孤影拳『無我』

安東陽介侍

第一章 一人ぼっちの怪物 その一

 その男は野獣のようだった。


 大きな体を持ち、その肌は切傷痕がいくつも隆起してまだらに残っている。彫りの深い顔面には額から左瞼を覆うような大きな赤痣が目立つ。耳は餃子のように変形しており、鼻は潰れて少し曲がっている。更に右眉から潰れた鼻と分厚い唇にかけて縦に裂くような大きな裂傷の痕があり、傷の間から乱杭歯が覗けそうだった。


 男はそんな外見を隠すように帽子を深く被り、着古したよれよれの白っぽいトレーナーと色落ちした水色のジーンズを、その上に黒いジャンパーと茶色の首巻きを、大事そうに身に着けている。


 目立たない地味な服装であったが、不思議とすれ違う人々から視線を向けられ、すぐに気まずそうに逸らされた。それは男自身の隠しても隠し切れない容姿のせいだと思う。幼少の頃から周りにないがしろにされて、卑屈に育ったからだ。


 しかし事実は少し違う。


 一見ただの根暗な肥満の人間に見えるその肉体は、屈強で大きな骨格で構成されており、その支えを得て全身は発達した筋肉で覆われている。その体は何年にも渡ってしっかり鍛えられていた。


 男の歩き方もどこか不可思議であった。


 頭頂部から正中線を通り、恥骨まで、その下の踵まで見目よい立ち振る舞いで姿勢が整っている。常に自然体でありながら軸に一切のブレがない。僅かに引かれた顎から視認出来る火のような三白眼の灼眼光からは、獣の妖気が放たれていた。


 正に堂に入っている。現代の侍と言った感じである。


 その容姿だからではない。その男の持つ野生が周囲を自然と威圧しているように捉えられるのだ。それが群衆から男が注目されるゆえんである。


 この男、名を『夜行半月』と言う。


 初冬の夕方、肌を刺し凍てつかせる冷たい雨がしとしとと降り、アスファルトを黒く光らせている。


 その駅前の盛り場は高く積み重ねられた雑居ビルとその電飾、看板によって空を狭められている。そのせいで盛り場はどこか鬱々として街灯ばかりが明るく目立ち、人の影の輪郭を仄かに照らし出す。


 そんな盛り場の路地裏を夜行半月が透明なビニール傘を片手に歩いていた。


「ぼうや、一晩一万で……ッチ」


 バラックの前で黒いドレスを着て色目を使う女がいた。


「これが北海道のヤクザも使ってる護身用の暗器で……ぬぅ!」


 テントで派手なナイフや刀、スタンガン、メリケンサックを並べて客を集める武器商人がいた。


「……クヒクフふふ……ヒ!」


 路上に麻薬中毒で歯を剥き出しにして笑っていた老婆達がいた。


 皆、気配と直感で半月を危険と判断し、一瞥をくれるとすぐに押し黙り、息を飲んだ。


 貧民街出身で虐げられながら育ってきた。今は虐げられることは少なくなったが、代わりに疎まれるようになった。


「…………」


 半月は一台の派手な幼児向けアニメキャラクターと大きなスーパーのロゴのイラストが描かれたワゴン車の前に立つ。


 その車は駅前のスーパーの移動販売車であった。


「い、いつものを、頼む……」


 半月の声を受け、仕事をサボりワゴン車の中で新聞をアイマスクの代わりにして惰眠を貪っていた店主が煩わしそうに起きる。そして店主はタッパーに入った一リットルのアイスクリームに白米、数種類の缶詰を半月に手渡した。


 半月は人の多い場が苦手であるため、いつもこうして人気のない所で買い物を済ませる。半月はそれを受け取ると帰路につく。


 辺りに散らばっているビール瓶の破片を踏まぬように、半壊している空き家の剥き出しの鉄筋を跳び越え、悪臭のする生ゴミの入ったポリバケツを避けながら、のっそのっそと歩く。


