百足の城

SUMIYU

一 化生の櫛

 酒見国さかみのくにの大名、荒井家の家臣に稲木勘兵衛いなぎかんべえという侍があった。

 稲木の家はもと紀伊の商人であったと伝わるが、それが流れ流れて酒見国に至り定住し、勘兵衛の祖父の代に荒井に召し上げられた。勇猛な戦人であった祖父は勲功によって小さな領地を授かり、闊達で義に厚い主人として領民からも慕われた。勘兵衛の祖父は齢七十を越えて死んだが、それから一年も経たぬうちに父も病に倒れ世を去った。

 勘兵衛には二人の兄がいたが、長兄は戦の傷がもとで死んだ。次兄は元来の痴者として知られた。素行が悪く乱暴が過ぎるために見限られ、齢十八のとき十分な銀を持たせた上で放逐されていた。

 こうして勘兵衛は父の跡を継ぎ稲木家の当主となった。荒井の家臣の中で彼は決して目立つ存在ではなく、祖父の獲た領地を維持することに精いっぱいであった。妻や子と共に質素な暮らしをして、刈り入れ時などには領民にまじって汗を流すこともあった。


 荒井家の治める国の西側には広大な山地があり、その頂には剣のようにそびえる峰々が連なっていた。それは冬になれば白雪に覆われ、研がれたばかりの刃のように輝いたが、その景色を美と結びつける者はほとんど無かった。むしろ、荒井の人々はそれを指して「化生けしょうの櫛」と呼んでいた。

 その故は、山地の奥深くに居を構えるはざま家にまつわる色々の噂に因った。間家は謎めいた一族で、多くの人々が蝦夷のまじない者の家柄だと信じていた。あるいは国を追われた高麗の貴人の血が流れるとも言われ、想像力に富む人々は彼らが本当は皆化け狐であるとか、人を食う鬼であるとかしきりに噂した。雪を頂く峰々を背に平野を見下ろす間の城の、朱に塗られた大門や唐風の屋根を遠くに眺めるとき、荒井の者たちの心胆はどんよりとした恐れにざわめくのだった。


 荒井家は間家と何代も緊張状態にあり、小競り合いが頻繁に起こっていた。間の者が山を下りて小村を襲うこともあったし、荒井の侍が山中で間の兵を仕留めたこともあった。荒井の者たちは大川の西に長い柵を築き、常に山からの襲撃を警戒していたが、山の奥深くに踏み入ろうとはしなかった。そうしようと試みた父祖たちもいたが、多くが帰らぬ人となった。生き延びて戻った侍たちも気が狂ったり、手の施しようのない奇病にかかりやがて死んだりした。講和のために使者が遣わされたこともあったが、そのすべてが消息を絶ち、間からは一言の返答もなかった。ゆえに荒井の者たちは危ぶみ、容易に山地には近づかなくなった。


 勘兵衛が稲木家を継いでから五年後、主君である荒井の殿が没し、長子の秀興が当主に収まった。若き秀興は燃えるような目をもつ強弓の武人で、まったく恐れ知らずだった。秀興は荒井の者たちの、間家に対する逃げ腰の姿勢にずっと苛立ちを覚えており、家の上に立つとすぐに強硬な態度を顕わにした。

 秀興は間の城からよく見渡せる場所に練兵場を作り、そこで公然と、見せつけるように侍たちを鍛錬した。また秀興は銀で兵を買い集め、彼らに人夫を護衛させながら山地の麓の木々を切り倒し、炉を盛大に燃やして武具を作った。

 老臣たちの多くは秀興の早まった行いを諫めたが、秀興は耳を貸さず、彼らのうち幾人かを蟄居させた。


 やがて間家から使者が訪れた。曰く、秀興殿の狼藉と無礼は度を過ぎており長年の平穏な関係を打ち壊すものである。しかし当方としてはこの過激も殿の若さゆえであると信じるから、今すぐに矛をおさめ我らのあいだの和平を取り戻すように勧める。であればこれ以上非難しないし、もしこの忠告を容れぬなら当方も抵抗せざるを得ない、とのことであった。

 秀興はこれを聞くと怒り、自ら筆をとって返答をしたためた。言うに事欠いて平穏な関係などと、侮りもほどほどにせよ。そなたらは昔から得体の知れぬ妖術と恐れで我が国をかき乱し、当方からの使者もその汚らわしい手にかけてきた。それを今さら和平だなんだとのたまうなど恥知らずの極みである。これが我らの答えであるから、せいぜい戦の準備をして待つがよい。

 秀興は一気呵成に書き上げると、文を筒に入れ、三人の使者のうち一人に投げ渡した。そしてあとの二人の首を刎ねると、その首を返答として持ち帰るよう言い渡し、彼を鞭打って追い返した。さらに秀興は殺した使者の胴を裏山にぞんざいに投げ捨てさせた。


 秀興はすぐさま戦の準備を命じ、荒井の軍勢は陣を敷いた。陣にはもちろん稲木勘兵衛の姿もあった。

 間からの返答はなかった。だが不思議なことが起こっていた。荒井の者たちが築いた川向こうの柵すべてが一夜にして朽ち果て、表面に無数の穴が開いていたのだ。触るとそれは音を立てて崩れ、風に乗って霧散した。

 さらに山地には濃い霧が立ち込めた。間の城はすっかり隠れ、朱の大門も、唐風屋根も何も見えなくなった。霧の海を突き破るように「毛性の櫛」の先端だけが輝いていた。

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