第四話 『迷宮都市オルテガと罪科の獣ギルガレア』 その559


―――世界には、傷つき疲れた者たちがいた。

多くの者たちが奪われて、いたいと願った場所から追放される。

きびしい世界は冷たくて、夏の星空にも凍える痛み。

ふらつきながら飢えた脚、やせていく腹で希望を探した……。




―――流れ流れて、流されて。

孤独な者に宿る引力のもと、夜の静寂を切り裂く場所へと誘われる。

そこにあったのは、空想が現実のすがたを得た場所だ。

華やかな歌声に、見事な踊り……。




―――愉快な気持ちにさせてくれる、コメディア・デラルテ/即興喜劇。

美しいものも、醜いものも。

笑いを生み出す娯楽の場所では、何もかもが大きな力を持っていた。

旅の若者は、「すごい」と口走る……。




―――厳しくて残酷な、『外』の世界とはあまりにもそこは異なっていて。

いつまでも、その場所で生きていたいと願ったのだ。

どこか不器用なところもあるが、マジメで勉強熱心。

芸術の魅力の謎を理解したいと、必死になった……。




―――アーティストたちの動きには、記憶と技巧と哲学が宿っている。

滑稽な動きでどんなに落ち込んだ者さえ笑わせる老人が、その事実を教えてくれた。

「記憶が生きているんだよ」、「これはあの美しい湖で見た水鳥の動き」。

「優雅な白鳥の長い首さ」、「それを想いながら演じるからこそ豊かになる」……。




―――「記憶というものは、芸人にとってはとても大切なものだよ」。

「それがあるからこそ、動きがホンモノに近づいてくれるんだ」。

「芸人が心を感動させるために必要なものは、世の中でたった三つだけ」。

「記憶と技巧と、哲学なんだ」……。




―――老アーティストの教えは、何とも難しいものだった。

「アーティストたちの全員が、感覚的な習得を好むものであり」。

「およそ天才であることが、その成長のしかたを支えている」。

「だいたいそれで困らないものの、お前のような不器用者がいるからなあ」……。




―――老アーティストは、男の師匠のひとりとなってやることを決めたのだ。

旅の多い暮らしのなかで、老アーティストは息子たちと妻を亡くしていたから。

残酷なほどきびしい世界のなかで、人々を笑顔にさせながら生きていくことは。

けっして、楽な生き方などではないのだから……。




―――流行り病に事故、笑顔を作るために人生を捧げ尽くしても。

世界と運命に嫌われるものであり、そうなれば悲しい別れに見舞われる。

「それでも、喜劇を演じるのだよ」。

「悲しいことがあるほどに、課題も得られるから」……。




―――「息子といっしょに、白鳥にエサをやってみたんだ」。

「古くなって、硬くなったパンの欠片をね」。

「水面の白鳥は、優雅な所作で浮かんだパンをつまんだのだよ」。

「息子は大喜びさ、あの所作は今でも私の記憶に生きている」……。




―――「記憶が、技巧を呼び寄せてくれるものでね」。

「あの日の再現をするために、やわらかくて流麗かつ高貴を目指す」。

「その高貴さそのものは、技巧的な美しさを帯びて」。

「その美しさが、生き方そのもの……哲学というものを表現してくれるんだ」……。




―――「記憶から、たくさんの力がつながっていってくれる」。

「そういう力を、君も信じているといい」。

「これらがあるからこそ、私の動きを真似ただけの者たちでは」。

「真の面白みというものを、表現しにくいのだよ」……。




―――「誰もが自分だけの記憶を持っていて、それからつながる力を信じる」。

「それが芸人の魅力となってくれるときもあり、それが笑顔を呼んでもくれるのだ」。

「たくさんの方法が、サーカスという混沌とした娯楽の場所には流れている」。

「どれもが古人の思い出がたっぷりと染みついた、何より興味深いものたちさ!」……。




―――才能のない男だった、それでも愛情だけは誰よりも大きなものだ。

「時間はかかるだろうが、たっぷりと教えてやろうじゃないか」。

「なあに、妻も息子も死んじまっていてね」。

「私には不出来な弟子を取るだけの、ちょっとした猶予があるものだ」……。




―――リング/舞台の上以外では、孤独な日々を送っていた老アーティスト。

彼の老いた目は、自分と同じ目をした才なき男を見つめられる。

年を取った男の多くがそうであるように、彼も『父親』になりたがっていた。

息子/跡取りを作って、自分の知識を受け渡してみたくなる……。




―――その価値が、男にはあると信じられた。

ただのひまつぶしではない、サーカスの表現能力のためには心の力も不可欠だ。

「お前は、悲しい世の中に笑顔を作ってやりたいのだろう」。

「それぐらいの大きな力が、サーカスのリングにはあると信じたのだろう」……。




―――老いたアーティストは、一切のよどみがない白鳥の動きで男を魅了した。

何かが始まりそうな気配に満ちた、その腕の動きだけに男は心を掴まれる。

「誰かを幸せにしようとしたいと願う、それが我々の芸術の根源的な部分だよ」。

「それだけは、お前はあるというのなら……私の教えを受ける権利があるのだ」……。




―――マジメではあったが、不器用が過ぎた男は。

人生で初めて、自分を受け入れてくれた者が現れたことに気づけた。

大喜びをしたけれど、それは笑顔ではなく喜びの涙。

「覚えておくがいい、その記憶がきっと君の芸の力となってくれるから」……。




彼は、人生で初めて本当の居場所を見つけたの。



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