第18話

 蒼士は濡れた服に着替えた。それしかないのだから仕方ないが、冷たそうで気の毒だった。麻美と姫沙紀、姫奈は眠ったらしく屋敷内は静かなものだ。彼女達の眠りを妨げないように静かに屋敷を出て玄関に鍵をかけた。鍵は玄関戸のポストに落とし込んだ。玄関の三和土に鍵は転がったが、起き出した姫沙紀か麻美がすぐに気がつくはずだ。


 嵐の後の空気は澄んでいた。空にはまだ所々灰色の千切れ雲がもの凄い速さで流れていたが、それらの隙間から朝陽が明るく射している。


 光と雲のバランスが美しかった。夕暮れのような微妙な暗さでありながら、空の一部にだけ早朝の澄んだ明るさが射しこんでいる。夕暮れと朝が混じり合ったような光に魅せられ写真を撮りたくなった。シャッター音を聞いていれば、不安と嫉妬が入り交じる気持ちを宥められる気がした。この光で千年藤を撮りたいと蒼士に言うと、撮れば良いというので急いで藤やに帰り、カメラを持ち出し千年藤に向かった。

 光は刻々と変わる。急がねばならない。蒼士は服を着替えてから千年藤にやって来た。

 写真を撮る礼人の傍らで、蒼士は雨粒を含んだ藤の花を見つめていた。整った横顔が綺麗だったので藤と一緒に彼を撮りたい衝動に駆られるが、許可を求めても到底了承してもらえそうにないので止めておいた。


「説明してくれるんじゃなかったか?」


 ファインダー越しに蒼士を覗きながら言うと、彼はレンズの方向を敏感に察知して睨む。別の方向へレンズを向けた。


「そのカメラの中に、ここに来てから撮った写真全部入ってる? 入ってたら見せて」


 首からかけていたカメラをはずし蒼士に渡した。彼は液晶画面を操作して、「これを見て」と二枚の写真を続けて見せた。

 二枚ともここに来て礼人が撮った女幽霊の写真だ。どちらも薄気味悪い。蔵の小さな窓から目を見開いてこちらを見おろす女の顔。もう一枚は、赤い屋根の離れの二階、縦長の窓に掛かるカーテンの隙間から憂鬱そうにこちらを見おろす女の顔。


「この二枚、同じ顔に見える?」

「俺には同じ女の顔に見える」

「じゃあ、これ見て。これ何の写真って訊かれたら、なんて答える?」


 蒼士は自分のスマートフォンを操作し、ピアノ教室か何かのポスターを表示した。そこには大きな口を開けて歌う五、六歳の女の子が写っている。


「女の子の写真だな」

「じゃ、これは何の写真?」


 今度は靴屋のポスターらしく二十代の女性が写ってる。


「若い女性の写真だ。それに何の意味があるんだ?」

「無意識に皆、似たような言葉を微妙に使い分けてるんだ」


 再び蒼士は、五、六歳の女の子の写真を表示して見せた。


「この写真を見て女が写ってるとか、女性が写っているとか言わないよね」

「そんなの当たり前だろ。女の子だ。もしくは子どもだ」

「だから変だったんだ」

「頼む。俺に分かるように説明しろ」

「良治の首が発見されたとき、村の人が集まって噂話をしてた。皆は同じ事を言っているような気になっていたけど、本当は互いにちぐはぐな事を言ってたんだ。藤蔭屋敷の幽霊について、ある人は、『女』と言ってた。でもある人は『女の子』って言ってた」

「それが?」

「一さんが撮ったこの写真を見て、女の子の幽霊って言う人がいると思う?」

「いや、言わないな」


 成人女性でも若くて可愛い場合は『女の子』と表現する人もいるが、不気味にこちらを見おろす女を、『女の子』とは表現しにくい。


「でも『女の子』って言う人がいるんだ。どういう事だと思う?」


 女と、女の子。ある者は成人女性のことを言い、ある者は小さな女の子のことを言っている。彼らは互いが見たものを共通であると思い込み疑わないから、齟齬に気づかない。


「俺が撮った写真に写る女幽霊の他にも、小さな女の子の幽霊が藤蔭屋敷にいるのか?」

「僕もそう思ったけど、あるお母さんは二度、藤蔭屋敷で幽霊を見てる。それを『女の子』と『女』と使い分けて話した。一度目と二度目、二十年近い間隔を空けて目撃してるんだ。だから藤蔭屋敷の幽霊を目撃した人に見た時期を聞いて回って、彼らが見たのが『女の子』なのか『女』なのか確認した。それで分かった事がある」


 カメラを返しながら蒼士は告げた。


「藤蔭屋敷の幽霊は成長してる」

「成長? 幽霊が成長? ありえないだろ。生きてるわけでもないのに」


 と自分で言った途端に息を呑む。礼人の顔色を見て蒼士が頷く。


「生きてるんだよ。藤蔭屋敷には姫沙紀さん、姫奈ちゃん、小姫子さん、桜子さん、麻美さんの他に、もう一人女が住んでる。しかも二十年以上前から。聞き取りをすると二十年前くらいに目撃した人は『小さな女の子』だったと口を揃えて言う。十年前になると、『女』と『若い女の子』が半々くらいで、その後は皆、幽霊は『女』だったと言うんだ」

