一人の大学生に起きた、少し不思議な病との記録。

星下めめこ

ボクの話をしよう――

 退院から一年以上が経った。

 備忘録の意味も兼ねて、コレを書き上げようと思った。


 これは一人の大学生のちょっと不思議な、しかし本当に起こった精神疾患との闘い。

 大学については辞めようと思う。後述するが、主な原因は大学――というか、自分の選んだ環境と生み出したモノにあるから。


 先ず初めに、この短編を読む人へ。

 しがない短編を読みに来てくれてありがとう。読んでもらえることは素直に嬉しい。だけど間違った理解をして欲しくは無いから、次の文章を添えようと思う。

 ボクはを強要したいとは微塵も思っていないから。


 これはボクという人間の僅かな時間の記録であって、全人類がそうなれとは微塵も思っていない。解釈は自由で、考え方の一つにこういうのもある、というのが前提。

 ボクと他者を同じくは見ないで欲しい。あくまで、これは短編を書き起こしたボクという個人の体験と考えに過ぎないのだから。


 その前提は崩さずに、ボクの長い独り言に付き合って欲しい。

 それだけボクが語る精神とは、まさしく人それぞれの様相を呈した難しく繊細な個人の領域であるのだから。


 それでは、ボクの体験した事実や思い出をのんびりと語っていこう。

 後半は大いに主観が入るかもしれないが、それをどう受け取るかは自由だろう。だからボクも自由に書いていこうと思う。


 発端は2020年8月半ば。

 大学のテストが一区切りして、次なるテストの群れに備えるお盆休みに入った時だ。


 自室で勉強していたら、積み重なった漫画の上に乗せられたぬいぐるみ達が動き始めた。

 某夢の国にて購入可能なモンスターズな会社の青い被り物はこちらに握手を求める様に、某リラックスしたクマは下にいるビーズの詰まったぬいぐるみからビーズを取り出して床に投げ捨てるなど、この時ボクは三人称の視点で物事を見ていたと記憶している。


 そしてボクは急性一過性精神病性障害という病を患った。

 コレは主にストレスが原因だとされている。その意見には賛成しているし、これを認めている今もストレスは己の敵だと認識している。


 理由は恐らく――いや確実に私立薬学部の期末試験だろう。テストそのものは乗り越えられるが、。だからこそ以前からテスト期間は食べ物が入らず、食べても吐いてしまう日々を送っていた。

 この僅かなミスすら許容出来ない己が生み出したストレスこそが発病の大きな理由だろう。そうでなかったら、ボクの二十数年で積み重ねてきた罪の現れとしか思えない。


 気休めの恋人とのデートでもボクは食べ物を食べられなかった。食べ物の匂いを嗅ぐだけでも吐き気を催し、水分を摂っても喉を通せずに戻してしまいそうになったのは今でも覚えている。

 不甲斐ない恋人とはボクの事だろう。

 かなり心配を掛けたと思う。当時はそんな弱りきったボクを見て心配してくれるあの人はありがたい存在だった。


 帰りの電車に乗った景色は何処か他人事の様に映る記憶しか無いから、恐らく大学の帰り――お盆休みとなる前のテストを終えてボクの体はというやる気を失くしたのだろう。


 そうしてボクは発症し、入院した。


 地方に住んでいたが、初めは大きな病院――総合病院に連れていかれたらしい。

 、というのは記憶がないから。記憶があるのは9月の頭から。何日かは覚えていないが、9月になっている事を認識したのは覚えている。

 総合病院入院中、どうやらボクの言動から統合失調症も考えられたそうだが、人間の受けられる全ての検査をクリアした結果、その線は消えたらしい。そして地方の病院で面倒を見てもらう事になったそうだ。


 この時――総合病院入院中――のボクはあのジョン・タイターと、殺し屋のジョーカーと友達になっていた。夢で見ていた記憶はあるが、まさか現実にもそれを口にして母に説明していたとは、驚きである。

 タイターとは壁越しで話したり、抽選大会の様なものを一緒に楽しんだり、その時の拘束されている現状を朧げに理解しているボクについて、その状態を治せる薬をテニスラケットで発射してボクが掴むという遊びをした。抽選で高級なお酒が貰えた時は喜んだが、誰かに飲まれて空瓶が転がったのは今でも悔しく思っている。


