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 その日の名戯みょうぎ達悉たつしの朝も憂鬱だった。


 カーテンを閉じても透過する、太陽が降らせた暴きの光線。

 快晴という言葉に、「快」という字をくっつけた人間は、きっと自分を恥じた事など一度もなかったに違いない。

 自分を覆い隠して消してしまう、暗闇の安らぎを知らないのだと。

 彼はいつもそう思っている。

 朝食はいつも通りにパス。一日三食なんて贅沢は、遠い夢の国の中の事象である。


 それに彼の場合は、食べると逆に気分が悪くなる。

 頻繁な食事は、精神的苦痛でしかない。


 安住の石をひっくり返された地虫のように、煎餅布団から這い出て見れば、珍しく母親がまだ支度中だった。

「たっくん、おはよう。お弁当はいつも通りに机の上ね。今日は冷食のコロッケ入ってるから。晩御飯はお願い」

「うん、ありがとう母さん」

 ワンルームの安アパートである為、正直見ればすぐ分かる伝達事項。

 それでも、滅多に無い親子の会話だ。大事そうに噛み締め、少しでも多く・長く続くことを祈る。

 けれど、やり過ぎてもいけない。

「ごめんねえ、育ち盛りなのに満足に食べさせてあげられないし、家事だって…」

 このように、彼女の中で負い目が膨らんでいってしまうから。

「大丈夫。僕料理とか掃除とか好きだよ?母さんの方こそ無理しないでね?」

 最近は特に顔色が悪い。

 彼が不安になるのも無理からぬ話だった。

 それでも、彼女は働かなければ。

 息子の未来を狭めたくない。その一心で止まらず進む。

「学校はどう?楽しい?」

「うん、僕と遊んでくれる良い人ばっかりだよ。だから心配し過ぎ」

 完璧な笑顔でそう言う我が子に胸を撫で下ろし、彼女は今日も稼ぎに行く。

 昼は事務員・夜は水商売。

 動ける時間は全て金に換え、明日・明後日へ繋いでいくのだ。


 母親を見送った達悉は、制服に着替え扉の前に立ち、

 大きく吸い、

 深く吐き、

 扉に手を掛け、

 ゆっくりと押し開き、

 まず一つ、

 前へ——



 プチッ

 ブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチ



「ヒッ!」

 思わず取って返そうとする足を全体重でとどめ、次へ歩ませる。

——欺瞞だ。

 本当にそれを気にしているのなら、部屋の中でも感じなければ。

 それが無かった以上、思い込みから来る錯覚でしかなく、優しさではなく弱さである。

 全て偽善。傷つく資格無し。

 足下で何かを弾け潰す感覚を、出来るだけやり過ごそうととにかく踏み出す。

 頭は空っぽに、焦点は出来るだけ遠く。

 考えてはいけない。

 感じてはいけない。

 身体に叩き込んだいつも通りの進路を、脳を殺してなぞるだけ。

 それでも、その感触は大きくなっていく。

 無視しようとすればするほど、言い訳できないくらい目を逸らせなくなる。

 

 プチ

 プチ

 ブチ

 ブチ

 


 



 心臓が跳ね上がる。

 今までで一番酷い幻覚。

 もう辛抱堪らず駆け出してしまう。

 だが心因性の異常によって胃の中が掻き混ざっているまさにその時、急に激しく動けばどうなるか。

「う、うぐ…」

 必然、内容物が逆流する。

「ごぉぉぉぉう゛ぅぇぇぇええええおおおおこぉおおお」

 堪える隙も無く、道端を汚してしまう。

 彼は屈んで自らの身体で覆い、その汚物を隠そうと試みる。

 羞恥心。

 食べた命を無駄にして、聞き分けのない子供のように、公共の場で吐き戻す。

 命を奪って傷ついているクセに。

 それが、ただただ恥ずかしかった。


「ヘーイ!」


 背中に衝撃。

 上半身がもろに吐瀉物へと押し付けられる。

「朝からなあに人様にメーワク掛けてんだよ?ええ?」

 振り向くと、ガタイの良い美形の笑顔。

 彼のクラスメイトであるナオだ。

 親がお金持ちでバスケットボール部所属。クラスどころか学校の中心人物。

 その行動原理は極めて刹那的で、面白いか・「イケている」か・そうでないか。

 慕われ、そして恐れられている男が、達悉の背後に迫って来ていた。

 どうやら何時の間にか、高校のすぐ近くだ。

「キタネーなあ!俺が洗ってやるよ!」

 ナオは後ろから襟首を掴み、有無を言わさず隣の公園まで連れて行く。

 閑散としているそこには、御多分に漏れず公衆トイレも設置してあった。

 その男性用個室に引き込まれ、便器の中に顔を突っ込まれる。

 臭気の籠った水が流され、気管まで犯していく。

「しっかりトイレに流さねえとなあ?ついでに掃除もしろ。お前の顔が雑巾だ。俺が始業時間に間に合わなかったら罰ゲームな」

 再びせり上がる中身を必死に抑えながら、従順に黒ずみを舐め取っていく。

 やり遂げるまで終わらない。それが経験則。

 

 ナオが早めに飽きてくれるのを祈りながら、


 達悉は、

 穢れた自分で汚れを取ることに没頭した。

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