「じゃあ、あの土蔵の中にいるのか? もう一人」


 鍵を紛失し蔵は開かないのだと姫沙紀は言っていた。その中に何かが隠れ住んでいるのだろうか。眼下に見える蔵の屋根を振り返る。「おそらくね」と答えたた蒼士は、千年藤の根元へと歩いてく。


「二十年以上前からこの女が土蔵の中に住んでいるとすれば、屋敷に住む者大人は全員、存在を知ってたはずだ。どれだけ広い屋敷にしても、家人に気づかれず住み続けられるもんじゃない。ただ姫沙紀さんは小学校卒業後から大学を出るまで屋敷を離れてる。小学生くらいまでだったら、大人達が巧妙に隠しておけば誤魔化せるはずだから、姫沙紀さんは存在を認識していない可能性はある。麻美さんが屋敷に来たのは去年だから、彼女も知らない可能性がある。となると幽霊と認識されている女の存在を知っているのは、今は小姫子さんと桜子さんだけかも」

「土蔵の中の女は何者なんだ? なんで二十年以上も人知れず」


 蒼士はかなり長い時間沈黙したが、ようやく考えの整理が付いたかのように口を開く。


「二十年以上前に藤蔭屋敷に起こった異変と無関係じゃないと思う。ここからは、ただの推測になってしまうけど」

「聞かせろよ」

「二十数年前、小姫子さんと慶子さんが実の兄の宗一郎さんに恋心を抱いた。小姫子さんは慶子さんに、宗一郎さんを奪われたと言ってた。おそらくそう思える事実がその頃にあったはず。そして宗一郎さんが二十七年前、理由のはっきりしない自殺をとげる。それから数年して、小さな女の子の幽霊が藤蔭屋敷で目撃されるようになる。その幽霊は二十数年の間に子どもから、少女、女性へと成長する」


 並べられた事実を再確認して嫌な予感がした。蒼士は淡々と続ける。


「藤蔭屋敷には二十七年前、生まれてはならない子どもが生まれた。おそらく慶子さんと宗一郎さんの間に出来た子だ。宗一郎さんは罪の意識の余り自殺し、慶子さんは出産後、遠い地へ追いやられるようにお嫁に出された。それが慶子さんが麻美さんを藤蔭屋敷へ遣わした理由だ。余命がいくらもないと悟った彼女は、愛した兄との間に生まれた子が、どうしようもなく気がかりだったんだ。だから麻美さんには、母親と折り合いの悪い姫沙紀さんが心配だから藤蔭屋敷に行ってくれと頼んで、本当は自分の子がどうなったか麻美さんを通して知ろうとした」


 忌まわしさに礼人は愕然とした。声も出ない。


「普通なら未婚の娘が子どもを産んだだけだ。何食わぬ顔で、子どもを養子に出せば済む。けれど藤蔭屋敷は、地域で否応なく注目が集まり続ける家だった。姉妹が兄を異様なほど慕っていたのは周知だったし、宗一郎さんもそんな事を漏らしていた。そこで宗一郎さんが理由も定かでなく自殺し、慶子さんが父親のわからない子を産んだら誰でも邪推する」


 これはただの推測だと蒼士は言った。しかし礼人にはこれが推測だと思えなかったのは、小姫子の妄執を目の当たりにしたからだろう。あれほど歪んだ愛情を兄に注いでいたとしたら、あの屋敷の中で二十数年前、あってはならない愛憎が絡み合っていたかもしれない。

 なぜそんなことが起こるのか。それもまた、藤媛の呪いなのか。注連縄一本では封じきれない何かが、じわじわと山肌を伝って藤蔭屋敷に入り込むのか。

 余姫が揺り起こした呪いが。


「平成の村人達は、藤媛を心から畏れ敬っていた昔のような口の重さはなかっただろうね。噂は瞬く間に広まる。養子に出せば、村外の組織にも父親の事を追求されもする。近代の明るさが何もかも暴き立てる。だからその時まだ存命だった余姫は、忌まわしさに耐えかねて子を隠した。余姫はその子を放置するつもりはなかったかもしれない。早々に小姫子さんに婿を取らせ、その子どもとして籍に入れようとしたかもしれない。でも小姫子さんが婿取りに納得するまで数年かかり機を逸したとしたら、その子を隠し続けるしかない。土蔵の中にでも入れて」


 礼人は唾を飲む。


「じゃあ、あの土蔵の中に人知れず育てられた、宗一郎氏と慶子さんの間生まれた人間が現実にいるのか。それがあの」

「そうだよ。それが成長する幽霊」

「麻美さんは気がついているのか? そのことに。姫沙紀さんは」

「麻美さんと姫沙紀さんが、土蔵の中の女の存在に気がついている可能性は半々。ただ麻美さんの反応を見ると・・・・・・」


 そこで蒼士の声が途切れた。蒼士は自分の足元を見つめていた。どうしたのかと問う前に、彼はいきなりその場にしゃがみ込んで手で土を掘り返し始める。


「どうした」


 いきなりの行動に面食らって駆け寄ると、彼は千年藤の根元を両手指を土で真っ黒に汚しながら掘り返していた。昨夜の雨の影響か、根の周囲に幾筋も水が流れた跡があり、大きく土がえぐれていた。彼はその辺りを掘り返している。驚いている礼人の前で、蒼士は泥まみれの何かを掘り出し両手で捧げ持った。振り返り、こちらへ差し出す。