 タイターとの記憶は一旦そこで区切りを迎えた。


 テスト期間だったせいかテストの夢も見た。

 「ジョーカーの人生について」というテストだった。しかも三回程受けて、受験者には内緒でジョーカーはボクに答えを見せてくれた。殺人鬼にしては優しい存在だが、生憎とボクはジョーカーの出る作品は見た事が無い。

 後から調べて映画に出てくる敵役のジョーカーだと知った。見た目はボクの幻覚の方が毛量が多いと記載しておこう。


 ジョーカーとの記憶は外国産の車で大勢の人間を撥ねたり、化学的な薬物で殺人をしたりと過激な内容だった。

 立体駐車場を爆走した記憶は鮮明なもの。警察に掴まってから即座に開かれた裁判で、その時のボクは人を撥ねて回る際に大層な笑顔を浮かべていたからと情状酌量の余地なく有罪判決を喰らい、死刑を言い渡されたのも覚えている。

 その時は何度もタイムリープをして死の直前を体験した。


 意外にも本物のジョーカーも薬品を扱って犯行に及ぶそうだから幻覚とは面白いものだ。


 友人との記憶は学校で行われる予定の「薬剤実習」を基にして作られた幻覚で、ボクが見たものは車椅子に乗って学校の中にテレポートするという突拍子も無い幻覚だった。

 その時の現実のボクを見た母は「未来の乗り物に乗っている」と語ってくれた。確かに運転手付きの階段を登れる三人乗り車椅子はある意味で未来の乗り物なのかもしれない。

 この時はタイターとその子供がボクの近くに居たらしい。なんとも無邪気に何かの乗り物に乗るボクは楽しそうで、自分は混ざれないから大変だったとは母の談。


 ナースコールを連打したり、お隣さんから叱られたり、とにかく破茶滅茶だった。

 暴れない様に拘束されていたから、全て夢だが。


 ホワイトボードに書かれた文章を消す為に母を乱雑に扱っていたらしく、しっかり消さないと消し残しを指摘されたとも聞いた。ホワイトボードでの勉強はボクにとって不思議なものでは無く、大学の自習室に設置されていて良く活用したからこそ見た幻覚だと思われる。


 だが何も夢ばかりではない。現実も薄っすらと見えていた。それは覚えている。


「ここは何病院?」

「総合病院です」


 こういったやりとりをした記憶もある。

 トイレに向かう景色は覚えている。排泄した記憶は無いが、頻回にトイレに向かう景色だ。


 その後は地方の病院へ移されたというのも夢で見た記憶がある。

 ボクは精神と肉体の繋がりが強いらしく、精神がやられて動く事が出来なくなっていた。手先の器用さ、歩行能力を失ったから、車椅子に乗せられて総合病院を去ったのをなんとなく覚えている。距離はかなり離れていたが、自分の意識では五分足らずで移動を終えたと認識している。

 その後はジョンタイターやジョーカーに会う事なく意識はブラックアウトしていった。


 そうして目覚めた9月頭。お盆休み明けのテストは勿論落ちていたが、後から聞いた話では受けた記憶のないお盆休み前最後のテストは評価S――90点から100点、もしくは100点以上――で合格していたそうだ。

 自慢ではないがその年の殆どのテストはSで合格していた。というより、そうしなくては不合格となり留年し、親に大変な迷惑をかけると思っていた。実際に、勉強量に圧倒されて脱落する人を知っているから。だから、身を削ってでも薬剤師になろうともがいた。

 一番でなくては、高校生までを遊んで暮らしたボクは誰からも忘れられて落ちこぼれると思っていたから。


 その結果がコレだ。

 失敗した先達として、自分の心身を削る勉学はオススメしない。適度に休んだ方が良いとボクは思う。勿論、完璧を追い求める姿勢は素晴らしいとも思うけれど。


 話を戻そう。


 目覚めた病院では最初車椅子でびっくりした。足の感覚も指の感覚も痺れとまではいかないが、なんだかおかしい。脚は骨が表に出てるとすら思えるくらい違和感があった。

 そんなこんなで車椅子生活が始まると思いきや、意識の回復と同時にどんどん調子は元に戻っていき、一月足らずで歩いたりはできるようになった。これは後から述べるが階段の登り下りも出来た。

 精神病棟――それも閉鎖病棟に居たが、意識が戻った頃からそこに居たから何の苦もなく受け入れられた。それに午後1時から始まる作業療法はとても楽しく、革細工でコースターを作ったり、小銭入れを作ったりもした。