 路地裏を抜け、しばらく歩くと寂れた商店街に辿り着く。大型スーパーに客を取られて、まだ夕方なのにいくつかの店にはシャッターが下りている。


 商店街の表通りは管理の行き届いていない盛り場とは違い、治安はそこそこに良い。綺麗にゴミが掃除され、道も石畳で舗装されている。空も広く、黄金のイチョウ並木がずらりと並び続いている。


 けれどもその景観を台無しするように、銀杏を拾い集める路上生活者と営業妨害を訴える店主が言い争っている。そしてそれを日常として受け入れている元気な小学生集団が風のように走り抜け、それを見守りつつ寒さに煽られ手早く買い物を済ませたがっている主婦も散見された。


 半月は首巻きを深く巻き、帽子を被り直し、顔を埋めて、他人と目が合わないように気を付ける。


 商店街の出入り口に隣接する形で半月の住居はあった。築四十年、二階建て木造の四畳半のボロアパートである。けれども中々捨てたものではない。薄暗くじめじめしているが雨漏りはないし、小さいが風呂もトイレもガスコンロもある。


 そこが半月の唯一の安全地帯で孤独な逃げ場所だった。


 半月はそこの二階への階段を上がろうと手すりに体を預け、傘を閉じる。そして懐から鍵を取り出そうとする。


 すると背後から気配がし、ジャンパーの裾を掴まれた。


「ぬ」

「…………っぅ」


 半月が振り向くと視界の下の方に頭が見えた。


 そのくらい半月と身長に差のある小柄な少女だった。年は十六、十七といったところで、中東かやや南国よりを思わせる褐色肌に、跳ねっ毛のある白っぽい髪を背中まで垂らして、頭頂部に黒いカチューシャを着けているのが印象的だった。そして随分と着古された灰色のロングスカートとパーカーを着ていた。


 身寄りのない子供なのだろうか? その少女は薄汚れていて、少し臭う。そして雨の中傘も持たず雨水をその身に受けていた。左手に花の入った駕籠を持ち、無言のまま何か失意の中にいるような目で半月を見上げている。


 少女は半月と目が合うと、おずおずと一輪のピンク色の花を差し出してきた。


「――――――」


 半月は僅かに驚き、どきりとする。一瞬だけ声を失う。


 皆、半月を忌むべき対象と認識して関わりを避けている。だから半月は誰かに話しかけられることなどほとんどない。しかしこの少女には関係ないのか、少女はどこか諦観したような面持ちで半月と対峙していた。


「む」


 半月は戸惑った。少女の意図が分からない。


「…………、ぁ…………ん」


 少女は声を発しないまま、再び一輪のピンク色のカーネーションを差し出してきた。それと同時にいくらかの小銭の入った小さな瓶も差し出してきた。


「……く、……口が、……利けないのか?」

「……ん」


 少女は一回頷いた。


 少女は話せないが、耳は聞こえるようだった。そして少女は手に持った花を自分に売りたいのだろうと半月は推測することができた。


「――ぃ、要らん」


 半月は落ち着いて、緊張すると出る吃音を極力抑えて拒絶した。


 本当なら僅かばかりの金銭なら恵んでもよかった。だが半月はその容姿のコンプレックス故に極度の人見知り、不用意に接近してくる少女に少しだけ抵抗を感じてしまったのだ。


「……ぁ……い」


 期待もしていなかったのか、失意に沈んだ様子もない。ただ目は死んでいて、無表情なまま少女は頭を下げる。それ以上は何かをするでもなく、脱力した様子でその場を立ち去った。


 それを見届けると、半月は小さな罪悪感に苛まれながらアパートの二階へと上がり、自室へと上がり込む。


 直ぐに自室の中央にある天井照明を点灯させる。そしてそのまま部屋の隅、流し台の上に置かれた電子レンジの中に先ほど買ったアイスクリームを丸ごと突っ込んで、五分間タイマーをセットし、存分に温め始めた。やかんに水道から水を入れ、その水をやかんの注ぎ口からごくごくと一気に飲み下す。そして余った水を窓際に置かれた拳大ほどのサボテンにやる。


