレイン家1
少女が目を覚ますと、目の前にあるのはサビが目立つ古びたのブリキの天井ではなかった。さらに言えば、隙間風が身体を突刺すような屋根裏倉庫の中ではなかった。
自分を包む柔らかい感触と温もりは、藁と麻でできたベッドとは全く異なる。身体を起こすと、真っ白なシーツと薄桃色の毛布が目に入った。シミ一つない白い天井の真ん中には大きな電飾が一つ。窓の外にはどこまでも青々とした草木が広がっていてる。テーブルや椅子は淡いベージュで色が統一されており、継ぎ接ぎされたような形跡もない。床にも汚れのない桃色の絨毯が敷かれている。
「お目覚めですか」
「……え」
呆然としていると、白いシャツに黒いスーツを着た男性がすぐ側に立っていた。いつの間に部屋に入ってきたのだろう。
見知らぬ男……と思ったが、その端正な顔立ちに見覚えがあった。あの時、自分を儀式から守ってくれた男だ。ということはここは彼の家だろうかと考える。それは、一番妥当な憶測だ。
「ここは
しかし、彼は少女の憶測に反することを告げてきた。
「ゆうり、おじょうさま……?」
優里というのは少女の名前だった。継母にさえ呼ばれなくなった名前だったため忘れそうにもなっていたが、それが彼女の本当の名前であることは間違いない。
しかし、お嬢様というのは一体何だろう。
少女は……優里は、首を傾げる。
ここが小さい頃に使用していた部屋というのもさっぱり分からない。
「やはり……覚えてはいらっしゃらないようですね。あなたは元々、あんな辺鄙なところにある集落の庶民ではありません……細かい経緯は後々説明いたしますが、あなたは……このイーストプレイン家の跡取りとなるお方です」
「イーストプレイン家?」
もう、理解が追いつかなかった。イーストプレイン……それはどこかで聞いた名前だが、はっきりとした記憶はない。
また、お嬢様と言われることもおかしかった。毎日灰にまみれ、使役される日々を送ってきたのだ。一般の家で生まれ育った少女よりもずっと下等な扱いを受けてきた。そのため、このように丁寧な言葉をかけられていることにも戸惑わずにはいられない。
「ほら、これです。この写真に写っているのが、五歳の頃の優里お嬢様のお写真ですよ」
「え……」
確かに、彼が服のポケットの中から取り出した写真に写っている幼い少女は、優里に似ていた。ブロンドの髪に青色の瞳。丸い目の形などもそっくりだ。
ピンクのワンピースをきた少女は青空をバックに屈託のない笑みを浮かべている。
「あれ……私、服……」
写真に手を伸ばしかけて、自分の服が変わっていることに気づく。布切れのような薄汚くてペラペラな服が……真っ白で肌触りのいいワンピースに変わり、薄桃色の温かいカーディガンも纏っていた。ふと気になって髪に触ると……肩よりも長く伸ばしっぱなしだった髪が肩くらいで切りそろえられていて、灰にまみれていつも絡まっていたはずなのに何故か指通りがいい。
体中はひりひりと痛むが、硬い藁のベッドの上で目覚めた時のような痛みは感じず、段々夢を見ているような気分になってくる。
「ああ……それは……」
「優里ちゃん! 起きたのね」
自分の姿に呆然としていると、扉を開けて部屋に入ってきた女性が目を見開いて一目散に優里に飛びつく。
長い髪をたなびかせ、黒いワンピースの上にフリルのついたエプロンをつけて、頭にはフリルのついたカチューシャ。その格好は儀式の時に目にした女性と同じものだった。
新たな人間が増えたことで、ますます優里は混乱する。
「あなたたちは……」
助けを求めるように男の方を見上げれば、彼は、
「ああ、申し遅れました、優里お嬢様。俺は
と爽やかな笑顔で自己紹介をした。
「しつじ?」
「まあ、お世話係みたいなものよ。私は
ふと、正面に置かれた鏡台に映った自分が目に入る。灰もきれいに落とされて、まるで自分が自分ではないようだ。
「えっと……すみません、まだ状況が理解できなくて……」
「まあ、無理もないわね。優里ちゃんからすれば突然知らないところへ連れてこられたことになるのだから。私たちのことも、記憶にはないでしょうし」
「記憶……」
確かに、優里には小さい頃の記憶がない。気が付いたらあの家にいて、こき使われていた。記憶に靄がかかったかのように、どうしても昔のことを思い出すことができない。
「私はその……小さい頃にあなたたちにお会いしたことがあるということですか?」
「ええ。それもこのお屋敷でね」
それから詩織は、この家のこと、それから優里のことについてをゆっくりと語った。
優里にとってはとても……すぐには信じられる話ではなかったが。
優里の本名は優里・イーストプレイン。このイーストプレイン地方一帯を統治していた旧家の一人娘らしい。
けれど十年前、彼女の存在を快く思っていなかった叔母に、遠く離れたノースキャニオンへと捨てられた。そうして彷徨っているうちにあの集落にたどり着き、生い立ち不明なのをいいことにこき使われるようになったのだ。
この家の多くが優里は死んだものだと思っていたが、先日叔母が死ぬ際彼女のことを自白し、奏人たちが捜索。見事優里を見つけ出したのだという。