 看護師さんとも仲良くなり、精神科の薬剤師になるのも悪くないなとか思ったりして日々を生活した。


 そして2020年10月27日に退院した。

 一過性のもので、だからこそ体に残る違和感は月日がどうにかしてくれると思っていた。

 精神疾患についての勉強もしていたから、ボクは一過性という診断でまたあのテストというミスが許されない環境に悩まされる日々に戻るのだろうと考えて家に戻った。


 退院してからはちょっとした勉強、薬学部の四年生後期に行われるCBTという試験に向けての基礎的な勉強を開始し、どうせ留年するんだからとみっちり基礎を固め直そうと思った。

 足は完全に回復せず、少し違和感があったから母親と家の周りを散歩したりするなどしてリハビリもした。歩いて20分のコンビニまで行ってお菓子を買ったり、一時間くらいかけて駅前の本屋さんまで行って漫画を買ったりもした。

 100円ショップで植物みたいな物を買って瓶に詰めるハーバリウムの真似事もしたし、手先の器用さを取り戻すのにビーズで遊んだりもした。


 そしてまた、ボクの意識がなくなる。

 この時どうやら歩行がおかしく、壁伝いに家の中を歩いていたそうだ。

 それに気づいた母が家族に再び地方の病院に連れて行く様に指示した。


 この時、母はステージ4の唾液腺導管癌の一つにして希少癌と呼ばれる耳下腺癌を患っていた。日々の何気ない肉体的な疲れと、敬愛する母がそんな状態であると知ったボクはとても耐えきれなかったのだろう。

 元から目に見えて腫れ上がっていたし、触った感覚からなんとなく癌だとは思っていたが、ボクの精神はその宣告に耐えきれなかったのかもしれない。

 尤も、今回はソレが原因なのかは分からない。ただ単に疲れたから精神が壊れた可能性すらある。その辺の追求は先生と重ねている。


 今でも、再発を告げられない事を祈る日々だ。


 2020年11月27日、ボクは再び閉鎖病棟にて隔離された。

 この日は奇しくも母の癌検査日。キリスト教の祖父母や母は神様のお陰でボクは母を病院に送れ、手術をさせられたと語ってくれた。


 退院後に聞いた話ではあるが、ボクの患った病気は「解離性転換性障害」という病らしい。あくまでも推測に過ぎず、本当にその病なのかはまだ決まっていない。

 今も再発するのではないかと僅かな恐怖はあるが、楽しく小説を書いて過ごさせて貰っている。


 そして今回二回目の入院は長くなった。

 結論から言えば、先に挙げた日にちから一年以上も離れた2021年12月23日まで入院していた。


 入院初期は勿論記憶はない。

 ただ何かの夢を見ている様で、自分がナニカになった様な感覚を覚えた。人魚となって卵を産む痛みは叫び声を響かせる程で、担当の看護師さんがいつもボクを気にしてくれていた。

 壁を叩けばその人が来ると分かったボクは手の甲がどうなろうと壁を叩き続け、五月蝿いから辞めてと言われて一時的に従った。勿論精神の壊れたボクは同じ方法で何度も看護師さんを呼んだ。以前の入院で仲良くしてくれた人だと判断したから、きっと構って欲しかったのだろう。


 初めの頃はやはり排尿も自力では出来ず、管を入れていた。僅かな痛みを覚えるそれは、微かに覚えている。

 退院した今も排尿筋を補助する薬を飲み続けいる。


 そんな入院の初期は長い夢を見ていた。

 某忍者漫画の世界、海の中の世界、とにかく長い夢を見ていた。

 前回同様、夢での行動は現実ともリンクしており、壁を叩く行為や、大声で叫ぶという奇行を繰り返していたらしい。隔離はせずに閉鎖の中でも一般的な病床に居たらしく、同じ部屋の人には多大な迷惑を掛けた。


 病状が安定したのは12月15日。

 これははっきりと覚えている。大学生となって、人生で初めて出来た恋人と付き合った日だから。

 「ああ今日は12月15日なんだな」とはっきりと認識したが、身体は鉛の様に重く、自分の手で食事を摂るのは非常に困難だった。

 

 きっとあの時のボクに相応しい言葉だ。事実金属製のスプーンは持てておらず、看護師さんに食べさせて貰ったのを鮮明に覚えている。


 以前とは違い、意識が回復してもボクの四肢は良くならなかった。11月に入院して、翌年の5月くらいまでは車椅子で過ごしていたと思う。歩く為の訓練はもう少し早くから開始していたと思うけど。