 それが変わらない毎日の日課だった。


 そうして半月は部屋の隅に腰を下ろし、壁にその大きな背中を預け、虚空を見上げる。


 部屋は静かだった。商店街の賑わいは僅かに響いてくるが、それだけである。この部屋だけは街の喧騒から隔離されている。


「救えねぇ……」


 半月はそんな独り言を口にする。強く、孤高だから一人なのではない。疎まれることが怖く、臆病で弱いから一人で孤独なのだ。


 ……半月も昔はもう少し希望を持っていた。


 少ない収入を得て住居を構えた時、自分にも友人や恋人が出来るかもしれないと考え、来客用にと布団や寝巻なども二人分用意した。しかし今まで半月はここに人を招いたことはない。そして今となってはそういうことはこれからもないだろうと思っている。


 結局自分は他人と関わって生きることが出来ない、弱い人間なのだ……。もう少し自分が精神的に成熟して強く立派な大人だったら……伴侶を得て、もしかしたら子供もいたかもしれない。こんな人生は歩んでいない筈だ。


 半月はそう考えて溜息を吐く。


 半月は電子レンジのアイスクリームを待っている間、暇なのでラジオのスイッチを入れニュースを聞く。


 株価が暴落し、失業率は増加、若者の自殺率は今年も最高記録を更新して増え続けているそうだ。自動運転の最新の自家用車が路上で生活する子供を轢き、高名な政治家の自宅にドローンで爆弾が届けられ、ヤクザとの抗争に敗れた麻薬取締官が首だけとなってパトカーのボンネットに飾られていたそうだ。


 だがニュースキャスターがどんなに大量の悲報を告げようとも結局は他人事である。この厳しい時代、皆自分のことで精一杯なのだ。己のことのみを考えて生きていれば良いのだと半月は思っている。


 表面上はそう思っているからこそ、半月は先ほど拒絶した死んだ目で花を売っていた少女のことがなんとなく頭から離れない。


 心に刺さった小さな棘が気になっていた。


 半月は自身の強固な肉体を維持するため、温めたどろどろのアイスクリームと先ほど買い込んだツナ缶、それに保存してあるご飯を混ぜた食べ物とは言い難い何かを喉に流し込み、効率良くタンパク質と脂質、カロリーを摂取する。


 そして何気なく二階の窓を開け、そこから外を眺めた。


「ぬ」


 ここからは商店街入口の付近が見渡せる。


 やはりそこには先ほどの少女もまだいた。すぐそこにいた。


 雨はどんどん強くなっている。風も吹き始めている。そんな中傘も持たずに少女は人々が往来する道端で、ふらふらしながら花を差し出し、売り込もうとしている。


 だがその行為は無視され、撥ね付けられる。


 大半の人間にとってその売り込みは煩わしいだけだろう。これが道端での商売の現実だ。それでもやるのなら無差別に総当たりで売り込んでいき、極稀に足を止める人に売れれば良い方だ。


 ただでさえ喋れないというハンデがある。それなりの量を売りたいのなら効率よく、より多くの人に見て貰う他にないのだ。


 しかし少女は拒まれると一々頭を下げて謝罪するのだ。そして力無く引き返すのだ。何にも期待していないように雨空を見上げ、濡れて荒れた手を吐息で温めて、しばらくしてから次の人間に声をかけるのだ。


 ずっとその調子だった。


 酷く不器用であった。


「邪魔だ糞ガキ! 殺されてぇか!?」


 怒声が辺りに響き渡る。


「っ!」


 売り込みが少々強すぎたのか、人との距離感を誤り近づきすぎてしまったようであった。少女の花を差し出した手は通りすがりのホスト風の男に思い切り振り払われる。


 少女はバランスを崩し、水溜まりの中に転んでしまった。


 商品である花が辺りの石畳の上にばら撒かれる。


「アっ……」


 少女は僅かに声にならない声を上げながら、その男を放って四つん這いで花を拾い集めようとする。しかし人の往来が激しいため中々拾いきれない。そして誰も少女を見ても足を止めようとはせず、容赦なく花を踏み荒らして行く。


