第二話 翳る道化




 三限目の授業を終える鐘が鳴った。教室から一斉に師徒が出ていき、廊下が人で溢れかえる。講義中の緊張や沈黙が解け、解放感からくる穏やかな空気が飽和していた。一日の時間割は五限まであるが、ほとんどが選択科目であるため日によって講義数は異なる。そして空いた時間を自由に過ごしたり、妖魔を討伐する任務にあてがうのだ。

 全ての講義を終えたディノたちは休憩時間に話し合っていた夕食を、校外にあるレストランで食べることに決め、学校を出るためにロッカーの整理をしていた。

 聖書を下敷きにして積み上げられた教科書の上に、崩れないよう薄い参考書を乗せると、あとは見ないフリをして鍵をかけた。綺麗に積まれていれば問題ないのである。ディノに元から整理の概念はなかった。

 メドのロッカーへ向かうと、彼は書物を出し入れしながら物の配置を思案していた。持ち物の大部分が分厚い本だから、場所を取られることに悩んでいるようだ。

「ぜんぶ学院に置いておく必要はないだろ。いくつか持ち帰ればいい」

「それでもふと読みたくなる時があるかもしれないだろ。だから困っているんだ」

 後ろから中を覗くと、ディノは大袈裟にため息をつく。

「はぁー几帳面だなぁお前は。オレの教科書は角が曲がったり折れたりしてるのに、持ち主の扱いがいいとこんなに違うのな」

「君の参考書のタワーがいつ崩れるか楽しみだね」

 取り出したいくつかの書物を抱え、中身をパラパラと眺めながら優先順位を決めていく。

「早く終わらせようぜ。任務前に食わなきゃ腹が減っちまう」

「まだ時間はあるだろ。早食いしたくせにもう消化したのか」

「早食いじゃない。遅食いだ」

 メドの手元を見つつ、数冊の背表紙に目をつけると、ディノは腕を伸ばし一冊ずつロッカーから引き抜いていった。

「何してるんだよ」

「これはもう何ヶ月も出してないやつ。これはもう終わった講義の参考書。これは学校に全く関係ない趣味の本。そしてよく使ってるけどあまり役立たない教授の書いた論文。聖書。これだけなくせば新しい本も入るだろ」

「これから使うかもわからないのに……」

「一秒でも使う時は来ねえよ。オレはもう捨てたりしてるし。部屋に置いておけば十分だろ」

 ロッカーに寄りかかっていた肩を浮かせ、ディノは本を持ったままその場を離れていく。

「君は何事も突然すぎるんだ」

 動く前に言ってくれたらわかるのに、と彼の背を追いかけて行く。

 しかし、ディノはメドのことをよく見ている。本をどんな頻度で使っていたかは本人ですら曖昧だったというのに、大雑把な性格でありながら人一倍、彼は視野が広い。一限目の授業もそうだった。俯瞰した視点で物事を捉え、誰よりも積極的に世の中の情報を取り込んでいる。ディノは契約を求める度にメドの能力に感心していたが、よっぽど彼の方が優秀であると、メドは常々思っていた。

 契約を認めない理由も、明確に言葉にしなくてもディノは察しているのだろう。だから強要されることもなかった。彼はわかっている。全てが見えている。

 それから室内から出て外廊下を歩いていた二人だったが、中庭へ入ったところでディノが急に踵を返し、来た道を戻り始めた。嫌なものを見た、といった仕草だった。

「……おいディノ、あれ……」

 思わずメドも戻りかけたが、無視できぬ状況を前に彼は立ち止った。振り返った先には、木の葉の舞う木の下で、背の低い少年とそれを囲う二人の師徒がいた。

 どうやら言い合いをしているようだったが、それにしては襟首を掴みあげたり髪を引っ張ったりと動作が激しい。しまいには頭を押さえつけられ跪かせようとしている。

「たぶんあれは道化師だ」

 衝動的に走り出したメドだったが、すぐ反応したディノが肩を強く引いて止めた。

「関わるな。他人のいざこざに巻き込まれたくないだろ」

 メドは肩の手を払う。

「どうしてだよ。この俺に見て見ぬふりをしろってことか?」

 つまり、同族である道化師を放っておけないと彼は言いたいのだ。その同情と責任感は彼自身の、道化師の美徳ではあったが、今それを発揮するのは得策ではない。

「きりがないと言ってるんだ。こんな光景、学院を探せばいくらでもあるのは知ってるだろ。それを見つける度に片っ端から制裁を加えても根本的な解決にはならない」

 派閥に属している傀儡師の貴族の中には、道化師を虐げるとこをよしとする者たちが多くいた。立場が弱いのをいいことに、権力を振りかざしてあらゆる理不尽を強いるのである。家や派閥が絡むと事情が複雑になるから、そういった行為を見ても目を瞑る人がほとんどだ。おかげで学院では知られた風景となってしまっている。

