もう誰にも止められない。

@TANAM

第1話 アグリ・エリアの1日の始まり

 ノノルは、今年10歳になったばかりの農家の長男だ。

 この日、ノノルは、家族、親戚と一緒に4家族合わせて大勢で農作物の収穫に来ていた。ここは、イストリア・ダンジョンのアグリ・エリアだ。そして、夜の闇が薄れ始めたばかりの早い時間だった。何せ農家は、朝が早い。


 4家族は、ダンジョンからほど近いエリアに住んでいる。石と煉瓦で造られた集合住宅の同じ棟だ。ここまで来るのに、さして時間がかかるわけではない。作業開始の時間が、とても早いのだ。ダンジョン農家の宿命といってもよい。

 「今日もがんばるぞ!」

 ノノルは、眠気を覚ますかのように、大きな声を張り上げた。この歳では、宿命などというものを意識などしていない。人生の枠はまだ狭い。与えられた役割を果たすだけのことだ。


 威勢だけはよかったが、まだ頭はボーとしていた。上を見上げるとダンジョンの空が、まだ薄明りの気配を残しつつ、次第に解像度を高め、その明るさを増してきている。

 彼の役目は、せっせと野菜を収穫することだ。この夏の季節には、トマト、ズッキーニ、パプリカ、ナス、葉物に、ウリやスイカも人気がある。どれも大ぶりで立派に生っている。


 収穫作業をしている今の場所は、見渡す限り畑が開けている。その畑の中には、唐突に、オレンジやレモンなどの果実の木がまばらに生えていた。大人たちは、そんな果実も一緒に収穫する。ノノルの背では、果樹の果実に手が届かない。野菜だけなのだ。


 ノノルは、この日も傍らの大きな籠にせっせとトマトを、もいでは放り込んでいた。子どもには、1種類の作物に収穫の作業を集中するのが効率よい。いや大人だってそうかもしれないが、いろいろ欲が出るのだ。手の届くところに美味しそうなオレンジがなっていれば、誰だってほしくなる。


 トマトは一番採りやすかった。ノノルのような子ども向けの収穫物だったのである。だがこのトマトは、貴族から庶民にまで人気がある。そして、皆にとって、この時期に欠かせない食材であった。

真っ赤に熟れたその実は、見るからに美味しそうだ。かじってみれば、瑞々しく肉厚な、野菜の甘みと旨味が凝縮されたトマトである。


 『美味しそうだな・・・』

 ノノルのお腹がグーと鳴った。実は、朝食はまだだったのだ。だが、収穫が終わらないと食べ物にはありつけない。収穫の時間は、未明から早朝の正味2刻(2時間)程度しかないのだ。みんな時間と勝負をしている。


 しかし、時間と格闘しながら収穫の作業を終え、帰りがてらに1つ余分にもいだトマトは自分の獲物になるのだ。朝食代わりにそれを、口の周りをベトベトにしながらかじる楽しみは、何物にも代えがたい。


 ここ、アシナルド王国のイストリア領には、領地名を冠したイストリア・ダンジョンがある。小高い丘の壁面に、大きな洞窟がポッカリと口を開く。その入り口は、外から見ると真っ暗なのだが、一歩踏み入れると、中は外と同じ明るさだった。

だが、外とは明らかに空気感が違う。入ったばかりであっても、もうそこはダンジョンの内側なのだ。


 ダンジョンの入口を通ると、そこにはフォルムと呼ばれる広場が広がり、その先に壁面が立ち塞がる。だが、そこには大人の身長の数倍の高さと幅のある6つの洞窟が平行に並んでいた。その向かって一番右の第1の洞窟を入ると、そこはアグリ・エリアだ。

 洞窟をくぐったことが信じられないほどの、広々とした大地が開ける。一面の畑、遠くに見える丘、そして抜けるような高さを感じさせる空がある。外の世界のどこかと言われれば、一見区別が付かない。


 アグリ・エリアでは、農作物を収穫できる。育てるのは、ダンジョン任せ。不思議なことにアグリ・エリアにも季節がある。そこで採れる野菜や果実の種類は、地上のものとほぼ変わらない旬の実りだ。だがそれは、あくまでも種類だけだ。


 ノノルの家族は、アグリ・エリアの収穫専門だった。土地もなければ、作物も作ってはいない。ここで収穫した農作物の大部分は商業ギルドの仲買人に売る。そして残りの一部を加工したり、行商で販売したりするだけの、アグリコーナとよばれる農家だった。


 もちろん普通に地上で農業を営んでいる農家もいる。こちらはアグリコーラとよばれる。何せダンジョン産の農作物は特殊なのだ。ダンジョン産だけでは、農作物の需要は到底賄えない。


 収穫したあとに、乾燥させ、脱穀し、挽いてふるいをかけなければならない小麦。油を取るためのひまわり、菜種にオリーブ。保存をして調理をする豆や根菜類。それに、ダンジョン産の農作物がその日の内に届かない地域の住民や庶民が日常的に食べる野菜に果実。これらは普通にアグリコーラが栽培する。


 何せダンジョンで収穫される農作物は、足が速い。その日のうちは、生でもとても美味しいが、翌日にはみるみるうちに萎びて味がなくなる。

 その日にとれたダンジョン産の野菜のサラダやスープは、富裕層の食事に欠かせない。果物も同じだ。お茶会や食事のデザートには、ダンジョン産のオレンジ、レモン、ウリやスイカがふんだんに振舞われる。貴族を始めとした富裕層では、こんな贅沢が習慣になっている。

 ダンジョンの農作物も、その日の内にトマトソースのように熱を加えて完全に加工すれば、劣化を防げる。そのための加工も盛んではあった。


 ノノル一家のようなアグリコーナが未明から収穫に励むのには、早朝に出荷しないと、一日しか持たない収穫物の価値が下がってしまうことだけではない。ほかにも理由がある。

 入れ替わりに、2番目の洞窟の先に広がる鉱山地帯、フォディーナ・エリアで大規模な採掘・運搬作業が始まるのだ。イストリア領の運営する公の事業だ。金、銀、銅、鉄、それに岩塩まで採掘できる。イストリアの歳入を占める最も大きな事業だった。


 フォディーナ・エリアで作業が始まれば、フォルム広場がたちまち鉱物で埋まる。ダンジョンの出入り口に、鉱物を運搬する大きな荷車が往来する。筋骨隆々の巨大な牛が、何頭も待機し、これを運び出す。ダンジョンの丘の裏手から製錬所のある区画まで、鉱物が山と積まれた荷車を牽いていくのだ。


 こうなると、アグリコーナと仲買人が収穫物を受け渡ししていた長閑な雰囲気は消え、フォルム広場は、男たちの怒号と喧騒に包まれる。うかうかしていると荷車に撥ねられる。もはや、収穫した農作物の受け渡し、運搬など悠長にやってはいられないのだった。

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