 半月はハラハラして、意味もなく部屋の中を右往左往して大きな図体を揺らす。しばらく頭を抱えて、爪を噛んだ。


「…………らしくもない」


 半月は決断した。


 そこからは速かった。


 脳ではなく心で感じ、勝手に体が動いた感じだ。


 半月は傘も持たずに部屋から跳び出すと階段を駆け下り、ずいずいと人の波を掻き分けていく。その巨体と獣のような眼光を見せれば往来する人も半月を避けて通る他にない。


「スーツが汚れただろ!? 聞いてんのか!? 汚ぇクソガキがっ!」

「ッ」


 ホスト風の男が四つん這いになり縮こまる少女の腹部を蹴り上げようとした。少女も暴力に慣れているのか、怖がっているのに無抵抗だ。


 その状況を確認すると半月は少女の前に立ち、この男と対峙する。


「……つ、ツレが何か? ……失礼を?」


 普段の半月は人見知りで初対面の相手と話すと緊張してどもってしまうが、今は少しだけ落ち着いていた。貧民街出身が故に、荒事が絡んだ時の方が普段より冷静なのだ。そのまま半月は男と対峙しつつ、その巨体で少女を襲う冷たい雨、激しい風を受け止めた。


 少女は半月の存在に気が付き、不思議そうに顔を上げる。


「てめぇ、なんだ?」

「ほご、保護者、です……」


 勿論嘘である。少女とは初対面だ。


「ガキのお守りくらいしっかりやれや!」

「す、すみません」


 半月は少女の代わりに謝罪し、頭を下げた。


 ホスト風の男はポケットに手を突っ込んだまま、足を上げて半月の左太腿を蹴った。


 だがこの男が華奢な体付きなのに対し、半月の体は縦にも横にも大きい。小さな男に蹴られたところでビクともしない。むしろバランスを崩したのはこの男の方であった。


「っとと」

「…………すみ、すみません」


 半月は再び謝罪するが今度は頭を下げなかった。しっかり相手を見据えていた。


 なぜなら激昂した相手がナイフなどの凶器を懐やポケットから取り出し、有無を言わさず切りつけてくる可能性があったからだ。


 この時半月には相手が刃物を取り出す素振りを見せた瞬間に、自身の左手で相手の右手を抑え、右手でホスト風の男の鼻を掌底で打ちつつ、相手の頭を背後の電柱へぶつけさせるという流れが視えていた。


 戦闘への心の準備が出来ていた。


「チッ、次はねえぞ」


 ホスト風の男が最後にそう言い残す。


 半月は「以後気を付けます」と返事をし、事が大きくならずにほっと胸をなで下ろした。そのまま男が雑踏に消えるのをしっかりと見届けた。


 そして半月は振り返り少女を見つめる。


 半月は上半身に着ていたジャンパーを脱ぎ去ると、雨に濡れぬようにと少女の頭にかけた。そして半月はゆっくりと濡れた地面に膝をつき、少女と同じ四つん這いになると一本ずつ花を拾い始める。


「この花、……その、う、売って、くれないか?」

「…………ゥ」


 少女は少し驚いたようであった。少女の濁った瞳に光が戻ったような気がした。そして彼女は半月に頭を下げた。


「…………ん」


 そして少女は一輪のピンク色のカーネーションをそっと拾い上げる。そして半月の体をお腹からペタペタと触り出すとその感触を確かめ、胸、首、顎、耳へとその両腕を上げていく。最後に頭を撫でると半月の髪に花を挿した。


「ぬぬ……?」


 半月は首を傾げる。


「フ……フ」


 少女は僅かに一滴だけ涙を流すがすぐにその涙を拭い、戸惑う半月を見て可笑しいと言うかのように微笑んだ。


 半月は少女に対し初対面ながらどこか心を無くした人形のような印象を抱いていた。しかしこうして見ると少女は泣いたり笑ったり出来る同じ人なのだと思い直した。そしてその微笑みは年相応であり、それを引き出せた半月は自身の心が満たされていく感覚を覚えた。


 今はただ、吹き荒れる嵐すら心地良い。

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