「だとしても、今助けたって……こんなことが起こらないよう君は動き出したんじゃないのか」

「メド。俺は正義になるつもりはない」

 夕闇の瞳がやけに穏やかであるのを、真正面から受け止めたメドは違和感を覚えた。メドの中ではまだ焦りは抜けきれず、今も自分の後ろで繰り広げられている悲惨な状況をどうにかしてあげたい気持ちでいっぱいだった。しかしディノは最初からそんなものなかったかのように、二人きりで喋っていた時と同じ表情を向けている。

 時々、メドはわからなくなる。彼の冷淡さが不意に顔を出す時、いつもの飄々とした彼の姿を見ている者としては、一体どこにその二面性を共生させているのだろうと、不思議なくらい冷たく感じるのだ。それは窮屈で暗い貴族社会に揉まれて生きて得たものなのか……。

「人助けが全体に影響を与えるならとっくにやってるさ。でも元を辿ればこんな状況を起こしたのは社会が原因だ。オレはそこを変えたくて動いてる。小さなことに首を突っ込んでいる暇はない」

「君の考えは承知してるけど、俺は感情に流されやすいタイプでね」

 体を半分ほど捻ったところで、また強く二の腕を掴まれた。

「ディノ!」

「お前が袋叩きにあうのは見過ごせないからな。一人では行かせないぜ」

「まさか。そんなひ弱じゃない」

 二人は探るようにじっと見つめ合った。ここまでくると意固地になってどちらも引こうとしなくなる。特にメドは頑固なところがあるから余計だった。それを察して、ディノはだんだんと諦めの色を見せた。

 ため息をついて手を離す。

「そこで待ってろ」

 本を押し付け大股で中庭へと挑んだ。彼が一人で行くのはそれはそれで不安だったが、メドは言われた通り待つことにした。悔しいことに、道化師を下に見ている奴らに立ち向かったところで力以外で勝てることはない。道化師が虐げられる理由の大部分はそこにある。ただ殴り合いをすれば済む話ではなく、権威というのはそれだけ師に影響を与える大きな力なのだ。

 しばらくして、ディノは少年を脇に抱え戻ってきた。遥か後ろで二人の師徒が一目散に駆け出している。

「ほら、追い払ったぞ。これでいいだろ」

 不貞腐れた様子で少年を下ろす。乱暴に扱われたせいで、少年の髪はあちこちが跳ねて服は土で汚れていた。ひとまず穏便に事がすんだことにほっとし、メドはしゃがんで少年に話しかけた。

「君、大丈夫か。怪我してるなら医務室に行こう」

 少年は首を振って立ち上がると、目も合わせることなく足早にその場を去った。メドは心配そうに小さな背中を見送る。少年が虐められた原因は何だったのだろうか。

「あいつ、どこかで見たことがあると思ったら、昨日の会食で会った道化師だった」

「……え、本当か?」

「ああ。パートナーがどうとか言ってたし、契約が結べなかったことを嗤われたんだろうな」

「そうか……。君と引き合わせられるくらいだ。彼もそれなりの家柄だろうに、馬鹿にされるなんてね」

 酷く残念そうに肩を落とす。どんな立派な地位を築いても、傀儡師の前では無力だという現実がメドの胸に突き刺さった。田舎者の自分が前に出ていたらどんな罵詈雑言を浴びせられたことだろう。ムキになって助けようとしていたことが急に情けなく感じた。

「貴族階級なんてあってないようなものだ。結局は傀儡師か道化師か。それだけで決まる」

 行くぞ、とディノは歩き出す。風に運ばれてきた葉を踏みしめながら、ふと思い返した。

 昨夜の少年と先程の少年とでは、随分とイメージが違っていた。ただの典型的な若い道化師だと思っていたのに、救い出した時に見た彼の瞳は反抗的で、爛々と怒りに燃えていた。

 あれが少年の本性なのかはわからない。けれど仮面を被ったような表向きの振る舞いよりも、感情をむき出しにしたあの時の方がもう少しまともな話が出来そうな気がした。

 元より、ディノはメド以外と組む気はないが、もし通じるものがあったなら、少年と違う形で関わることができたのではないか。

 どのみち仲間にならなければ、意味はないが。





 





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