第10話 メイドイン(2)

「えっ……と、沙織里さおり……さん?」


 すると、


「──────」

「??」


 なぜか神崎改め沙織里は、口元を右手で覆った格好で、目を見開いたまま固まってしまった。──いや、よく見ると肩が小刻みに震えている。見ようによっては、激しいショックを受けて固まった人の図、に見えなくもない。


「あのう……大丈夫ですか?」


 今の流れの、一体どこにそんな要素があったのかわからないが、勇気は心配になって尋ねた。

 すると、


「………………ちど」

「えっ?」

「……もう一度、呼んでいただいてもよろしいですか?」

「……はあ、それは構いませんけど……」


 よくわからないが沙織里からリクエストが入った。

 どうにも妙な雰囲気だが、すでに一度呼んでしまった手前、もはやさしたる抵抗もない。お望みとあらば何度でも呼ぶまでだ。

 ……などと強がってはみたものの、


「──では。あー……その」


 やっぱり、ちょっぴり気恥ずかしい。

 それでも、


「沙織里さん」


 どうにか噛んだりせずに言いきると──……


「──ッ、~~~~~~ッ」


 びくんっ、と沙織里が肩を大きく跳ねさせた。


「……いっ、いい……とっても、いいですう」


 彼女はうっすらと上気した顔に、どこか恍惚とした表情を浮かべつつ呟く。


(な……っ、なななな……っ)


 その瞳はなぜかうるうると潤んでおり、見ているとなんだかとてもイケナイ気持ちになってくる。端的に言ってエロい。


「あの、真田さま?」

「ひゃい! な、なんでしょう……?」

「僭越ながら、もう一つだけお願いしても?」

「……お願い、ですか……?」

「はい、大したことではないのですが」

「はあ……」


 本当に「大したことではない」のか、それは聞いてみなければわからない。


(大したことのないお願い、ねえ……)


 果たして本当に「大したことではない」のか、それはやはり聞いてみなければわからない。

 人生経験が不足しているなりに、勇気は最大限警戒レベルを上げた。当社比二百パーセントである。いくら世話になっている相手でも、おかしなことなら断らねば。目指すは「ノー」と言える日本人。


「ちなみに……どんなことですか?」

「そのう……笑わないでくださいね?」

「……はい」

「あの、一度だけでいいんです。わたくしを……『お姉ちゃん』と呼んでいただけないでしょうか?」

「………………え?」


 んんん? 今なにかおかしなことを言われた気がするぞ。


「ですから、その……わたくしを本当の姉だと思って『お姉ちゃん』と」


 どうやら、聞き違いなどではなかったらしい。

 本人は「きゃっ、言っちゃった」とばかりにもじもじとしている。その姿は可愛らしく、まるで告白の返事を待つ乙女のようだ。


「………………」


 勇気は思わず閉口した。

 別に嫌ではない、絶対にお断りというほど嫌なわけではないのだが……。


(思ったより「大したこと」なんですけど!)


 もちろん羞恥心的に。


 お姉ちゃん、それはありふれた名詞ながら勇気がこれまでの人生で一度も使ったことがない言葉だ。

 一人っ子の勇気に実姉は居ないし、そういった年齢に当たる親族や幼馴染みなども居なかった。加えて幼い頃の勇気少年はよそさまの年上女性に「お姉ちゃん」と懐くようなタイプでもなく。

 つまり、使う機会すらなかったのである。その機会がまさか今になって訪れるとは。数日前、少年から少女になってしまったことも含め、人生、何があるかわからないものである。

 とはいえ、


(どうしよう)


「……(わくわく)」


(うう……っ)


 今度はもう疑いの余地などない。明らかに期待されている。まるで散歩に行きたい飼い犬のようだ。もしも尻尾があれば千切れんばかりに振り回されているに違いない。


「……(ちらっ)」

「……(きらきら)」


(こんなん無理だよ……っ、断れないって)


 別に断ったところで何も問題はない。勇気は白百合家の客人であり、沙織里はあくまでも白百合家に雇われたプロの使用人だ。本来、主導権は勇気にあり、さらに言うなら道理だって勇気の側にある。沙織里だって現状が越権行為であることは重々承知しているだろう。


 だがしかし──、である。


 そもそも人心などという形のないよくわからないものは、得てして道理の及ばぬところにあるものであり、人は必ずしも道理に従って正しい方のみを選択して生きていけるわけではないのだ。それができるなら、きっと今頃、勇気だって女の子にはなってない。

 と、それはまあ例えがやや大袈裟にしても、


(ずるいですよ沙織里さん……)


 勇気には見える。「お願い」を断られた沙織里が浮かべるであろう、捨てられた子犬の如く打ちひしがれた表情が。


(もっと真面目なお堅い人だと思ってたのに)


 なんとなく裏切られた気分である。

 一度に親しみが湧いたのも確かだが。


(……まあ)


 やってもやらなくても、どのみちどちらかしらが精神的ダメージを負うのなら、この場合、やってしまったほうがいいだろう。そうすれば被害は勇気の羞恥心だけで済む。


(言っちゃうか。それにしても流されてるなあ……)


 ここ数日、病院で目覚めてからこっち、いろいろと流されっぱなしの勇気である。


「……一回だけですよ?」

「っ……はい!」

「こほん……」


 勇気は、自称「お姉ちゃん」の子供のような反応に苦笑いしそうになるのを堪え、


「……お姉ちゃん。~~~っ」


 口にした途端、顔が耳まで熱くなった。たぶん、首から上は真っ赤だ。

 しかし、沙織里の反応はそれ以上に劇的だった。


「~~~~~~っ、ゆうきちゃんっ!」


(ゆうきちゃん!?)


「か、かわいい!!」

「わっぷ!?」


 彼女の中で何かが振りきれてしまったらしく、突然、勇気を抱き寄せたかと思えば、


「ゆうきちゃんゆうきちゃんゆうきちゃんゆうきちゃんゆうきちゃんゆうきちゃんゆうきちゃんゆうきちゃんゆうきちゃんゆうきちゃんゆうきちゃん……っ、はぁん、かわいい! かわいいよう!!」


 と、それはもうとち狂ったように撫で回し始めた。


「ふがっ、ふぁふぉりふぁん!?」


 豊かな胸に顔が埋没し、うまく喋れない。

 というか、これじゃ呼吸すら儘ならない。


(し、死ぬ)


「──ゆうきちゃんゆうきちゃんゆうきちゃんゆうきちゃんゆうきちゃんゆうきちゃんゆうきちゃんゆうきちゃんゆうきちゃんゆうきちゃんゆうきちゃんゆうきちゃんゆうきちゃんゆうきちゃん──」

「う、うう~ん……」


 トリップした沙織里の暴走は止まることを知らず、勇気が酸欠で伸びてしまうまで、およそ三十分もの間、彼女は「ゆうきちゃん」を「かわいがり」続けたのであった(その後、我に返った彼女が大慌てで勇気を介抱することになったのは言うまでもない)。

 意識の薄れゆく最中さなか──……


(幸せな暴力って、明らかに矛盾してるけど……。ちゃんと成立するんだな)


 勇気はそんなことを思っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る