74.こんなに一歩が怖いなんて

 リリアナの手が私に触れた。おどおどと触れて、すぐにきゅっと力を込めてくる。不安だったのね。こんなときに義父のオスカル様も、仕事だから。きっと怖かったのだわ。


 手を握って欲しいと強請った自分の判断は間違っていなかった。今の見えない私にエルを抱くことは無理。それならリリアナは、私が助けてあげたい。この温もりが、とても大切に思えた。


「ティナ、リリアナ。ベルトランが来たわ」


 お母様の声に、馬の嘶く声や蹄鉄が石畳を踏む音が重なった。驚くほど物音に敏感になっている。今までなら聞き逃した音が、体全体に響く。誰かの足音、小さな声、外で何かが倒れる音まで……恐ろしくなって足が竦んだ。


「お姉様、私がいるわ。ちゃんと目になるから」


 震えが伝わったのだろう。リリアナがしっかりした声で請け負う。まだ幼く守られる側の子どもなのに、私の手を握る指先から覚悟が伝わった。


「ありがとう、リリアナ。お願いね」


 ぎこちなくも笑顔を作る。


「右肩に触れるわよ、ティナ」


 お母様は事前に声をかけ、私の肩を叩いた。その手を滑らせて、しっかりと右腕を組む。ぴたりと体を寄せて、命令を発した。


「お待たせいたしました、エリサリデ公爵夫人。皆様を宮殿までお連れし、守るよう仰せつかっております」


 ベルトラン将軍の声だ。力強く、不安が少し薄れた。彼はカルレオン帝国の将軍職を預かる実力者だ。多くの騎士も同行しているから、もう安全だわ。自分に言い聞かせて、強張る体から力を抜こうと試みた。


 明日、身体中が痛くなりそうね。緊張し過ぎると、あちこち痛かったことを思い出す。深呼吸する私に、お母様はひとつずつ説明してくれた。


「ティナ、これから宮殿へ向かうため馬車に乗ります。声を掛けるから、歩いていけるかしら?」


「はい。リリアナも手伝ってくれますので平気です」


 左手が掴んだ幼子を信じている。右腕を絡めた母の優しさを疑わない。だから歩けると言い切った。


 小さな段差や部屋の境目、廊下に置かれた花瓶台を避ける指示。二階がなくて平らで過ごしやすい家だと思っていたのに、実際はまったく違った。見えないと、踏み締める床が絨毯になるだけで段差を感じる。まっすぐ歩いているつもりで、どちらかに傾いていく。


 時間が掛かるし、見ている方は怖いだろう。それでも母やリリアナは、あれこれと指示を出しながら歩くことを許した。ベルトラン将軍や騎士に運ばせれば、すぐなのに……その気遣いが嬉しかった。


 出戻っても未婚令嬢――婚約者や家族以外に抱き上げられるなんて、醜聞になる。こんな時でも優しい、そう思ったら胸の奥が温かくなった。


「手を……そうよ、馬車の入り口。このまま足を上げて」


 指示に従って馬車に辿り着いた私は、乗り込んですぐ椅子にぐったりと身を投げ出した。すごく疲れる。いつも当たり前に歩いていたのが不思議なほど、足を上げる高さや歩幅が分からなかった。


「安全にお運びします。宮殿に医師を手配しました」


「ご苦労様」


 労う母の声に、踵を鳴らす音が重なる。敬礼するベルトラン将軍の姿が見えた気がした。

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