「一さん見て。これ」


 泥まみれのそれに、礼人はぎょっとした。


「髑髏じゃないか」


 驚いたが恐怖を感じなかった。気味悪いが、泥まみれだと化石か何かを見るのに似て生々しさが半減するのと同時に、タクシー運転手から聞いた話を思い出したからだった。


「戦後の掘り残しの髑髏ってやつか、それ」


 礼人が口にした言葉が不可解だったらしく、蒼士が怪訝な顔をする。


「何か知ってるの」

「タクシーの運転手さんが、戦後、成葉里村のご神木の下から大量の髑髏が出てきたって言ってたんだよ。ご神木って言ったら千年藤だろ。当時の掘り残しの髑髏が残っている可能性もあるって言ってたから。昔成葉里村では、千年藤の根元に首だけを埋葬したらしい」


 蒼士の目が見る見る吊り上がってきた。話し終わると彼はいきなり怒鳴った。


「どうしてそんな大事な事、早く教えてくれないんだ! 馬鹿!」

「ば、馬鹿?」


 馬鹿呼ばわりされるほど罪深い事かと面食らった。蒼士は手にある髑髏を見つめて呟く。


「そういう事なんだね。やっと・・・・・・分かった」

「どういう事だよ」

「『伊勢物語』にも『今昔物語』にも鬼に食われる女の話があるけど、どれも頭は食い残されているんだ。これは、頭は魂が戻る場所で、体の他の部位とは違う大切なものとする考え方が平安時代には広まっていたからなんだ。頭は魂の戻る場所だから身近に埋葬するのは頷けるし、昔は樹木を墓として木を立てる風習もあったから、ご神木の千年藤の下を埋葬の地としたのも当然かも知れない。けれどそんな古い思想に基づいた風習が江戸時代に残っていたとすると、村が拓かれたのは遅くとも中世。風習が廃れる事なく残ったのは、村外との交流が極端に少なかったからに違いない。この村が隠里だった裏付けの一つだ。しかも極端に外界との接触を拒んだから、首が大切なものだっていう思想はここに生きる者の意識に刷りこまれてる。本人たちにも理由は分からないのに、極端にある対象物を忌み嫌う、あるいは神格化する意識は、未だに各地に共同体の中に散見する。それだ」


 蒼士は視線を上げて眼下に広がる鉢の底へと目を向ける。そこには嵐に洗われて、いつもよりも輪郭がくっきりと際立つ成葉里の郷がある。


「この村には寺がないって前に言ったよね。けど寺だけじゃなくて、神社もない。お地蔵様一つもない。見て、墓すらないんだ。成葉里村に到着した初日に言ったよね、景色が普通じゃないって」


 寺社以外に墓もないと指摘され、改めて確認すると、確かに何処にも墓地がない。


「墓がないのは、おかしいだろ」

「きっと今は三村町とかの、成葉里の外にある寺を檀那寺にして墓もそこあるだろうね。檀那寺を持ち檀家になって墓が立てられるようになったのは、外との交流が始まった明治も暫く経ってからじゃないのかな。成葉里が隠里ではなくなり、首を埋葬する習慣がなくなったのは、それほど大昔ではない」

「あんな遠い場所に墓が? 不便すぎるだろ」

「自動車のない時代なんて、不便どころの騒ぎじゃない。きっと別の国に行くような感覚だったと思う。普通なら、自分達の住む場所に寺や神社を勧請する。でも、あえてそれをしなかったんだ。だから僕は最初に、この景色が普通じゃないと言ったんだ」


 一陣、強い風が山から吹き下り藤がざわめく。


「明治になっても、村人達は、あえて寺社を勧請しなかった。明治になっても暫くの間は、埋葬を千年藤の下で行っていたとしたら墓がない理由も頷ける。檀那寺や墓所が遠い場合には、家の近所に祖霊を祭って『参り墓』を立てる例もあるのに、その必要がなかった。千年藤が祖霊の祭の場所でもあったから。そうやって外の神や習俗を拒むのは、村には藤媛信仰があったから」


 蒼士が言わんとしている事が分かってきた。成葉里村が拓かれたときから、千年藤が強烈な信仰の対象だったのだろう。村を守る神であり、祖霊を祭る墓でもあった。


「たった一つの対象物だけが、守護神であり、墓所でもあり、地域の信仰を全て吸収している例はあまりない。それほど強烈に支配できるのは、それに異を唱えられないほど深く人の心に食い込んでた。外部の信仰を徹底的に拒否するほどに、藤媛は絶対神として根付いてた。そういうときは畏れを伴っているんだ。千年藤、すなわち藤媛に背けば恐ろしい事がある。でも従順である限りは強い力で庇護される。だから藤媛の子孫たる藤蔭家を没落させないように、地域で支える構造もできたのかも知れない」


 蒼士は、一瞬だけ険しい表情になる。


「藤木は藤媛の象徴だ。この巨大さからすると藤媛が生きていた中世からあったはず。とするなら藤媛の死後も藤媛の化身のような藤木がある限り、村人は藤媛に見つめられていると同じ感覚を覚えただろうって想像がつく。だから千年藤なんだ。いくらなんでも樹齢千年はないはずなのに千年と呼ばれたのは、千年———永遠に我らを守れと願ったんだ。強烈な印象が藤木とともに残り、それを守護する藤蔭家が村を支配できた。藤木が残ったからこそ藤媛の影響も強く残った」


 強い風に、蒼士が身につけている薄っぺらのコートの裾がはためく。

 襟首や足首からひやりとする空気が入り込み、礼人の体はかなり冷えている。しかしそれは寒さのせいばかりではなく、髑髏を抱く蒼士の異様な姿と、二人をじっと見つめているような藤の巨木の存在に、どこか恐怖を感じるからだ。

