ゲヘンナ・ロンド
狗柳星那
プロローグ 腐りきった血
オルヴィス家では月に一度、種族間の親交を深める会食が行われる。
粛々とした空気の中で料理が運ばれ、カラトリーの触れ合う音が優しく響く。時おり上品な笑い声を零しながらワイングラスに手を伸ばす淑女たち。一口大に小さく切られた肉を少しずつ食べていき、これまでの歴史やここ最近の世情、これからの我々の行き先について語り合っていた。相手の家はオルヴィス家に匹敵するほどの地位を持つ由緒ある家柄だったが、その言葉の端々にはへりくだった態度が透けて見えた。
招いた側と招かれた側ではその時点でどちらがより上であるかは明白だ。人脈を広げ社会的地位を上げるのは古くからある貴族の常套手段だった。けれどこの関係は単純なヒエラルキーで出来上がったものではない。
「悪い、遅くなった」
執事によって開かれたドアから少年が現れた。少年と言っても、今年中にはもう成人を迎える若者であったが、その歳にふさわしい大人びた風貌に、相手方の家の者はほう、と感嘆の声を漏らした。
すらりとした背丈に程よく鍛えられたたくましい体。細い顎にハリのある若々しい肌、そして鬣のような柘榴色の髪と、その間から夕闇の瞳が淡々とした眼差しを送る。とある絵師がオルヴィス家を描く際に絶賛したほど、その見目麗しさは関心を引くものだった。
彼はこの家の嫡男、ディノ・ブラント・オルヴィスである。任務から帰ってきて早々、この会食の主役として身を整えて参上した。
しかしどうも、彼の機嫌は良くないようだった。この場にそぐわぬ仏頂面でテーブルの前に歩を進める。すると横柄な態度でこう言った。
「今回の候補者はお前か」
目が合ったご子息はおっかなびっくり返事をした。失礼でしょう、と母親から注意を受けるも、まったく聞く耳を持たずにドアの方へ手を向けた。
「長々と話したってつまらないだろ。相性を知るには実際に力を見せ合うのが早い。外に出よう」
食事中よ、とまた鋭い声が飛んだが、今の彼はとてもそんな気分ではなく、むしろ皿の上にのったミディアムの肉が赤い色を帯びているのを、吐き気がする思いで見ていた。これよりずっと酷いものを浴びてきたところだった。それは生臭く、黒く、穢れていて、怪しい煙を纏うもの。
子息を連れて少し肌寒い屋外へ出る。庭をぐるりと回って行くと、柵と木に囲まれただだっ広い場所が見えてきた。ここは昔オルヴィス家が乗馬訓練場として利用していたが、使われなくなってからは剣術などの練習場という体で放置されていた土地だった。
ディノは乾いた土を踏みしめて空を見上げた。ほとんどの星は雲に覆われてしまい、月も半分だけ姿を隠して綺麗な三日月を勿体ぶらせている。飾り気のない殺風景な場にお似合いの天気だ。
「なぁ、お前はこれからどうなりたい」
突然問われたご子息は今度こそきりりとした態度で望んだ。
「もちろん、傀儡師であるあなたの下につきたいと思っております」
「……それが本心なのか?お前は家の都合で流されるままここに来たはずだ。オレと契約を結べば最高の後ろ盾ができるからな。お世辞や建前は通用しないぜ」
「何も嘘はございません。こうやってディノ様とお会いできたのは運命の巡り合わせと言いましょうか、きっとこの方に仕えるために僕は厳しい試練を乗り越えて来たのだと思います」
澱みない答えに、へぇ、とまるで興味を示さず、つま先で土の塊を蹴った。ディノからしてみればそんなつまらないことを聞くために質問したわけではない。道化の心など都合のいいまやかしだからだ。
通用しないと言ったのにわからないやつだな、と振り向いた彼は、薄く愛想笑いを浮かべてさらに続けた。
「じゃあオレと契約したらどんなことをしてくれる?」
「もちろん、傀儡師が剣なら道化師は盾に。どんな時でもあなたについていき、常に守り通すことを誓いましょう。決して裏切ることは……」
「たとえばだ。オレがお前のことをいじめたとするだろ、その時かなり酷い仕打ちを受けて怪我を負ってしまったとする。この場合どちらに罪がある?」
流暢に喋っていたご子息はとたんに黙ってしまった。なぜそんな質問をするのかという疑問よりも、どう答えようか迷っているようだった。もごもごと口を動かし、表情を伺いながら慎重に言葉を選ぶ。
「それは……あの……。……僕でしょうか。やはりそういった行為に及んでしまうほどあなたの気分を害してしまったということで……」
「どうしてそう考える?いじめる方が明らかに悪いのに。そうやって傀儡師を下げる発言を控えるようお前は教育を受けたんだろう。だからそんな考えしかできないでいる。でもそれは間違いだ」
心のない笑みは、宙に浮いたような不気味さがあった。
「オレたちは天秤の上で同等な生き物だ。先祖たちが妙な悪習を作ってしまったせいでそれが崩れてしまっているだけで、この関係は本来あっていいものではない。だから刷り込みで身についたその思想は正しくないんだ。お前も一度は違和感を持ったことがあるだろう」
離れていた距離を一歩ずつ縮めていく。風で揺れるライオンの鬣。堂々とした足取りで近づき、貴族の直系とは思えない野性的な自我がその眼差しから溢れ出る。ご子息は、急に彼がとても遠い存在に思えた。
「染み付いた悪習をオレは取り払ってやりたい。一度全部壊して、変えてしまいたい。お前たちが頭を低くする必要がなくなるように。もし、それに協力してくれると言うなら、契約しようじゃないか」
「……いえ、その……」
冷や汗を滲ませ、ご子息はゆるゆると首を振った。
「そんなこと、許されるはずがありませんよ」
何を言っているのかと。あなたこそ、間違っているとでも言うように。
「今の形を変えることはとても難しい。僕たちだってこんな世の中がおかしいことくらい分かっているのです。でも抗えない。力の前では僕らは何も出来ない……弱い存在なのです……そんなことをしたら争いは避けられないじゃあありませんか……」
震え、怯えて、影に隠れ、誰かに守ってもらわなければ潰されてしまう存在……。盾の道化師と例えられるがその実態は、権力に逆らえず粛々と命に従う悲しい奴隷だった。
「そうか。じゃあ、この話はなしだ」
それでも、彼には相棒が必要だった。ただの契約ではない、ともに現状打破のため力を合わせ戦ってくれる仲間が。
ただあまりにも、道化師たちの心は弱く枯れ果て再生の余地がないほどに朽ちてしまっている。同じ志で戦ってくれる者など滅多に現れることはない。
だからこそ彼は望んでいた。
ある友人の後ろ姿を思い浮かべ、今日も思いを馳せる。ああ本当に、いつになったら契約を結べる日が来るのだろうか。
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