 詳しい日付は覚えていないが、一通り歩ける様になるまでは車椅子をお守りとして使用していた。


 前回の退院から直ぐに戻ってきたボクに、前から居た人や新しく入ってきた人達は優しかった。

 独自の世界観を持った個性的な人でしかなく、ボクの体験した閉鎖病棟は平和な場所であった。時折危ないとは思う時もあったが、退院した今でもあの空間を偶に求めてしまう程に、ストレスフリーな場所だった。


 機能を回復するにあたって、先ずは立ち上がりからの練習。

 仲は良いがほどほどに意地悪な看護師さんは目の前に壁がある場所で立ち上がりの訓練を開始した。

 やがて立ち上がりが出来る様になった時、人間は目の前に物があると立ち上がりにくいとはその看護師さんの言葉だ。患者との付き合い方も独特だから、仲は良いけど好きにはなれないタイプ。


 続いては歩行の練習。

 U字型の歩行機と呼ばれる物に、最初はもたれかかる様に体を預けて歩き始めた。二月ふたつきはこの訓練をしていた気がする。

 それを卒業したら、壁に備えられた手すりを使っての歩行訓練が始まった。毎日続けていたからか、20代という若さ故か、バランスの取り方に苦労したが、やがて手すりを使わずに歩けるようになった。

 バランスは退院した今でも課題の一つだ。片足立ちが数秒しか出来ないし、歩けないなりに歩こうとした弊害で癖の付いた歩き方は今でもリハビリ担当の訪問看護――理学療法士さんの人と矯正している。


 今のリハビリは固まった筋肉を解すのがメインで、ボクの運動性機能障害として一番の問題である下肢の訓練をしている。

 脚を曲げたり、伸ばしたり、脚を回したり。

 最初の頃はふくらはぎの筋肉が張っていて違和感しか無かったが、これを書いている時点では最初と比べるとかなり筋肉の張りは解れたと思う。


 2022年の2月からリハビリを開始しているが、どうしても精神的なものに起因する障害だからか、動かしても一気に良くなったりはしない。

 元の状態に戻らないケースもあると学んでいるし、リハビリの人からも言われてるからボクはのんびりやっていこうと思う。


 焦って失敗したから、今は時間の許す限りのんびりと事を進めていきたい。


 ボクの入院した閉鎖病棟での生活は、多分世間一般の人達が思ってるより快適だ。地方の病院だからかスマホはいじれないし、見たいテレビは多数決で決まるけど、ストレスはなかった。


 ボクの受け入れ態勢――これはボクと母が良く口にする造語の様なもので、文字通り何かを受け入れる態勢が整っていた為に環境への適応があったからか、唐突に暴力を振るわれた際もただただびっくりしただけだった。

 その子は看護師さんにかなり怒られていて、ボクとしては肩を強打されただけだからそんなに怒らなくても良いのにと思ったけど、その子にはそれをしなくては通じない。言い方が悪いが、世に広がるイメージ通りの精神障害を患っているから。

 悪意は無いから、病気だから。そう思えばボクは許せた。その子には自意識こそあれど、やはり障害を抱えているから誰かが代わりとならなくては意思の疎通が難しい。何人もの看護師さんがボクに謝ってきた。

 仲の良い病棟の主任はボクの殴られた箇所を「失礼します」といって見ていた。大事になったなぁとは思う。

 その後は隔離されてしばらくは出てこなかったけど、ボクが退院する前にはちゃんと保護室から出して貰えて看護師さんの付き添いの下きちんと謝ってくれたから、その時からかなり時間も経ってるし、特に不満も無く許せた。


 ボクはボク自身及びボクの愛する何かに危害を加えられたら、そりゃあ怒る。

 偶々その子がそういう状態だから許しただけで、菩薩の笑みは生憎持ち合わせていない。足が健全だったら、その子がボクに悪意を持って殴って来ていたら、骨を折る勢いで蹴った事だろう。