 樹木が千年、二千年生きるの知っている。礼人は、樹木に染みついた何かを意識したことがなかった。しかし蒼士の言葉一つ一つから、今まで認識しなかった、樹木が土地の養分や水とともに何を吸い込んでここまで巨大になったのかを否応なく想像してしまった。

 この千年藤は、盗賊の首魁の女が愛でた。己の化身とするほど愛した。そしてその根元に自らに従う者たちの首を埋め、営々と、その養分を吸いあげていた。それを花に変え、死後も土地を支配し守り、———あるいは、呪う。

 藤媛は自らの存在を否定しようとした子孫を、徹底的に呪いだしたのか?

 藤媛という古人の意思が樹木と一体化し、正体があやふやで、その意思も人としての形を失い彼らを見つめている。 


「恐ろしく強い媛神だ。他に類を見ないほど。だから意に染まぬ事をすれば祟られると恐れられた。けれと余姫は近代化とともに、藤媛信仰を排除しようと試みた。この村が盗賊末裔だという事実が知られれば、どれほど差別されるか恐れたんだろう。ご神木を逆注連縄で封じ、自分の娘には姫の名を拒否し、自分が最後の大媛だと宣言した。けれどそれと呼応するように娘はひどい病弱で生まれた。それでも家を存続させようと無理矢理に娘に子どもを産ませたけれど、連れてきた婿が死ぬ。ここで余姫は弱気になって生まれた孫娘に姫の名をつけた。一度は否定し封じようとした藤媛のご機嫌を取ろうとしたけれど、遅かった。生まれた三人の孫は姉妹で兄を取りあい忌まわしい子が生まれる。長男は亡くなる。村人達には藤蔭屋敷に不吉な影を感じて、藤媛の呪いだと噂する。それは当然だ。何かを守る神というのは両義的なものだからだ。村を守りながらも、怒らせると呪う存在。その呪いはどれほど怖ろしいものかと人は怯えて、何かがあれば藤媛の呪いと感じる。その存在は昔から、村の規律を乱す者を縛る安全装置として機能していたはずだから」

「装置?」

「あれだよ。子どもを脅かす、あれ。悪い子は地獄へ行く、鬼に攫われるってやつ。あれは子どもにだけ有効な方法じゃない。恐ろしさに現実味を与えれば、大人にだって有効なんだ。けれど隠里はあばかれ、現代のシステムの中で平均化して恐ろしい媛神も自然消滅していく定めだ。それでも媛神の呪いは最後の最後まで続くんだ」


 所々意味が分からない事を蒼士は言っていたが、呪いという言葉が忌まわしい。


「結局、お前は何が分かったって言いたいんだ」

「首がなかった理由が分かった。松影良治の首も四年前行方知れずになって白骨死体で発見された鈴木俊之の首もそう。これはきっと鈴木俊之の首だ」

「これは戦後に出た髑髏の掘り残しじゃないのか? 掘り残しがあるって噂が」

「こんな浅いところに埋まっていた髑髏を掘り残すと思う? 地中深く埋まっていたものは、地殻変動でもない限りこんな上へ上がってこない。この首は最近埋められたんだ」


 蒼士は丁寧に髑髏から泥を拭い落とす。


「気の毒に。この人は四年前に藤媛に殺され、首だけここに埋められた」


 髑髏から目を離して顔をあげた蒼士は、切なそうな顔をしていた。


(藤媛? 藤媛だって?)


 それがどれほど恐ろしい媛神なのか、わからない。目の前にある巨大な藤の木に宿る何かが、殺人を犯す化物だとでも言いたいのだろうか。そんなわけない。人を殺し、首を落として埋められるのは現実に存在する人間だけだ。

 いや———と、礼人の中の何かが小さく否定の声を出す。もし現実にそんなことをした人間がいたとして、そしてそれが藤媛という恐ろしい媛神の意思に操られていたら、それは藤媛が殺したことになるのか。それが藤媛の呪いなのか。


「藤媛っていうのは土蔵の中にいる女幽霊のことか? でも、なんでこんなことをするんだ。殺して首を」

「言ったことがあるよね。犯人は藤媛の行いをなぞっているって。犯人は四年前に鈴木俊之と交わり殺した。覚えてない?」

「藤媛をなぞっている犯人が、四年前鈴木さんと交わって生まれたのが姫奈ちゃんだっていう、あれか? 姫奈ちゃんは幽霊の子か? 姫沙紀さんがそれを知って庇っているとでも? 彼女自身が、姫奈ちゃんは別れた恋人との間に出来た子どもだと言っただろう」

「さっきも言いかけたけど、そこが僕にもわからない。麻美さんと姫沙紀さんが、土蔵の中の女の存在を認識しているかどうかは、可能性としては半々だ。麻美さんは何も知らない可能性もある。逆に全てを知っていて共犯関係が成立している可能性もある。姫沙紀さんにしても、蔵の中の女を認識していなくて、姫奈ちゃんは本当に姫沙紀さんが生んだ子で、土蔵の女と関係ない可能性だってある・・・・・・」


