二 稲木勘兵衛、首をとること
荒井の者たちは駆けた。竜の前立のついた
山に入ると、険しい岩場と生い茂る木々が侍たちを迎えたため、彼らは馬を残して徒歩でなおも薄暗い中を突き進んだ。
山中に分け入ると間の兵たちも姿を現し、ところどころで掴み合い斬り合いが起こった。間家の者は皆まじない者で、兵はことごとく化生の類だと信じていた者もいたが、実際のところ彼らは太刀や矢を受ければ死ぬただの人であった。荒井の者たちは徐々に恐れを解いた。
そも彼らが強力な
稲木勘兵衛も山を登った。彼ははじめ二人の侍と共に進んでいたが、鉢合わせた敵と乱戦になり、一人は殺され、もう一人とははぐれた。
勘兵衛は間の兵二人を槍で突き殺した。彼らはどちらも息絶えるとき、異国の念仏のようなものを唱えた。その顔は笑っていた。それを見てにわかに恐ろしくなった勘兵衛は戦から逃げ出した。これ以上敵中深く攻め進む気になれない勘兵衛は、木々の奥へと分け入り、戦場から離れようとした。
勘兵衛はかねてより荒井の家中での出世を望んでいたが、かといってこの気味の悪い国との戦はどうも気が進まない。とうとう彼は戦が終わるまで身を潜めることに決め、目立たぬ場所を探した。
やがて崖下に出た。ちょろちょろと流れる小さな滝を臨む岩場であり、ねじくれた木々の葉に遮られ陽はほとんど届かなかった。勘兵衛は太い幹に背をもたせて腰をおろすと、落ち葉をかぶって身を隠した。
時折、遠くから鬨の声や叫びが聞こえた。勘兵衛は疲れ、いつしか眠りに落ちた。
勘兵衛が目を覚ますと、陽は陰り、小雨が降っていた。雨水が枝葉を伝い、彼の甲冑を濡らす。戦はどうなったであろうか。勘兵衛が耳を澄ましていると、足音が聞こえた。足音は重く、一歩一歩と濡れた葉を踏みしめ近づいてくる。勘兵衛は息をのんだ。
やがて木の陰から侍が現れた。その者はゆっくりと歩き、小滝からつづく小川のそばに来ると膝をついた。侍は勘兵衛の存在に気づいておらず、彼から四間と離れていない場所で兜を脱いだ。白髪頭が現れ、うめき声が漏れた。
勘兵衛は息を殺して動かず、老武者をじっと観察した。異国風の意匠を施した赤糸縅の鎧と、
勘兵衛は胸を踊らせた。これは願ってもない好機だ。この貴人の首をとり、山を下りようと思った。彼は戦から逃げたが、逆に手柄は彼のもとに転がり込んできたのだ。勘兵衛はやおら身を起こし、槍を掴むと老武者に飛びかかった。
老武者が勘兵衛に気づいたとき、すでに彼の首元には槍の穂がぴたりと当てられていた。
「ふ、ぬかったわ。荒井の侍か。」老武者は自嘲するように言った。
「
「
勘兵衛は警戒した。「間の家はまじない者だと聞く。貴様は何か企んでおるな。」
「ふ、愚かな。確かに我らは遠くよりこの地に来たるもの。だがまじない者などであるものか。そうであれば、かような不覚はとらぬよ。そなたらが勝手に思い込み、それが幾代も我らの守りになっておった。だが秀興は剛の者よな。なんと呆気ないことか。遂に我らの時は来たのだ。」老人は呟くように言った。
勘兵衛は拍子抜けした。妖と思えた間もこうして見ればただの人。顔の見えぬ敵をいたずらに恐れていた自分たちを彼は恥じた。
「そなたらの手の者が鬼のごとく押し寄せ、門は落ち城も焼けた。我も遂に逃れおおせぬ定めであったわ。」実臣は終わりを悟った者の快活さでなおも淡々と語る。「ところで、大人しく手柄をくれてやるからには我の頼みを聞いてはくれぬか。我が首と共にこれを埋めてほしいのだ。」実臣はそう言って腰に下げた竹筒を差しのべた。
「それは何だ。」
「百足だ。我らにとってこれは縁起物。」実臣が竹筒の蓋をとって見せる。なるほど、その中には黒光りする大きな百足が一匹うずくまっていた。「百足は必勝の祈願にして、我らにとって神の使いだ。頼む。」
「いいだろう。預かっておく。」
「恩に着る。これで安らかに逝けるわ。さて最期に、そなたの名を教えてくれ。」
勘兵衛は逡巡した。そのとき実臣の目に妖しい光が灯ったように思えたからだ。だが彼は、死にゆく敵の耳に己が名を刻みたいという渇望には勝てなかった。これは彼が初めて成した大きな武勲なのだ。
「稲木勘兵衛、
「稲木勘兵衛、天晴れぞ。そなたの手柄を持っていけ。」
実臣は頭を垂れ、勘兵衛はその首を落とした。老人の首は、胴を離れてなお笑っていた。
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