 ボクは自分が優しいと思う時は、大抵碌でも無い事をしている時だ。そんなだから、天罰として入院したのかもしれない。


 話は変わって、中にはボクを起こしに来る人もいた。


「飯だ、飯だよ、起きて、起きて」


 ベッドを揺らすから寝ていても起きてしまう。

 暫くは許せたけど、朝ご飯には30分もあるから流石のボクも怒りを露わにして叱った。精神疾患となってから不眠気味になったボクの心地良い睡眠を害されては堪らない。「君も怒るんだね」と廊下で見ていた看護師さんは笑っていた。


 またまた話は変わって、かなり独特な人も居た。

 おやつのチョコチップアイスや甘いで有名なあのマックスなコーヒーの確認を入念に行う人だ。その人からいきなり話しかけられ、「爪切った方が良いですよ!」とビートたけしさんみたいな声で言われた。

 その人はどうしても爪が切りたいからか、伸びてない爪すら切ろうとして色んな看護師さんに注意されてる人だった。


 本当に色々な人に出会えた。


 ボクの事を心配してくれるお爺さん達がいた。大丈夫なのかと見守ろうとしていた。気配りが出来るのだ。

 薬剤師を目指してそういう病気についても調べていたボクとしては驚きだった。


 こうも人らしいのか! と。


 偏見は良くないと思った。

 完璧と思い込んだ学びも不十分だった。


 小学生の頃に発達障害の子がいて、閉鎖病棟は必然的にそういう人の集まりだと思っていた。話が通じず、支離滅裂な存在が多く居るのだとボクは思っていた。

 そんな事はない。

 国の決めた異常に分類されるだけで、優しい人達が多かった。他の病棟の人と関わると、若いボクを見て「あなたは何歳なの?」と尋ねる気の良い人の方が多かった。むしろ国にだと決められている分その人と接し易いかもしれない、とさえ思う。


 様々な人に会った。

 退院しても、すぐに戻って来てしまう人。

 自分の思う通りに生活する人。

 本当に異常があるのかと疑ってしまう人。

 将棋の楽しさを教えてくれた人。

 オセロの戦い方を楽しげに語る子。

 みんなが想像する様な人。


 みんなそれぞれが心に傷を背負っている事にも気づけた。

 手の震えが止まらない。

 不安で仕方ない。

 自分は生きてていいのかと悩む10代。

 妄想が止まらない。

 突如感情が大きく揺れ動く。


 嗚呼、それでも良いと思った。

 薬を飲めば彼等彼女等は一旦は落ち着く。

 暴れて椅子を投げ飛ばす人も、鎮静の薬を注射すれば反省する。突飛にそういう行動をしてしまうだけなのだ。

 隔離してしまえば、その人のいないだけの日常が始まる。夜中に問題を起こす人は朝ご飯の時に顔を見ないだけ。


 

 それがボクの体験した閉鎖病棟での日々だ。


 喉が渇くからと水道水を隠れながら大量に飲んでおねしょをしてオヤツを止められたり、勿体ないからと残飯に手を伸ばしてみたり、人に迷惑をかけたから隔離されたり。


 退院した今は壮絶な体験を君はしたんだよ、と良く言われる。

 五年生存率の極めて低い母からも、もう頑張る時期をボクは人より早く終えただけだと暖かい言葉を頂いた。


 ボクとしてはそんな壮絶な体験をした感覚とやらは一切無いけど、普通の感性だと精神科の閉鎖病棟とはどうやら魑魅魍魎の跋扈する人外魔境に思われてるのかもしれない。


 そんな事はない。


 自分の病に悩みながら生きている。

 再び入院するかもしれないと怯えてる。

 これはボクも同じだ。


 向精神薬を服用して、時折逸脱するだけ。ボクは入院患者さんも見てきたから通院して思うけど、明らかに精神的に病んでる! この人おかしい! なんていう人は稀である。


 


 それだけなのだ。

 そう、それだけ。


 勿論これはボクが見てきた一つの例に過ぎないから他の理由で悩む人も多く居るとは思う。だけど、ボクが思った感想はその一言だ。

 これはボクが体験した、神様とやらが与えてくれた「気付き」の一年間だと思った。


 更に面白い事に、ボクは人が死を受け入れる五段階と非常に似た感情を病院で過ごしている。そして矛盾も。

 どうしてボクが! どうして母がそんな大病に! 否定と僅かな怒りを覚えると共に涙を流した。そして毎日の日課にこれを取り込めば神様がどうにかしてくれるという取り引きもした。病状の最初期は眠る前に良く神様とやらの声を聞いて取り引きをした。一般的な抑うつは経験して無いけど、全てを諦めてボクは最終的に受け入れる事が出来た。