 蒼士は眉をひそめる。


「四年前、土蔵の中の女が鈴木俊之と交わったとしても子どもに恵まれなかった可能性もある。だから四年後の今年、また獲物を誘い込んだとも考えられる。どちらにしても犯人は、交わった男は愛しかった。だから首を千年藤の下に埋めた。ここに埋めるというのは魂をその場に留め置くためで、仲間として認めたという事。逆に松影良治は仲間として失格と見なした。首を落とす必要があったのも、魂ごと追放しようとする意図があったからだ。川の向こう、村の領域の外へ放り出して犬に食わせたのは見せしめだろう。川に架かる橋の名前は『門橋』というらしいから、おそらくあれが村の外と内側を区切る境界線だ」

「松影良治は、何でそんな目にあわせられなきゃならない」

「彼は覗きをしていたという噂がある。それが本当なら、覗いているうちに藤蔭屋敷の蔵の秘密を知ったかもね。それをネタに小姫子さんかもしくは犯人を脅迫したとか? そうなれば良治は藤媛にとって、藤蔭屋敷を崩壊させようとする極悪人。相応の罰をあたえる」

「じゃあ、松影正治はどうなる? 彼が自分の死を偽装している可能性があると言ってたよな。これから起こす犯罪のために」

「言ったよ。それはあくまで可能性としてね」

「お前が言うように藤媛ってやつが犯人ならば、正治は共犯か?」

「それはないと思う。だって松影良治と正治は似たもの兄弟で、覗きをしたり藤蔭に嫌がらせしたり、同じように振る舞ってる。藤媛が許せる相手じゃない」

「じゃあ正治も本当に殺されているのか。井戸の底で見たのは、本当に正治の死体だったって言うのか。じゃあ、どうやって二十五分で、あの深い井戸の底から死体を消せるんだ」

「方法はある。良治の死に様と、この髑髏を見つけて、なるほどと思った」


 髑髏を抱いたまま蒼士は暫く礼人を見つめていた。もしかして自分は、ひどく怯えた顔をしているのだろうかと、礼人は思った。


「今すぐ一さんはここを離れて、東京へ帰ってくれないかな」


 唐突に蒼士が言う。彼の語る推測に、恐怖を感じないと言えば嘘になる。しかしだからこそ、ここを去るわけにはいかない思いを強くしていた。蔵の中に殺人鬼が潜んでいるとするならば、姫沙紀を放って逃げられない。


 しかも———これらはまだ、蒼士の憶測に過ぎない。


(冷静になれ。蔵の中に殺人鬼が潜んでいるというのも、この髑髏が鈴木俊之で殺されたというのも、松影良治さんが殺されたというのも全ては蒼士の憶測だ)


 そう思い込もうとしたが礼人は九割方、蒼士の読みは当たっていると感じていた。ただ彼の推理が正しくとも、正しくなくとも、ここを動く事は出来ない。

 なるたけ平静を装い微笑みさえ浮かべて礼人は答えた。それは蒼士に対しての強がりというよりは、自分自身に対してはる虚勢だった。


「どうしたんだよ? 色々あって、お前がもう嫌になったんならお前は帰れば良いだろう。俺は四日後の藤祭の写真を撮る仕事を引き受けているんだ。仕事を放り出して帰れない。しかもこの状況で姫沙紀さんを置いて行きたくない。せめて少し落ち着いてからだ」

「姫沙紀さんが心配だって言うなら僕が残ってなんとかするし、出来ると思う。一さんは帰った方がいい。仕事をキャンセルしてね」


 嵐の後の強い風に藤が大きくたわんで揺れる。鋭い朝の光と曇天が混じり合う、明るいとも暗いともつかない夜明けの中で、蒼士は整った横顔に微かな憂いを意地ませて泥まみれの髑髏を優しく抱く。その光景は不気味でありながらも、どこか美しかった。


「何をそんなに心配してんのか分からないけど、俺は帰るつもりはない。あれか? 俺が藤媛をなぞる蔵の女幽霊に誘い込まれた獲物かもしれないと、それを心配してるのか? 言っちゃなんだが、狙われるなら俺よりもお前の方が真っ先に餌食になりそうだぞ。しかもさっきお前が言った蔵の女幽霊も、その髑髏のことも、松影さんのことも、ぜんぶただの推測だろう。とにかくこんな不安な状態で、俺は姫沙紀さんを置いて逃げ出せない」


 言葉にしていると、礼人の中でそれは決意のような強さになってくる。昨夜の口づけを思い出すと幸福感とともに義務感が膨らみ、心が「守れ、守れ」と騒いで体を火照らせる。

 不穏なことや不安なことが藤蔭屋敷に絡みついているのは事実で、最初からその一部に利用されているらしい礼人の身にも何かがあるかもしれない。しかしそんなことは、どうでもいい。大切なのは姫沙紀のことだ。彼女の周囲では奇妙なことが続いているのに、それを置いてこの地を離れるわけには絶対にいかない。


「なにがあるか、わからないよ」

「だからこそだ」


 強い口調で言いきった。呪いのように不幸の影か住み着く屋敷に、過去の男、失踪者、奇妙な嫌がらせ、事故に見せかけた殺人。その中心にいる姫沙紀の手を、礼人は今握っているのに等しいのだ。彼女の手をしっかりと握りしめて明るい方へと連れて行きたい。彼女を守りたいのだ。この瞬間、それこそが自分の存在する価値にすら思えた。