「あの、でも……人違いなんてことはないんですか?」
優里は戸惑いのまま尋ねる。五歳の頃の写真だけでは本当に同一人物だと判断しづらい。
「優里お嬢様はあの集落でこう呼ばれていたんですよね? 灰をかぶった化け物……と」
「え……と、はい」
確かにそうも言われていた。
「その理由をご存知ですか?」
「私は……触れた人や動物の怪我を治す力がある……それが不気味だと言われ、化け物と忌み嫌われていました」
転んで擦りむいた子の怪我を治してみればその子に呪いをかけたと妙な勘違いをされ、迫害された。何度この手を憎んだことか。
「それがイーストプレイン家に伝わる能力なのです。呪いなどではありませんよ」
「……そうなんですね」
はじめて自分が奇妙な力を持っている理由が判明し、呆然とする。それと共に、この手で治した子どもや動物たちが呪われたりはしていないようで安心した。
「場所は叔母様の証言で絞れていたため、あとはその噂を辿ったことで貴女を見つけることができた。けれどその時には黒龍が暴れ回り……あのような事態に」
それは、優里を探していた奏人たちにとってあまりに予想外の出来事だっただろう。優里は自分の境遇を申し訳なく思った。
ただ探し出すだけではなく、そのように迷惑をかけてしまったのだから。
「申し訳ありません。俺が、もっと早く優里お嬢様のことを見つけていれば」
「えっと……別に、謝ることではないと思います。その……結果的に、助かっていますし」
紆余曲折あったにしろ、危機一髪のところで彼らは助けに来てくれた。いきなり知らない場所へ連れてこられ混乱はしているが、謝られるような話ではないと優里は思う。
「……違うのよ、優里ちゃん。助かった……とは、言い難いの」
「え?」
詩織が近づき、優里の首元をそっと触る。それから手鏡を取り出し彼女に渡した。
「え……」
遠目で鏡を見た時には気づかなかったが、優里の首元には今まではなかった黒い痣ができ、それが服の中まで続いている。
「あの時、優里ちゃんはノースキャニオンの黒龍を降臨させられた。そして神の媒体として殺すつもりだったのだろうけど……それを、私たちは助けた。だから、優里ちゃんの中にはまだ……災害の神、黒龍が入っているの」
「えっと……それだと、どうなるのですか?」
儀式の最中とは違い、今は痛みも感じない。その時の全身が引きちぎられる感覚も暫くすれば忘れてしまいそうだ。
「身体が、制御できなくなる」
「え?」
奏人は苦しそうに呟いた。
「あの時、身体に激しい痛みを感じましたよね? 発作を起こしましたよね……あれが……頻繁に起こる可能性があります」
今忘れ去られようとした感覚が頻繁に? 優里は思わず自分の首元をなぞった。
「な、何故……」
「黒龍が身体の外に出たがっているからね……でも、今神が優里ちゃんの身体の外に出たら……イーストプレイン一体の環境にも影響があるし、それより優里ちゃんの身体自体が持たない」
「私の身体?」
「黒龍は今や優里お嬢様の生命エネルギーと複雑に絡み合っている。もし無理やり外に出そうとすれば……貴女の命ごと持っていってしまうかもしれない」
「そんな」
内容は複雑だが、あまりによくないことが起きていることは分かった。
彼女の中には災いを呼ぶ神がいて……それが身体の外に出たがっているが……容易に出すことはできない。そしてその間永遠に苦しみ続けるしかない。
「勿論、治す方法は俺たちが必ず見つけます。それまでは辛いかもしれませんが……ずっとお側でお守りいたしますので」
奏人は震える優里の手をぎゅっと握り締めた。その顔は悲痛に満ちている。
どうしてそんな顔を向けられるのか……優里にはまだ理解ができなかった。
「ああ、すみません……一度にいろいろお話しすぎましたね。三日間ぐっすり眠られていましたし、お食事でもお持ちしましょうか」
「三日……?」
それだけ長い時間意識を失っていたことに呆然とした。それなら詩織が丁寧に身体を磨く時間がとれたのには納得だ。
「今準備をしますので」
「あ、待ってください」
今まで、食事の用意は優里の仕事だった。人にやってもらうというのは違和感がある。
しかし、奏人に続いて立ち上がろうとベッドから降りた瞬間、その場に立っていることができず、足から崩れ落ちた。
すかさず詩織が屈んで優里の背中を支えなければ後頭部を床にぶつけていた可能性もある。
「優里ちゃん、あなたは黒龍に生命エネルギーの半分を奪われている上に三日間も眠っていたの……すぐには動けないから今は安静にしていなければいけないのよ」
「でも……」
そんなに至れり尽くせりされてしまっては、今までの自分の生き方の逆を辿っているようなものだ。
これからどうなってしまうのか……優里は先の見えない現状に怯えることしかできなかった。
唐突にお嬢様などと言われても、つい先程まで灰かぶりと呼ばれていた彼女にとっては受け入れがたい話でしかなかった。
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