70. お姉様って呼べるのは秘密
幼いリリアナを抱き締めれば、その温もりに安堵の息が漏れた。腕の中で確かに鼓動を刻む、まだ弱い命が私を奮い立たせる。この子だけでなく、隣のベビーベッドで眠る我が子も守り切らなくては、と。
「おね様、おやすみなさい」
「おやすみ、リリアナ」
寒くないよう肩までしっかり包んで、抱き寄せた。エルに目を向ければ、すやすやと寝息が聞こえる。外から昼間の明るさがわずかに忍び込んで、真っ暗ではなかった。分厚いカーテンの隙間から入る日差しが揺れるのを見ながら、訪れた眠気に身を委ねる。
夢を見た。私はこの屋敷ではないどこかの中庭で、用意された長椅子に座る。学院の制服を着たリリアナは、6歳くらい? 今より大きかった。元気に走る彼女は、小さな男の子の手を引いている。
「リリアナ、エル。戻ってらっしゃい」
声をかける私に、二人は笑顔で駆けてきた。受け止めるために両手を広げた私を、隣で微笑むオスカル様が……っ!
そこで目が覚める。びっくりしすぎて、一瞬呼吸を忘れた。苦しくなって、音を立てないようゆっくり息を吐き出す。すると呼吸を思い出した体が、新しく息を吸った。夢と現実の区別が曖昧だった頭が、急速に働き始める。
「……ゆめ……」
もぞりと動く腕の中の温もりに、リリアナと一緒に眠ったことを思い出す。だからあんな夢を見たんだわ。成長した姿をひと足先に見られたなんて、得した気分ね。
上掛けに潜るようなリリアナの銀髪を撫で、手元に引き寄せた。ぴたりと張り付いた体は柔らかく、温かくて猫のよう。くにゃりと曲がる体が、私の腕にしがみついた。
「う、ん……おかぁ……さま」
すりりと頬を寄せる彼女の口から、母を呼ぶ声が漏れる。生まれてすぐに寝込んだ母の記憶は、リリアナにないだろう。触れ合った温もりも、抱き上げてもらった記憶も、この子は持っていない。それでも話に聞く母に憧れているのね。
この年頃の子は、両親に愛されて何も不安なく過ごす。不幸にも実母が亡くなり、義母に疎まれてしまった。父は庇ってくれず、叔父に連れられて養子に出る。僅か3歳にして、波瀾万丈過ぎる人生だった。
起こすのをやめて、再び横たわった。窓の外から差し込む日差しは、かなり傾いている。寝る前と違う位置を照らす陽光は、黄色がかった赤だ。もう夕方なのだろう。
昼夜逆転してしまった。生活リズムを戻さなくてはいけないわ。リリアナの髪を手で梳きながら、エルの様子を確かめる。上掛けの色が変わっているから、私が寝ている間にミルクやオムツ交換をしてくれたのね。
起きているようで、小さな手が柵に伸びて握りしめた。すぐに離して、今度は上掛けを蹴飛ばす。元気なエルにふふっと笑った動きで、リリアナが起きた。
「……お父様? 違う、お姉様だわ」
寝惚けて呟いた言葉に自覚はないのだろう。あふっと欠伸を手で押さえて、彼女はまた眠りの舟を漕ぐ。数回中途半端な目覚めを繰り返した後、ようやく身を起こした。
「おね様、おはよぅ」
さっき、きちんとお姉様って発音できてたのに? でもいいわ。知らないフリをしてあげる。女の子には秘密のひとつや二つ、あった方がいいもの。
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