「俺は、姫沙紀さんを置いて———見捨てて、逃げ帰ったりしない。いや、いっそ、ここから今すぐにでも連れ出すために力を尽くす。なんでもする」


 蒼士は諦めたような溜息をつく。


「そうだろうね。薄々わかってたけど、一さんはいくら僕が帰れって言っても、好きになった人を守るために、てこでも動かない」


 揺れる藤棚を見つめ、彼はぽつりと言う。


「雁はひがごと花かえるゆえ」

「なんだ、それ?」

「昔の、なぞなぞ」


 つまらなそうに返事をすると向き直り、真っ直ぐ礼人の目を見た。その目に強い決意があり、普段の彼にないその強さにどきりとした。


「藤祭までわずかだ。分かったよ。もし僕の推測があっていたら急がないとまずい。なぞなぞは僕が解く。だから一さんは考えなくていい。そのかわり一さん、気をつけて。姫沙紀さんの事、気をつけていて。僕はこれから成葉里村を出る。藤祭の日には帰るから」

「何処へ、何しに行くんだ」

「お札を集めてくる。化物退治をするためには、お札が必要なんだ。それを手に入れるために、一さん、今カメラに入ってるSDカードを貸してよ。急がなきゃいけない。すぐにタクシーを呼んでくれたらそれに乗って村を出るよ。タクシーが来るまでの間に、この人の泥を落としてあげなきゃ。木戸さんにも知らせないといけないけど。あのイノシシには、もっと後で知らせる方がいいのかな」


 泥に汚れるのを気にした様子もなく、蒼士は髑髏を大切そうに抱えて歩き出す。礼人は慌てて彼の後を追った。

 蒼士はその日、成葉里村を出た。礼人は姫沙紀達に、蒼士は帰宅したと告げた。


 ———姫沙紀さんの事、気をつけていて。


 そう言い置いて蒼士が出て行った事に、強い不安を覚えた。

 藤蔭屋敷には、姫沙紀と姫奈、小姫子と桜子、麻美以外もう一人女が住んでいる。その女は、宗一郎と慶子の間に生まれた子の可能性がある。礼人に偽の仕事を依頼し、藤やを開き、礼人や蒼士を獲物として招き入れたのがその女だとしたら、木戸樹里に襲いかかった犯人も彼女なのだろうか。松影良治を殺した犯人もそいつか。

 その女が姫沙紀に危害を加えるというのか?

 もしくは昨夜現れた石田が、再び姫沙紀を探して襲ってくる可能性を言っているのか。両方の可能性を蒼士は危惧しているのかも知れない。

 礼人に出来るのはせいぜい、姫沙紀の元恋人が再び姫沙紀を襲わないように藤蔭屋敷の周囲を警戒して歩く事くらいだ。蒼士が去った後は気分が落ち着かず、その日の午後から翌日にかけて、写真を撮るふりをしながら藤蔭屋敷を中心にして村の中も見回って歩いた。


(一つ家を開いて、藤媛をなぞってるのは土蔵の中の幽霊女だ。松影良治の殺害も、四年前の鈴木俊之の殺害もそいつ。木戸さんを襲ったのもそいつ。その女は今この瞬間も土蔵の中で息をひそめてる。なぜ藤媛を、なぞるなんて妙なことをしてる。理由が分からない。二十年以上も土蔵の中に押しこめられて生きてるとしたら、常人に計り知れない思考を持つかもしれない)


 土蔵の中の女の存在を、姫沙紀や麻美に告げるべきか否か迷っていた。本当なら今すぐにでも伝えて彼女達を連れ出したいのだが、全てが勘違いということもあり得るのだ。

 しかし一方では幸いにも、石田陸斗が姿を現す気配はなかった。

 村の連中に、それらしい男を見ていないか聞いて回ったが誰も見なかったという。ただ毎日通勤で峠を越える人が、峠の林道脇に五日ほど前から兵庫ナンバーのバイクが放置されていると教えてくれた。石田が身につけていた革のブーツとジャケットはバイク用だった。となると彼は、まだこの近辺に潜んでいるだろうから油断は出来ない。

 念のため、姫沙紀と麻美にはそれを伝えた。

 麻美はしきりに、石田に居場所を知られてしまったのだからここを離れた方がいい、小姫子と桜子を病院へ入れて、自分と一緒に東京へ行こうと姫沙紀を誘った。しかし姫沙紀は困ったような顔をして、考えておくわと言うだけだった。

 石田が襲ってくることを警戒し、藤蔭屋敷に用心のために寝泊まりしても良いと申し出たが、姫沙紀に断られた。「村で噂になるから」と。確かにそうかも知れないと思い引き下がったが、そのかわり、何かあればすぐに自分を呼ぶようにお願いした。

 藤の花を背負う屋敷を振り返り、忌々しくなった。それが膨れあがりに、得体のしれない者に対する怒りに似た感情になる。


(土蔵の中の女を引きずり出してやろか)


 それが最も手っ取り早い方法に思えた。蒼士は村の外で何かしているはずなのに、馬鹿みたいな姫沙紀の周囲をうろついているだけの自分がもどかしい。蒼士は藤祭には戻ると言ったが、祭は明後日だ。彼が何を持ち帰るつもりかは知らないが、それまでに礼人が土蔵を開き状況が好転していれば、彼が持ち帰る切り札とやらも有効に働くだろう。

 女がどうやって土蔵を出入りしているのかは、わからない。隠された抜け道があるのかも知れないが、見つけられない。それならばいっそ土蔵を力尽くで開く。

 そう決心した礼人は、夕方に大組長の松丸の家を訪ね、鉄を切断する工具を持っていないかと相談した。すると彼はディスクグライダーという工具があると、持ち運び可能なそれを貸してくれた。簡単なレクチャーを受けた。何に使うのかと松丸に問われたので、藤蔭屋敷の簡単なメンテナンスを頼まれたとだけ答えた。