 今では病気になった上に未来もよく分からない状態になったけど、少しだけ解放されて気は楽だ。高い学費を払って通わさせてくれた大学とは離れる予定だが、小説を書く自由を与えられて――大学卒業の資格と薬剤師という肩書きは得る為のチャンスは失くしたが――日々を楽しく過ごせている。

 それに、こんなボクに寄り添ってくれる友人もいる。


 先程書いたボクの抱える矛盾は、母がボクの二度目の発病を見た時だ。ボクは指先の定まらない手で「かみさまはしんじないけれど、おかあさんをたすけてください」という一文を書き残している。

 キリスト教の家系に生まれたし、幼い頃はミサにも参加したが、結局洗礼は受けてないし、ボクは所謂現代的な――基本的に日本的な無神論者だと自覚している。都合の良い時だけ神様を利用するそこらの人間と変わらない。


 そして、ボクは退院して2022年という療養の一年を過ごして精神疾患に対してこう思う。


 精神疾患とは誰しもに訪れる可能性を秘めたものであると同時に、一度発病してしまえば酷く脆い存在に変わる、と。


 これは自分の体感だが、ストレスに対してかなりボクは弱くなった。今では少しなら耐えられると思うが、ストレスフリーな入院生活から解放されてからの外で過ごす僅かなストレスはボクの体調を少し悪化させた。

 だからボクは、ストレスという水を受け入れられるコップには人それぞれ大きさの違いがあり、一度発病すると歪な形になるか小さく、亀裂の入った物に変わると考える。


 脳機能の異常が精神疾患の主たる原因だが、ボクは「こころの病」とも呼ばれる精神疾患に対してこういう見方もあると示したい。


 そして我が子が、最愛の人が、自身に関わる誰かが突発的に発病した時、どうかの一言で済まさず、気兼ねなく普段通りに接してあげて欲しい。

 少なくともボクはボクの友人とこれまでと変わらないくだらない会話で楽しんでるし、自虐的に母とお互いの病気についてジョークを飛ばして笑っている。だからその人に合わせて、付き合い方というものを考えて欲しい。


 さて、ここまで読んで中には知人は精神疾患だが、「病気には見えない」と思う人も居るかもしれない。身体の障害とは違って目には見えないものだから。

 だからこそ分かってほしい。その人は多分ボクの様に割り切った人か、必死に隠している人だ。その人が辛さや病の気配を見せないのはあなたを思っての事だ。……まぁこれは、恐らくという枕詞が付くけれど。

 ボクの文章を鵜呑みにして気軽に接し過ぎるのも考えもの――それだけとは難しい問題とも言える。


 だから知人がもし精神科に罹っているのであれば、この言葉を胸にしまっておいて欲しい。


 

 どうか悲劇の主役だとは思わないで欲しい。

 少なくともボクは、精神疾患というものをその身に宿してもあなたとは今まで通りの関係で在りたいと思う。


 これを読む精神科に罹る人で共感してくれる人が居てくれると嬉しいが、これはあくまでボクの主観だからなんとも言えない。

 教科書にも乗っていない事例だから――故にボクはノンフィクションの短編としてこの文章を残そうと思った。


 余談だが、精神疾患になって軽度の不眠も患っている。

 薬を飲んでも中々寝付けないのは大変困りものだ。

 薬を飲まなきゃ眠れないの? 昼間に動けば眠れるよ! などと宣う輩にはこの辛さを理解して欲しい。そんな安易に解決したら残薬が日に日に減って次の診察を早めなければと考える地味な辛さはきっと理解されないのだろう。本格的な不眠を患う人もそうなのかもしれないが、ここで一言。

 

 ボクだけなのかもしれないが、これも是非覚えておいて欲しい。不眠時の頓服は次の診察まで出るわけではない。眠れない日々を過ごす人にとっては、かなり厄介な事案である。


 薬で眠れたらどれだけ楽か。

 この辛さは、理解出来ない方が幸せだろう。


 余談ついでになるけど、これで本当に最後。長々と書いてきたけど、簡潔に纏めるのならこの訴えが全てを表してる。これだけ見てくれても構わない。ささやかな願いってやつ。


 またいつ発病するか、母の癌を含めて、ボクはそれが――再発が怖い。

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一人の大学生に起きた、少し不思議な病との記録。 星下めめこ @2525kouyadoufu

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