第四話 『迷宮都市オルテガと罪科の獣ギルガレア』 その393
―――星々を見つめながら、レナスは大きく息を吸い込もうとする。
子供のときから鍛えられた、手慣れたはずのプロセスだよ。
『まずは横隔膜を感じ取りなさい』、古びた声楽の手順にしたがおうとした。
その瞬間に、天才は不調を察していたよ……。
―――当然だろう、だってすでに自分の肉体は死んでいるのだから。
魂の残りかすみたいな存在には、横隔膜だってないんだよ。
音楽をするときに、これはとても重要な筋肉だった。
息を大きく吸い込めるのは横隔膜のおかげであり、それ以外では真の発声に至らない……。
―――その横隔膜を、レナスは誰よりも上手に感じられるはずだったけれど。
今はそれがやれないんだよ、だって死んでいるからね。
『蟲』に代役をしてもらって、臓腑や筋肉や全身を組み立てていたんだ。
それはとてつもなく高度にヒトを模造したけれど、本物というわけじゃない……。
―――天才らしい知覚能力が、かえって仇になることも少なからず発生するものだ。
凡才であれば、この『極めてわずかな違い』を無視できるはずなんだよ。
そもそも、その差に気づくことさえやれないんだから。
レナスは死んだ『蟲』で作られた肉体の不純さに、大きな拒絶反応を起こした……。
「これじゃ、歌えないかもしれない……こんな、カラダじゃ……」
―――幼い頃からの鍛練と経験値と、知識。
それらで支えられた究極の才能が、不遜な自信喪失を与えていた。
天才だからこそ、完璧でないと自信を持てないなんてこともある。
それは才のない者からすれば、腹立たしいまでのいじけ方ではあった……。
―――レナスは、自分が見つけた事実に酷く傷ついていたんだよ。
自分に対しての失望ほど、気分を損ねるものはない。
多くの芸術家が、それに呑まれて命を絶って来たことを忘れちゃいけない。
だからこそ、そんなときのためにも習慣の力に頼るべきだ……。
「完璧からは、ほど遠いかもしれないけれど……カラダを、使いこなすんだ」
―――ニセモノの体に過ぎなくても、『蟲』はよくやってくれている。
そもそも『蟲』ですら、なかったのかもしれない。
幽霊の残骸みたいな、とても空虚な存在だろうから。
それでも、レナスは習慣に頼る……。
―――幼い頃から、どれだけの練習をしたのだろうか。
それらは苦になることはなく、無邪気な楽しみと喜びを与えてくれる。
大好きな行いは、誰よりも自分を救ってくれるからね。
レナスは自分自身に融け込んでいる、その習慣をひとつひとつ確かめていく……。
―――足の位置も、背骨の形も。
空気を鼻の奥底で踊らせるようにして、鼻腔の構造も再確認した。
現実と感覚をなじませていく、自分の構造はどれほど生きていたときと違うのか。
調律師が楽器を手懐けるように、歌い手も自らの全身を調整しながら把握するものだ……。
―――空虚な構造に、自分はやつれ果てていると知った。
衝撃的なことではある、生きている根拠を見つけられない。
とっくに死んでいるとは、どういうことなのかをレナスは学んだ。
喉を震わせながら、その部位を触る……。
―――喉の出っ張りは、男の特徴でもあるけれど。
去勢の影響なのかレナスのそれは、あまり大きくない。
おかげと言うのは残酷すぎて、ボクは使いたくない表現だけれど。
声変わりの影響が少なく、子供や女性に近しい声質を保てていたのは事実だ……。
―――空気を喉の奥で転がしながら、声帯を把握していく。
痛んでいるし、滅びそうになっているのが分かった。
ズタボロであり、それでも使うほかにない。
あきらめようとは思えないのさ、芸術家らしい本能がそこにあった……。
―――習慣に律してもらえる限り、芸術家の心は折れないものだ。
レナスは『自分が未熟なころに戻っている』、という前向きな対処を選ぶ。
膨大な知識と経験値と、類まれなる感覚と才能で。
今の自分を把握し直して、最適の歌い方を選べばいいだけ……。
―――声楽の教本を思い出していく、一言一句のすべてを記憶しているよ。
それらが新しい自分の本能として刻まれるほど、鍛錬をし尽くしているから。
自分の声の質をはかり、自分の肉体機能のすべてを診断していけばいい。
そうすれば、やるべきことは見えてくる……。
「リュドミナさま、お願いです。私を、手伝ってください……」
―――素直になれる、今このときならば。
リュドミナ・フェーレンは、詠唱長だからね。
聖句に対して、いかなる発音と発声と解釈で用いればいいのかを研究する専門家だ。
聖歌と祈りを、誰よりも研究した者のひとりだよ……。
―――リュドミナと過ごした時間のなかで、彼女がどれだけ専門知識を見せてくれたか。
尊敬すべき歌の専門家であり、その指導を自分以外に向けて発揮しているときでさえも。
レナスに刻まれた本能は、心にそれを記憶し続けていたんだ。
だぶんだけど、リュドミナも知っていたよ……。
―――聖なる任務のためだけに、ヒトが生きるなんて不可能だろう。
最高の純度を誇る殉教者たちにさえも、自分の人生があったんだ。
歌を愛する者たちは、共鳴し合うものだから。
リュドミナ・フェーレンのした指導の数々は、レナスにも継承されている……。
―――孤児たちのなかには、かわいそうな子たちも多かった。
村ごと焼き払われて、燃える煙を吸い込んでしまったせいで。
喉が焼けただれてしまい、発声が困難だった子もいたよ。
故郷も声も失った子にも、リュドミナ・フェーレンは熱心な指導を施していく……。
「大丈夫。女神イースは、あなたにもう一度、声をくれますから」
―――リュドミナ・フェーレンの、医学的知識の探求の始まりが何処だったのか。
それのすべてが判明すべきことはないけれど、それでもレナスは知っている。
喉を焼かれた子は、ちゃんとしゃべられるようになったんだ。
奇跡みたいな指導力のおかげで、歌を求めた力は誰かを救った……。
―――その努力と才能を、レナスは求めている。
『弟子』には、いつでも特権が与えられるものだよ。
師匠の言葉と知識が、魂に居座るように宿ってくれている。
死せるリュドミナ・フェーレンの指導が、レナスのすべてを調整していく……。
「壊れてはいます。失われているものも多い。それでも、知識や技巧や経験は、それらを補いうるものです。さあ、ひとつずつ、たしかめていきましょう」
―――夢でも幻でも、奇跡の力でもない。
芸術を追い求めた者たちのあいだには、不屈で不朽の絆があるものだから。
レナスは自分を、新しく変えていく。
リュドミナ・フェーレンの指導を、死んだあとでも覚えているから……。
「レナス。私も、あなたの歌を聞いてみたいわ」
―――聖なる任務から、解放された者たちがいた。
そのおかげで、今は習慣に頼れる。
レナスは自身の運命を、選ぶんだ。
最後の瞬間には、もちろん歌い手でいたかった……。
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