 決意を固めて眠り、翌朝なんとなく騒がしいので目が覚めた。

 朝八時半頃ではあったが、藤やから藤蔭屋敷にかけての坂に大勢の人の気配がした。それは凶事の騒がしさではなく、何やら作業を進めるような活気に満ちた騒がしさだった。

 外へ出て驚いた。四日前に村の男達総出で立てた杭一本ずつに、提灯が吊り下げられていた。提灯には藤の花が描かれ家紋も入っていた。各家の主らしき名前も入っている。

 杭と杭は細い注連縄で結ばれ、ただの坂道は藤蔭屋敷へ向けて続く参道に変わっていた。

 まさに、祭が始まろうとするかのようなしつらえだ。

 注連縄をかけている男衆の中に大組長の松丸を見つけて声をかけた。


「松丸さん。藤祭は明日じゃないんですか?」


 中腰で注連縄を張っていた松丸は、痛そうに腰を伸ばしながら答える。


「祭は明日だけど、今日は夜頃よごろだよ。一般的には。宵宮とかいうのかな。そんなもんだ。今日の日が落ちてから祭は始まって、明日の日が落ちるまでだ」

「じゃあ、藤祭っていうのは、実質的に明日ではないんですか」

「明日が祭の本祭だから、祭はいつかと聞かれたら明日だな。ただ始まりは今夜って事で、提灯が綺麗なのも今夜って事だ」

「なんで夜から始まって、明日の夕方に終わるなんておかしな事に」

 蒼士は祭を明日だと思っているのだから、明日まで帰ってこないだろう。ぼやいた礼人の背後で、くすくすっと小さな笑い声がした。姫沙紀だった。

「お疲れ様で松丸さん。一さんも、おはようございます」


 彼女は礼人の傍らに来ると、「何も、おかしくないんですよ」と、笑顔で言った。すると松丸が「姫沙紀ちゃん、都会っ子に教えてやれよ」と苦笑いする。


「一般的に祭というのは夜から始まるんです。神様がおみえになるのが、夜なんです。節分の豆まきは、暗くなってから鬼を追って福の神を招くでしょう。年末も年神様をお迎えするのは、夕方から準備しませんか? 元旦の朝に、改めて門松を立てて鏡餅をお供えしたりしませんよね。前日に全部終わらせるのは、夜の間に神様をお迎えするからですよ」

「俺はてっきり、あれは元旦に何もしたくないから、前日に全部終わらせてしまえっていう、そんな感じかと」

「呆れたなぁ、近頃の若いのは、そんなのも知らないのかね」


 松丸が言うので、自分の物知らずなのが恥ずかしかった。


「もう一人の、あの、ひょろっとした兄ちゃんは何処に行ったんだ」


 松丸が訊くと姫沙紀はころころ笑う。


「お帰りになったそうです。松丸さん、あの方は終夜さんてお名前なんですよ」


 石田の襲撃があって以来、彼女は久しぶりに楽しそうだ。幼い頃から馴染んだ祭に心が浮きたつのだろうか。明るい笑顔を見た分だけ決心は強くなる。笑顔が明るいと、逆に、何かが彼女の身に起こりそうな不吉な予感がしてしまう。明るい笑顔を映し出したテレビ画面が、突然の電波障害でモザイク状に崩れていく瞬間を見るような、そんな不安だ。


「姫沙紀さん、お願いがあるんです。一緒に来てもらえますか?」


 彼女はきょとんとしながらも、「ええ」と頷いた。礼人は一旦藤やに帰って、松丸に借りたディスクグラインダーを持って来た。その工具を目にした姫沙紀は「それは何ですか?」と不安げな様子だったが、彼女を促し坂道を上り、藤蔭屋敷の敷地に入り屋敷裏へと回った。その辺りの提灯も注連縄も準備が終わり、ひとけはなかった。

 土蔵に近づき二階の小窓を見あげる。そこは真っ暗な空間があるだけで、あの女の顔は見えない。土蔵の出入り口には錆の浮いた錠前がかかっていた。


「この土蔵の鍵は紛失して、開かないと言ってましたよね? だったら俺がこの鍵を壊して、中を確認していいですか」


 姫沙紀は戸惑ったように、落ち着きなく周囲に目をやる。


「え、でも。その鍵はかなり頑丈です。簡単には開かないですし、開いたとしても何があるとも思えません。しかも壊されるのは・・・・・」


 鍵の紛失は本当だろうかと礼人は疑っていた。もしかしたら小姫子が隠し持っていないだろうか。しかし彼女が隠し持っていたとしても、その口から在りかを訊き出すのは困難だろう。彼女の部屋を捜すにしても時間がかかる。


「この中を確認したいんです。姫沙紀さんを守るためには必要なことなんです」

「お気持ちは嬉しいです。でも、屋敷のものを壊すのは嫌です」


 姫沙紀の躊躇いを斟酌していては土蔵は開けない。そう判断した礼人は工具を地面に置くとケースから取り出し、電源コードを手にして立ちあがった。屋敷の外に外部電源があれば利用できないかと思ったが、生憎そんなものは見あたらない。湯殿なら電源くらいあるだろうと判断し、工具ケースの中に一緒に入れてあった延長コードを手に歩き出す。

 礼人の本気を察したのか、姫沙紀が腕にしがみつく。


「止めて下さい、一さん。乱暴なことはしないで」

「これは、あなたのためでもあるんです」

「私のためだというなら止めて下さい。お屋敷のものを壊さないで」

「そもそも、あなたはなぜ藤蔭屋敷から出ようとしないんです。ここに留まるんです。ここに留まる価値が何処にあるんですか」


 攻めるように言ってしまった。姫沙紀の目に怒りに似た光が走った。


「価値なんかありません! ただこの屋敷は私のものなんです! 私そのものなんです」


 必死の声に、礼人は歩みを止めた。


「私のためだとしても、お屋敷を壊さないで下さい。ここは私のお屋敷なんです。私が守っているんです! 私の一部を壊さないで下さい!」


 守るという言葉が礼人の胸に刺さり、姫沙紀の手を振り払ってでも土蔵を開こうとしていた決意が急速に萎む。何かを守るということは、その人にとってどれほど大切なことか、礼人はよく分かっているのだ。姫沙紀を守るために、姫沙紀が守っているものを壊したら、それは彼女の心の一部も壊すことになる。姫沙紀の目は真剣だ。懇願するよりも、自分が守るものに手を出したら、礼人と戦おうとする決意すら見えた。


(価値がないと認めながら、どうしてそれほど執着できるんだ)


 実益のためでもなく、ましてや楽しみでもなく、ただ姫沙紀は無闇に執着しているとしか思えない。その理由が礼人にはわからない。それがこの屋敷で生まれ育った中で育まれたものだとしたら、分かりようがないのかも知れない。ただ姫沙紀を支配しているかのような藤蔭屋敷に対する苛立ちが膨れあがるが、他人にとって無価値なもので、その人にとっては大切なものがあることもわかっていたので、拒絶する気持ちと納得する気持ちが彼の中でせめぎ合った。

 数分の躊躇いの後、コードを握っていた手を下ろして礼人は降参した。


「わかりました。・・・・・・すみません。乱暴な真似をしようとしました」 

「壊さないでくれますか?」


 頷くと、姫沙紀の緊張が解ける。彼女は礼人の手から延長コードを取りあげる。


「でも、姫沙紀さん。聞きたいことはあります。姫沙紀さんは小さな頃から今まで、屋敷内で家族以外の人間の気配を感じた事はありませんか」

「どういう意味ですか?」

(姫沙紀さんは、本当に土蔵の中に誰かがいることを知らないのか? それとも中に誰かがいるというのは、蒼士や俺の妄想なのか?)


 蒼士の推理も自分の感も、なにもかも頼りない気がして全てに確証が持てない。


「姫沙紀さんが小学校を卒業するまで、お屋敷には誰がいましたか」

「小さい頃は余姫がいましたが、私が十歳くらいの時に亡くなりました。残ったのは桜子お婆ちゃんと父と母と私だけです。父は私が中学生になる直前に亡くなりましたけど」

「大学を卒業して戻ってきてからは?」

「初めは母と桜子お婆ちゃんと私だけでしたが、一年後には姫奈が生まれて。去年からは麻美ちゃんも一緒に」

「どちらの時期も、その人たち以外の人間の気配を感じませんでしたか? 誰もいないはずの場所から物音がするとか、いつの間にか食べ物が減っているとか」

「なんですかそれは? まるで幽霊みたい。姫奈も麻美ちゃんも、誰かがいるみたいだと言いますけど。まさか幽霊が本当にいると一さんは仰るんですか?」

「幽霊じゃないかも知れないんです。何者かが、ずっとこの屋敷に人知れず住んでいる可能性があります。俺はそれを確かめたくて、土蔵の鍵を壊すことを思いついたんです。心配なんです。姫沙紀さんは、こんな場所に居るべきじゃない。ここを離れるのは不安かも知れませんが、俺が出来る事は何でも協力します。ここを出た方がいい。麻美さんが言うとおりだ。小姫子さんと桜子さんを病院に入れて姫沙紀さんはここを出る。その方が姫奈ちゃんにとっても、ずっといいです。俺は」


 姫沙紀の手を握った。細い指だ。


「俺は、・・・・・・協力します」


 あなたが好きですと、言えなかった。どうしても言えない。明るい日射しの下で正面から目を見て好きですというのは軽薄な気がして、協力しますと言うのが精一杯の、彼女に対する思いを伝えるための言葉だった。姫沙紀は笑顔になる。


「嬉しいです。一さん。そう言ってくれるのが・・・・・・嬉しいです」


 頬を染め恥じらうように俯き微笑む。その仕草にどうしようもないほど胸が高鳴り、期待が膨らむ。思いが彼女に伝わったと確信できた。


「じゃあ、考えてくれますか」


 沈黙した後、彼女はゆっくりと顔をあげる。


「はい。藤祭が終わったら」


 それは了承の言葉だ。姫沙紀は藤祭が終わったら、自分の人生を考え直す積もりになっていると感じた。藤祭は明日。

 礼人は彼女の手を握ったまま口づけた。明日だ。明日が終われば、姫沙紀は新しい一歩を踏み出す。元恋人がうろついていようが、人知れず屋敷に住み着く女がいようが、明日まで彼女を守り抜けば大丈夫だ。


 たった一夜。礼人は彼女を守り抜く。そして———日が暮れた。祭の明かりが灯る。

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